ベルーガ視点
「はぁ、はぁ、はぁ……。ごほっ、ごほっ、ごほっ……」
――あぁ、情けないな、私……。廊下をちょっと走っただけでもう息切れ……。部長に何も言い返せなかったな……。
『歌は心の叫び』
私は休み時間中に海原君に見せてもらった文字を思い出していた。
――声が出せなかったら、どうやって心の叫びを外に出せばいいんだろう。桃澤芽生の気持ちは、なんで言葉に出せないんだろう……。
私は息を整終えると生徒玄関に向かい靴を履き替えて校舎の周りをグルグルと走りだした。
一年前は肺活量を鍛えるために毎日欠かさず走っていた。声が出せなくなってから真面に走っていなかった。なぜ、今さら走っているのか自分でもよくわからない。部活で自分が周りの迷惑なのだとわかっていた、それでも歌うのが好きだったから無理やり残っていた。
部長の言っていることは正しい、言訳や言い返す言葉も無い。今のままでは邪魔者で間違いない。なら、邪魔者じゃなくなればもう一度歌えるようになれば戻れるかもしれないと、沸騰しそうな血の巡りを感じながら走る。
――好きなもの以外全然続かない私と違って、海原君は好きかどうかもわからないボクシングをずっと続けているんだ。同じくらい貧乏で、今、凄く辛いはずなのに愚直に頑張り続けている……。それなのに私は好きなことからも逃げていた……。情けなさすぎる。
海原君は手助けしたいって言ってくれたけれど、私なんかに手を貸している時間がもったいないし、申し訳なさすぎる。
愛龍ちゃんの話しじゃ、海原君はプロでも通用する選手らしい。なんなら、プロ注目の相手を倒せてしまうほどの実力者だと……。そんなすごい人に私なんかのために時間を使ってほしくない。
私は過呼吸になるまで走りつめ、汗だくになった後、内着やカッターシャツが濡れた肌に引っ付いてくる嫌な感覚を得ながら学校の敷地内に設置されている水道の蛇口をひねり、塩素臭い水を飲む。
合唱部の練習が終わったころを見計らい、吹奏楽部が準備している間、音楽室に入り込んで残っていた登校鞄を掴み、逃げるようにして学校を後にした。
不良に絡まれないか恐れながら駅まで走り、一〇分に一本来る電車に乗り込み、家近くの最寄り駅に下りる。そのまま速足で歩き、コンクリートで作られた堅牢な集合住宅に足を踏み入れる。
さらに先にある、木造の築何年かすらわからないボロアパートに到着した。二階建てで鉄製の扉が六枚見える。郵便受けが大量に詰まっているお隣や、投入口にテープが張られ誰も住んでいないように見せかけている上の階の方。
夜中、上階の人が錆びた鉄の階段を上る音が妙にホラーに感じる左下の一室が我が家……。
いつか、城のような家に住みたいと思ったことはあれど現実を受け止めるのが速かった幼少期。やはり、夢も希望も持ち合わせていない私からしたら、こんな生活がふさわしいのだろう。
簡単に模造できそうな古い鍵を鍵穴に差し込んで捻る。取っ手を握り下に傾けて引くと金属が擦れるような深い音が鳴る。聞き慣れた音だ。油でも刺せばマシになるかも……。
以前まで、香水臭かった部屋の中は母が倒れたっきり薄まっていた。
通路にある狭いキッチンを抜けカーテンが閉ざされた暗い広間に出る。食卓テーブルと地デジ放送が終わった後に泣く泣く買い替えた二八インチほどの小さな薄型テレビとテレビ台替わりのプラスチックケース。片付けているため、ゴミが溜まっていると言う訳ではない。
右手側に見えるのは太い柱で隔たれた四枚の襖。襖はすでにボロボロ……。
私は丸い金具に手を添えて腰を入れながら立て付けの悪い襖をこじ開ける。
「た、ただいま……。お母さん……」
「あぁ、芽生、お帰りなさい……」
八畳も無い部屋の中に敷かれた布団に寝転がっている実の母は頬骨が浮き上がりそうなほど痩せこけており、まだ三六歳の若さなのにお婆ちゃんかと間違われてしまいそうだ。でも、夜の店で働けるほど綺麗だった容姿は変わらず、大きな胸の張り具合は二十代のころ同様に残っている。
