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ベルーガ視点二

 私は母が寝ている部屋の隣の部屋に入り、無理やり詰め込んだ三台の勉強机の内、一番古い勉強机に座る。色褪せた壁紙が張られて所々破れている壁に中学の時に貼った『高校受験頑張る』と書かれた張り紙が目に入る。

 その上から海原君が書いた言葉を貼った。特に意味はない。でも海原君が私の書いた文字を壁に貼ると言ったから同じことがしたくなっただけ。彼の真似をしていたら、少しは強い自分になれるんじゃないかと思ったのだ。


「走ろう……、あと腹筋もやろう」


 私は一年前に使っていたボロボロのジャージを着て合唱部の県大会まで、努力すると決めた。それで声が出なかったら……、部活を止める。

 母が元気になるまでアルバイトして私が家計を支えると、高校二年生の癖にちょっとカッコつけてみたり……。

 普通とは違う青春だけどここで何もしなかったら駄目な人間になってしまう。自分が一番嫌いな駄目な大人になってしまう。それだけはどうしても嫌だ。


 昔のジャージを着ると胸がやけに苦しい。太ったのか、ジャージが縮んでしまったのか、そう思っていたが、ただ単に胸が成長していただけだった。毎日一〇時間は寝るし、母の胸も大きいから遺伝でそうなったんだろう。

 本当に最悪の場合、この胸があれば私も夜の店で働こうと思えば働けてしまえる……。弟と妹、母のためなら……体を売ることも出来なくはない。夢も希望も無い私なら、体を売ってお金を稼ぐくらい簡単……。


「嘘だ。嫌だよ、そんなの……。でも、お金が無かったら何もできない。六月まで、六月の県大会までは、普通の高校生みたいに頑張らせて……」


 私は洗い過ぎてざらざらになったジャージの生地で眼元を拭き、家から出て人通りが多い河川敷付近を走る。

 街が燃えているかのような夕焼けの景色がとても綺麗だから、少しは気分も晴れる。昔は川に向って歌ったりしていたけれど、今では出来なくなった。


 走るとやけに重い胸がたぷんたぷんと揺れる……。そう言えば、中学のころから胸が大きくなりだして周りの視線が気になって走るのが嫌になったのだと思い出した。

 でも、歌うことの方が好きだったから背中を丸めるようにして走っていた。今も胸が揺れないように気にしている自分がいる。周りの目を勝手に気にしてしまう。なんで、どうでもいい他人の目を気にしてしまうのか。不良の自分勝手で周りに流されない部分が羨ましいとすら思ってしまう。


 可愛い服が着たい、携帯電話が欲しい、化粧もしてみたい、旅行にも行ってみたい、考えてみれば、こんなに夢があったのに……、勝手に諦めている自分が嫌いだ。


「…………」


 夕日にほえるという昭和臭いことすらできない。夕日に向かって全力で走れもしない。すでに走りすぎて息が絶え絶えだ。泣く時間があるなら、アルバイトしていた方が有意義で、賢い。

 声を出せるようになって合唱部に戻りたい……。普通に話せるようになって、笑いたい。普通の人からしたら笑ってしまうような小さな希望や夢だけれど、私からしたら果てしなく遠く、かすかに見えるだけの光……。

 無骨なコンクリートの歩道に小さな小さな水滴が落ちて、乾いた地面を濡らしている。


 ――あぁ、私、本当に弱いな……。絶対に無理って思ってるよ……。


 頑張ったって何も出来ないって、諦めた方が良いって……と、母と怜央、舞のために働いたほうが皆から良く見られるって……と悪魔が囁いてくる。体を売っちゃえば沢山お金が手に入って欲しかった物や夢が全部手に入ると、甘い言葉を囁いてくる。


 ――こんな情けない姿、海原君に見せたくない……。


 私は脚が棒のように固まってしまい、その場で一歩も動けないでいた。夕日が眩しすぎて、現実の自分を見るのが嫌すぎて、誰の視線も感じたくなくて、目を瞑っていると、先ほどよりも瞼の奥が暗くなる。


「桃澤さん……?」


 私は聞き覚えのある声がして、面を上げた。目の前に、自分が着ているジャージと同じくらいボロボロのジャージを着こんだ海原君がいた。ランニングシューズもボロボロ、そこら辺の陰で座っていたらホームレスですかと間違われそうなほどみすぼらしい姿。

 でも、顔にぽつぽつと水滴が付いており、息も荒い。トレーニング中だったのだろう。


 ――本当、見られたくないと思っている時ほど、彼に出くわす……。私、運悪すぎ……。


「えっと……、あぁ、その……、タオル使う……。って、男が使ったタオルなんて嫌か」


 海原君は首に巻いていたスポーツタオルを私に渡そうとするが、すこしとまどっていた。

 私は汗をほとんど掻いていないのに、なぜと思ったが、コンクリートに先ほどよりも大量の水滴の跡があり、ハンカチの代わりに渡してくれたのかもしれないと考える。

 クラスメイトの善意に甘えたくなってしまうほど、誰にも甘えていなかった私はスポーツタオルに手を伸ばし、受け取って濡れまくっていた顏を拭いた。


 スポーツタオルは嫌な臭いが一切せず、海原君の匂いがした……。普通の女子なら、うえっとか、気持ち悪いとか、かまわないでほしいとか、思うのかもしれない。でも、私は普通じゃないらしい……。タオルに顔を埋めてものすごく安心してしまっている。


「…………」


 「ありがとう」と言おうとしても、喉が閉まって声が出ない。メモパットで感謝を伝えようとするが、誰とも会うつもりが無かったので、家に置いてきたままだと思い出す。

 私があたふたしていると、海原君は全てを包み込んでくれるような優しい微笑みを浮かべながら一言。


「どういたしまして」


 私はなぜ海原君がそう言ったのか訳がわからなかった。感謝の言葉を伝えていないのに「どういたしまして」って会話が成立していない。いやそもそも会話すらしてないというのに。


「桃澤さんの表情はわかりやすいから……。今、なんでって思ったでしょ?」


「……っ!」


「うん、やっぱり、わかりやすいね。ほんと、全部顔に出てるよ」


 海原君は頬を掻きながら苦笑いを浮かべていた。

 彼の言葉を聞いた途端に私は恥ずかしすぎて顔が燃えそうなほど熱くなった……。言葉は飲み込めても感情は飲み込めないのだと、今になって知り、本当に彼の黒い瞳に全て見透かされてしまっているのだとわかってしまった。

 叫び出して逃げたかったが、久しぶりに走りすぎて膝が笑っている。叫ぶことも出来ず、その場でペタンコ座りをしながら、いつの間にかとめどなく溢れてくる感情に耐えられず、大泣きしていた。

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