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県大会

 新学期が始まって一ヶ月が経つと席替えがあった。愛龍からようやく解放されると思い、くじを引くとグラウンド側の窓際で後ろの方と言う、丁度気持ちが良い席に当たった。まあ、背後の愛龍がいるのは癪だが、前と席の位置がほぼ変わっていない桃澤さんが隣になり、気が楽になった。

 愛龍は桃澤さんの近くだと暴力行為を控えるのだ。一緒に帰るほど仲が良いみたいだし、たまの休みに遊びに行くくらいの仲になっている。

 僕と同じで遊べるような友達がいなかった愛龍に親友に近い友達が出来てほっとしている。これで、暴力行為が減れば万々歳だ。

 席が隣になったこともあり、桃澤さんと筆談も増えた。授業中に会話は出来ないが、筆談なら出来るため、ろうそくの減り具合かと思うほどゆっくりとした筆談が続く。面白くない授業の時は多くの者が眠ってしまう中、僕と桃澤さんは筆談で気を紛らわせていた。


『声が出なくなってからも、合唱部に行ってるの?』

『行ってるよ。でも裏方みたいなことしかできないから、ちょっとウザがられているかも』

『それでも、合唱部に行くなんて、歌が相当好きなんだね』

『歌って、カラオケとかに行かなければお金がかからないし、お金をかけなくても楽しめるでしょ。って、もの凄い貧乏人臭い考えだ。でも、私は歌えなくなっても歌が好きだよ』

『桃澤さんは本当に歌が好きなんだね……。大好きなことができなくなっても好きなままでいられるなんて、ちょっと羨ましい』

『海原君はボクシングが好きなんでしょ、一緒だよ』


 先ほどまですらすらと動いていた僕の手が完全に止まる。

 僕はボクシングが好きなのか……。痛くて苦しくて相手を傷つけるようなスポーツが好きなのだろうか。もし、体が麻痺してしまうような重症を負ったら僕はどうなるんだろう。辛い練習をしなくてもいいと嬉しくなるのか、リングに立てなくて辛いと思うのか、全くわからない。


『好きでボクシングをしているのか、わからない……。打算的にしているだけかもしれない。期待されてしまっているからかもしれない。そんなこと考えたことも無かった』


 桃澤さんにこの何とも情けない文章を見せてもいいのだろうか。ただの暇つぶしだとしか思っていないであろう彼女に、迷惑な気がしてきた……。

 メモパットのボタンを押して文字を消そうとすると隣から白く細い手が伸びてきてメモパットが奪われる。いや、もともと彼女のだから、奪われると言うのは違うか。


 桃澤さんはメモパットを見たあと目を閉じながら腕を組み、何かを考えているような表情を浮かべる。むむむ……と言う言葉が頭から出ているような容姿に笑いそうになる。

 会話と違って筆談は考えながら意思を伝えられる。だから、すぐに返す必要もないし、時間を空けてもいい。その間、僕は面白くも無い授業の板書をノートに書き写し、海がひっくり返ったかのような空をガラス越しから見ていた。


 五分ほどして、細い指で肩をトントンとつつかれる。ふと振り返ると、メモパットではなくて大きめのスケッチブックに黒色の太いマッキーペンであまりにも達筆に書かれた文字が見える。


 『私はボクシングが好きだよ。見ていると勇気がもらえるもん』


 桃澤さんは頬をむっと膨らませ、どうだ! と言わんばかり。

 いや、僕は桃澤さんにボクシングが好きかどうかなんて聞いてないんだけれど……。でも、彼女の言ってやった感がにじみ出ているドヤ顔を見たら、また笑いそうになってしまった。先生しか話していない授業中に笑ったら目立ちすぎるので必死に我慢する。

 呼吸を落ち着かせてから僕はメモパットに文字を書いていく。


『桃澤さんが、ボクシングが好きなんてちょっと意外だった。おしとやかな雰囲気があるし、殴り合っている姿なんて見たくないっていう優しい人だと思ってたのに』

『ちょっと、それじゃあ、私が優しくない人みたいじゃん』


 桃澤さんは目と口で笑っていた。笑い声は出ていないが、表情が物凄く明るい。目は口程に物を言うと聞くが、表情は言葉よりよく伝わるとも言えそうだ。

 筆談していたら、いつの間にか授業が終わっていた。背後にいる愛龍は未だに寝ているけれど……。


「桃澤さん、そのスケッチブックの紙、貰ってもいいかな?」


 僕は『私はボクシングが好きだよ。見ていると勇気がもらえるもん』と書かれているページを開き、桃澤さんに聞いた。


『なんで? 勢いで書いちゃったから、ちょっと恥ずかしいんだけど』


 桃澤さんはメモパットにさらさらと文字を書き、僕に見せてくる。はがき程度のメモパットで口もとを隠し、何度も瞬きして目を泳がせているので照れているように見える。


「何というか……、本質な気がしたんだ。部屋の壁に飾っておきたい」


 桃澤さんは髪が靡くほど、頭を横に振ってスケッチブックを閉じる。

 なにを恥ずかしがっているのか僕は理解できなかった。

 僕が質問する前に、桃澤さんは文字を書いたメモパットを見せてくる。


『本当にぱっと思いついた言葉だし、深い意味も全くないし。そもそも、私の字が海原君の部屋に飾られるなんて恥ずかしいと言うか、私なんかがボクシングの何たるかを語るなんて、おこがましいよ』


