第6話 深淵の鼓動、地上の罠
深海の底。
アキラは、深淵の主の本体の一部に取り込まれた形で、海底遺跡の奥深くに存在していた。
彼の意識は、深淵の主の巨大な意識と常に繋がっており、そのおぞましい胎動を、肌で、そして魂で感じ取っていた。深淵の主は、まだ完全に覚醒してはいない。
アキラがコアに突き刺した白い破片の力が、その目覚めを一時的に抑制している。
しかし、その抑制は、まるで砂時計の砂が落ちるように、徐々に、しかし確実に弱まってきていた。
深淵の主の鼓動は、以前よりも強く、速くなり、アキラの心臓の鼓動と不気味に同期し始めていた。
アキラの体は、深淵の主の「血」に完全に染まり、もはや人間としての姿は失われていた。
肌はぬるぬるとした鱗に覆われ、指の間には水かきが張り、背中からは黒く巨大な触手が伸びている。
彼の瞳は、常に深海のような青緑色に輝き、光の届かぬ暗闇の中でも全てを見通すことができた。
しかし、彼の意識の奥底には、人間としての「アキラ」が、まだ確かに存在していた。
深淵の主の意識が彼を呑み込もうとするたびに、彼はリツコやタカシ、そして学院での日常の記憶を必死に掴み、抗い続けていた。
[……アキラくん……。抗いなさい……。彼らは……あなたを……利用しようとしている……]
アキラの意識の奥深くに、微かな声が響いた。
それは、かつての[そい姉さん]の声だった。彼女は、深淵の主の意識の内部で、微かな光を放ち、必死に抵抗しているかのようだった。
その声は、深淵の主の咆哮にかき消されそうになりながらも、アキラに語りかけ続けた。
アキラは、そい姉さんの声に、かすかな希望を見出した。
彼女は、深淵の主の意識の内部に存在し、その一部となっている。
もし、そい姉さんの意識を完全に覚醒させることができれば、深淵の主の活動を、内部から妨害できるかもしれない。
それは、深淵の主の力を逆転させ、そい姉さんの意識を「解放」しようとする試みだった。
アキラは、深淵の主の意識の奥深くへと、自身の意識を集中させた。
そこには、深淵の主の、おぞましい「記憶」が、無数の断片となって漂っていた。
それは、はるか古代から続く、深淵の主の歴史。地上世界への渇望。
そして、人間たちの「欲望」を糧として、力を増していく過程。
そのおぞましい記憶の奔流が、アキラの精神を押し潰そうとする。
その記憶の断片の中に、アキラは、そい姉さんの「意識」の核を見つけた。
それは、深淵の主の巨大な意識の渦の中で、微かな光を放ち、必死に抵抗しているかのようだった。
『……そい姉さん……!』
アキラは、心の中で叫んだ。彼の「血」の力が、そい姉さんの意識の核へと向かって伸びていく。
それは、深淵の主の力を逆転させ、そい姉さんの意識を「解放」しようとする試みだった。
深淵の主の本体が、激しく脈動した。
その鼓動は、海底全体を揺るがし、アキラの体を激しく揺さぶる。周囲の海底遺跡の瓦礫が、その振動で崩れ落ちる。
<何をする!? 愚かなる我が子よ! その残滓を……解放しようとでもいうのか!?>
深淵の主の咆哮が、アキラの意識を直接揺さぶる。
しかし、アキラは諦めなかった。
そい姉さんを救い出し、彼女の力を借りて、深淵の主を完全に封じ込める。
それが、彼に課せられた、新たな使命だった。
アキラの体から、青白い光が放たれた。
光は、深淵の主の意識の内部へと広がり、そい姉さんの意識の核を包み込む。
そい姉さんの意識は、その光に呼応するように、徐々に輝きを増していく。
深海の底で、アキラとそい姉さんの、新たな戦いが始まろうとしていた。
それは、深淵の主の意識の内部で繰り広げられる、精神と精神の戦いだった。
そして、その戦いの行方が、地上世界の運命を左右することになるだろう。
その頃、陽南水耕学院では夜が深まる中、タカシは物理実験室で、潜水装置の最終調整を行っていた。
彼の顔は疲労困憊で、目の下の隈は、もはや消えることがない。
潜水装置は、学院の備品と、彼が秘密裏に調達した特殊な樹脂を組み合わせ、なんとか水深3000mまでの耐圧強度を確保していた。
しかし、深海観測基地のある水深5000mには、まだ届かない。
「あと少し……あと少しなんだ……」
タカシは、唸るように呟いた。
彼の指が、キーボードの上を滑るように動き、潜水装置のシミュレーションデータを表示させる。
画面には、深海の複雑な潮流と、観測基地のシルエットが映し出されている。
その時、実験室の扉が、静かに、しかし確実に開いた。
タカシは、咄嗟に振り返った。そこに立っていたのは、生徒会副会長のリツコだった。
彼女の顔もまた、疲労の色が濃かったが、その瞳には、強い意志が宿っている。
「タカシ君、大丈夫? 徹夜続きじゃない」