母は私達を育てるために働きすぎによる心の病気や栄養失調などをわずらい、働けなくなってしまった。完全に本末転倒だ。私がもっと早く止めておけば倒れずに済んだはずなのに、活動している時間が全然違うからと反抗期に近かった年齢だったと言う理由をつらつらと考えてしまう情けない自分が嫌になる。
「怜央と舞は……」
「まだ、帰って来てないよ。多分、今日も夜遅くなるんじゃないかな……」
「そう……、今日、中学校の先生が来て二人共、学校に来てないって言ってたから心配で」
「だ、大丈夫だよ……。今はそう言う時期なんだって……」
私は母を安心させるために、笑みを浮かべ少し鉄臭い水道の水を飲ませて落ち着かせる。日本の水道は大概飲める。排管が古いと水道も少し鉄っぽい味になるが人体に影響はない。ペットボトルに入った水が買えるほど家計に余裕はないのだ。
部活の無い日は自給の高い水族館のアルバイトに向かうが、今日は部活があったので遅めの帰宅。
私立と違い、公立の高校なので音楽室が一カ所しかなく吹奏楽部と共同で使うしかないため部活の回数は週四回あればいい方。逆に、アルバイトに時間を使えるので、今の私にとっては嬉しい誤算だった。だが、このことを嬉しんでいいのか疑問が残る。
『部活に本気で取り組めないなら、私達の邪魔しないでくれる』と部長の通る声で言われた言葉が脳裏をよぎる。部長の言う通り……、母が倒れてから部活に本気で取り組んでいたかどうか怪しい。
歌うのが好きで中学のころから合唱部だった。知り合いも多く、私の現状を知る者も少なからずいる。部長もその一人……。
私が部長の顔を見れなかったのは、彼女の部長としての責任を果たそうと強い口調を言わなければいけない辛そうな顔だったから。
部長は誰よりも心配してくれて、今の私に部活なんてしている場合ではないだろうと言いたかったのかもしれない。
高校で青春を謳歌出来る人は幸せ者だ。私みたいな人は青春を謳歌できず、周りの青春の香りを嗅ぐことしかできない。
全国を目指して部活に取り組む人、大学受験を目指して勉強に励む人、好きな人と一緒に過ごして恋を楽しむ人、生活の何も心配することなく漠然と生きている人、皆、幸せ者だ。
声を失い、生活も安定せず、自分のやりたいことも出来ない日々を送るしかない私は幸せ者じゃないと、言いたくなる気持ちをぐっと抑え、唯一真面に喋れる家の中でも口を閉ざし、私は言葉を胸の内側に封じ込める。
『歌は心の叫び』
私と違う強さを持った海原君の書いたどことなく可愛らしい文字が書かれたスケッチブックを見ると、彼の真っ直ぐな眼が思い起こされる。純粋で、優しくて、辛いはずなのに私を助けたいと言える器の広さ、そんな彼の姿がやけにカッコよく見えた。
水族館で彼に姿を見られたとき、逃げてしまった。アルバイトをしていると知られたら罰則を食らってしまうと思ったのだ。彼が私を知っているわけないと思ったが私は彼を知っていたから、逃げなければと体が反応した。
海原君の存在は一年のころから知っていた。愛龍ちゃんの口から海原君のことばかり出てくるから嫌でも覚えていた。新聞配達をしていたり、ボーっとしていたり、ボクシングしているところが物凄くカッコいいとか、超が付くくらいお人よしだったりとか……。
別のクラスの男子生徒のことをここまで良く知るのも珍しかった。雰囲気はちょっと怖いけど目力が強いだけで案外可愛い顔していると聞いていた。
初めて見た時はとてもそう思えなかったけど……、最近は彼の眼を見ると吸い込まれそうになってしまう。
頑張って普通の女子高生を演じようと思っても、彼に全て見透かされているかのような、真実の瞳で見られているかのような感覚で、素の私が表情と文章の中で出せていたと思う。
いつもは辛いとか、喋りかけないでとか、思うのに彼からはもっと話しかけてほしいし、沢山筆談したいと考えてしまう。
今日だって、授業に集中しないといけないのに、筆談が楽しすぎてノートの内容に書かれている内容が飛び飛びで一切わからなかった……。
私がやめれば彼もしないでくれるだろうが、やめられる自信が無い……。