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それは前兆もなく、唐突に森に現れた。
私に名前はない。
気が付けば、上を見上げても先が見えない巨木が乱立する森の中、木々の隙間から零れる僅かな薄明かりに照らされて……ここがどこかも、私が何者なのかも分からないまま横たわっていた。
辺りはシンと静まり返り、風に揺らされる木々が出す葉音以外、何も聞こえない。
どれだけ耳を澄ませてみても、緩慢な動きで周囲を散策してみても、それは変わらない。
目の前にあるのはただ、長い年月そこにあったことを想起させる巨大な木の幹と、ただの雑草と、見渡す限りどこまでも続く、同じ景色。
まるで、この世界に生きるのは自分だけなのかと錯覚してしまう程に、他の生命の呼吸を感じない――ここは、とても空虚な場所だった。
私は元々人間だった……のだと思う。
自分の中にある記憶はあくまでも断片的で、思い出す景色はまるで靄がかかったかのようにぼんやりとしていて――だからあくまで確証の持てない、今となっては別にどうでもいい事実なのだけれど。
今はそんな事よりも、この木の枝のようにか細く茶色い両足と、まるで何も掴む機能を有しない4本の腕を懸命に動かし、私がここに生まれた意味を知りたいと、ただそう願うのみであった。
毎日毎日、当てもなく、ただ変わらぬ景色を視界に収め、歩いて行く。そんな日々。
幸いだったのは、何か補給をしなくとも動き続けられたこと。そして寝ようとしなければいつまでも動き続けていられるのだろう(と、なんとなく分かる)――この摩訶不思議な身体を持って生まれたこと。
記憶は断片的と言ったのだけれど、私は断言できる。
過去の世界に、こんな訳の分からない見た目の珍獣なんていなかった。絶対に。
私は途方に暮れていた。
この世界で意識が芽生えてから、一体どれほどの時間が経過したのだろう。
機敏に身体が動かせず、まるで腰の曲がった老婆のような速度でしか動けないという事実を加味しても、流石に毎日同じ景色が続くと歩く気力もなくなってしまう。
1人でいる事を心細く思う感情は無いにせよ、いい加減、この変わらぬ日常に変化が欲しいと願わずにはいられなかった。
気紛れに何か大きな声でも出してみようかと、言葉を発そうとしても「……ァ゛……ァ゛ァ」みたいな掠れた声が出るだけでつまらない。
であれば穴でも掘ってみようかと、足元で茂る雑草をかき分けて地面に手を付けてみるのだけれど……あまりの硬さに数秒格闘して諦めた。
――そうして、結局、森を彷徨い続ける日々を再開するしかなくなって。
これはもう駄目かも分らんね……なんて、木の幹に腰かけぼんやりと宙を見つめていた時に、それは唐突に現れた。
きっとこれを、人は天啓と言うのだろう。
鼻孔をくすぐるのは、ほのかに甘い香り。それはこの森の中にあって明確に変化と呼べるものであり、ただそれだけの事実に私の全細胞は興奮に湧き立ち、いつもより1.5倍くらい素早い動きで身体を起こし、その匂いの元へと視線を向けた。
「…ォァ゛……ァ゛」
そうして見えたのは、真っ赤な果実。
私の背丈ほどの大きさの植物に成っている。赤が濃すぎて毒々しくも見えるそれは小石のような小ささで、その匂いと光沢のある艶々しい表皮が、それは美味しいものだと無意識に伝えてきているように感じた。
「……ァァ゛」
けれど、その実を見て私が感じたのは断じて食欲などではなく、この実を最高の状態にしてあげなければと、そんな使命感にも似た感情だけ。
本能がそうさせるように、唐突に現れたこの植物の周りをぐるぐると周り、溢れる興奮を何とか表現しようと4本の腕をグネグネと曲げる。
「……」
そうして、気付いた。
私の目の前に現れたこの植物。これが生えているこの場所は、私が昨夜、日々のつまらなさをどうにかしようと渾身の踊りを披露した場所だったのではないだろうかと(――あぁ、ちなみに私は夜目が利きます)。
「……ォァ゛!」
とにかく踊った。この命が続く限り。
必死に踊って、再び意識を戻した時には、私の周りには赤い実を成らす植物で溢れ返っていた。芳醇な香りが鼻孔を通り抜け、まるで経験したことのない高揚をこの身にもたらしてくれた。
私の踊りの激しさを物語っているかのように果実は淡く輝き、偶に見かける木漏れ日以外の光でもって、この薄暗い森を照らしてくれた。
サラサラと揺れる木々も、きっと喜びを表現しているのだろう。
生物でない彼らの言葉など分かるはずもないのだが、不思議とそう感じた。
「……ァァ………ァ゛」
それ以降も、とにかく踊って、踊って、踊りまくった私だが、どうやら、ここ半径50m以内より先には、植物も広がっていかないようだった。
まあ、それでも私は満足だ。
まるでここが世界の特異点であるかのように、私が作り上げた特別な場所になるのだと、何物にも代えがたい達成感をもたらしてくれたのだから。
「……ァ…ァ」
香る大地の息吹を背中に感じながら、眠気など感じないこの身体を労わるように、その日は静かに視界を閉ざすことにした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
どうやら、私以外の生き物もいたらしい。
身体に纏わりつく不快な感触に目を覚まし、再び視界を開けたその先には――
「――――」
身体の大きさを比べることすら馬鹿馬鹿しい。
大きな蛇がそこにいた。
甘い香りに誘われて。