リツコは、心配そうにタカシに声をかけた。
彼女の手には、温かいコーヒーが握られている。
「リツコさん……。ありがとう。でも、時間がないんだ。アキラが、僕たちに警告してくれている。深淵の主の活動が、活発化しているんだ」
タカシは、潜水装置の進捗状況と、深淵の主の兆候について、リツコに簡潔に説明した。
リツコは、彼の話を聞き、顔色を変えた。
「失踪した生徒たちの情報も、増えているわ。みんな、夜中に試験栽培棟跡地の近くで目撃されている。あの歌声に、引き寄せられているんだわ……」
リツコは、震える声で言った。
二人の顔に、焦燥の色が浮かんだ。
彼らは、自分たちが想像するよりもはるかに速いペースで、事態が悪化していることを痛感した。
その瞬間、実験室の窓ガラスが、突然、鈍い音を立てて割れた。
「何!?」
タカシとリツコは、咄嗟に身構えた。
割れた窓ガラスの向こうから、黒い特殊部隊服に身を包んだ、複数の人影が侵入してきた。
彼らは、顔を覆うヘルメットを装着し、特殊な装置のついた銃器を構えている。
その動きは、まるで機械のように無駄がなく、冷徹だった。
「動くな! 政府の『未確認現象調査局』だ!」
男の声が響き渡る。
その顔には、深い傷跡があり、目には深海の闇を宿しているかのようだった。
「あなたたち……何のつもり!?」
リツコは、恐怖に震えながらも、毅然とした態度で問いかけた。
タカシは、リツコを庇うように前に出る。
「我々の計画に、不必要な干渉は許されない。被験体Bと被験体C、そして学院長。それらの『無力化』を実行する」
リーダーは、冷酷な声で告げた。
隊員たちが、銃器を構え、タカシとリツコに照準を合わせる。
彼らの銃器の先端からは、微かな光が放たれている。
「くそっ……!」
タカシは、潜水装置の横に置いてあった、金属製の工具を手に取った。
リツコもまた、近くにあった実験用のパイプを掴んだ。
彼らは、自分たちが絶体絶命の状況にあることを理解していた。
特殊部隊が、一斉に攻撃を開始した。
銃器から放たれる光線が、実験室の壁や床を焦がす。
タカシは、リツコを庇いながら、光線をかわす。
しかし、彼らは、訓練された特殊部隊の動きには、到底太刀打ちできない。
「リツコさん! 逃げるんだ!」
タカシは叫んだ。
彼は、リツコを実験室の裏口へと押しやった。
しかし、裏口にも、すでに別の隊員が回り込んでいた。
「逃がさん!」
隊員の一人が、リツコに向かって光線を放つ。
リツコは、間一髪でそれをかわしたが、光線は彼女の髪を焦がした。
その時、実験室の扉が、突然、勢いよく開かれた。
「そこまでだ!」
そこに立っていたのは、学院長だった。
彼の顔は、怒りに燃え、その手には、学院の創設時に使用されたという
古びた、しかし威厳のある杖が握られている。
杖の先端からは、微かな光が放たれている。
「学院長!?」
タカシとリツコは、驚いて学院長を見上げた。
学院長は、特殊部隊の隊員たちを睨みつけ、その杖を地面に強く叩きつけた。
ドォン!
学院全体を揺るがすほどの、重い音が響き渡った。
杖の先端から放たれた光が、実験室全体に広がり、特殊部隊の隊員たちを包み込む。
隊員たちは、一瞬、動きを止め、苦悶の声を上げた。
彼らの特殊部隊服が、光を受けて、わずかに焦げ付く。
「この学院で、これ以上の狼藉は許さない!」
学院長の声は、以前のような老いを感じさせず、力強く、そして威厳に満ちていた。
彼の目には、深淵の闇に立ち向かう、強い意志が宿っている。
「学院長……あなたも、我々の邪魔をするというのか……」
リーダーが、苦痛に顔を歪めながら言った。
彼は、学院長の杖から放たれる光に、警戒の色を強めている。
「私は、この学院の、そして生徒たちの命を守る者だ。君たちの目的が何であれ、彼らを傷つけることは許さない!」
学院長は、再び杖を構え、光を放った。
特殊部隊は、一時的に動きを封じられ、後退を余儀なくされた。
「タカシ君! リツコ君! 今のうちに逃げろ! 私は、ここで食い止める!」
学院長は、そう叫んだ。タカシとリツコは、学院長の言葉に、一瞬躊躇した。
しかし、学院長の目には、彼らを逃がそうとする、強い決意が宿っていた。
「学院長……!」
タカシは、潜水装置の部品を掴み、リツコの手を引いた。
二人は、割れた窓ガラスから、外へと飛び出した。
背後からは、学院長と特殊部隊の激しい戦闘音が響いてくる。
夜の学院の敷地を、二人は必死に走った。
彼らの心には、学院長への感謝と、そして、アキラを救い出すという、新たな決意が燃え上がっていた。しかし、彼らが知らないところで、学院長の「協力」は、深淵の主の計画に、新たな「歯車」を組み込むことになっていたのだ。