「そのぱっと思いついた言葉が僕は良いと思ったし、桃澤さんの字は線や形がとても綺麗だから部屋に貼ってあったら気が引き締まる。実際、ボクシングの何たるかなんて誰も知らないよ。皆自分の信念を持っている。僕は桃澤さんの考え方が本当に良いと思ったんだ」


 耳や頬を赤らめていた桃澤さんはメモパットにペンを走らせ『スケッチブックに海原君の歌に対する考えを書いてくれたらあげる』と見せてくる。


 ――歌に対する考え。か、考えすぎちゃ駄目だ。思ったことをそのまま、文字に……。


 僕は桃澤さんほど文字が上手くないので、見せるのが恥ずかしいが見せなければ紙が貰えないので、仕方なく彼女に見せる。


『歌は心の叫び』


 僕がスケッチブックを見せると桃澤さんは文章をじっと見つめていた。文字数が少ないのですぐに理解できるはず。でも一分ほど文字を見つめ世界から切り離されたかのように静まり返っている。少ししてわれに返ったのか、僕が欲しかったページをちぎり、手渡してくれた。


「ありがとう。大切にするよ」


 桃澤さんは僕の目を見ながら口を開いた。だが言葉は出てこない。教室の雑音が多すぎて聞き取れなかったのかもしれない。何も発していなかったかもしれない。でも、彼女の大きな黒い瞳が潤い、白い歯が見えるほど笑顔を浮かべスケッチブックを抱きしめていた。

 表情は言葉よりよく伝わる……、彼女の哀愁漂う綺麗な笑顔を見て僕は彼女に感謝されたのだと理解した。


 桃澤さんは言葉が出せなくなった代わりに表情や身振り手振りに感情が出るようになってしまったのかもしれない。文章だけだと気持ちを完全に伝えられないから、どうにかして気持ちを伝えようと必死になっているように思える。そんな彼女を見ていたら、声が出せなくても、必死にもがいているんだとわかってしまった。

 彼女は息が出来なくても海面を目指して必死にもがいているのに、似た状況の僕は死んでしまった鯱のように海の底に永遠と沈んでいる。あまりにも情けない……。


 今の僕はボクシングに対して情熱をそそげない。なら、同類の桃澤さんの助けが出来ないだろうか。彼女の声が戻ったら僕も何かしら変わるかもしれない。


「桃澤さん、僕に出来ることがあったら、何でも言ってほしい。僕に出来ることなんてほとんどないかもしれないけど、今、僕は桃澤さんの力になりたいと心から思ったんだ」


 桃澤さんは僕の話をしっかりと聞いてくれたのか、はたまた聞き流したのか、僕にはわからない。気持ち悪い奴だと思われたかもしれない。でも、僕は本心を言った。彼女は苦笑いを浮かべるだけだった。


 僕たちは学校の授業を受け終わった。

 僕は今日も今日とて早退した万亀雄の代わりに掃除当番を請け負い、パンパンになったらゴミ袋を用務員室まで運んでいた。

 周りは部活動に励む者の気合い溢れる声と教室に残っている男女の会話が、窓から吹き込んでくる梅雨にも入っていない爽やかな風を熱らせていた。

 どこもかしこも青春一色。漫画や小説、アニメ、ドラマ、多くの者が様々な分野の娯楽に触れて心を穏やかにさせるのが普通だろう。生憎、娯楽に一切触れていない僕からすれば、青春は辞書の文字でしかない。

 昔、辞書で調べた青春の意味は『夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの』らしい。夢や希望もなく枯れはてた若い時代は何と言うのか。赤春とでもいうのか。黒春かもしれない。

 そんなどうでもいいことを考えながら階段を降り、音楽室の近くを通りかかった。合唱部か、吹奏楽部が使っているんだろうなと、他人行儀で音楽室の扉を見る。遮音するための分厚い金属製の扉は部屋の壁よりも頑丈そうだ。格闘家がどれだけ殴っても壊せそうにない。

 そんな扉に四つ角をセロハンテープで止められた県大会の日時が記された紙を見る。お手製なのか、大きな音符の絵も描かれていた。なぜお手製化とわかったかと言えば……字が綺麗すぎた。

 配られるプリントに使われている文字の形ではなく、明らかに手書きされた文字。ここ一ヶ月、何度も見て来た文字だったので、誰が書いたのかまでわかってしまう。


 ――桃澤さん合唱部で裏方みたいなことをしているって言っていたけどそう言うことか。


 彼女の頑張りが身に染みた頃、重厚感のある扉がズシリと動き、二名の女性が出て来た。

 一人は背筋が伸び切り、眼鏡をかけているいかにも優等生で学級委員長だと言わんばかりの女子生徒。もう一人が下を向きながら項垂れている桃澤さん……。


「ねえ、もう本番まで一ヶ月しかないんだけど。どれだけ過去の失敗を引きずったら気が済むの。声、本当は出せるんじゃないの。声が出せるのに出さないなんてやる気の問題でしょ? 部活に本気で取り組めないなら、私達の邪魔しないでくれる」


 眼鏡の女性は桃澤さんにものすごく強く当たっていた。群れの中にいる危険因子を排除しようとしているリーダーのよう……。


 桃澤さんは文字を書こうとメモパットに視線を向けるが……、眼鏡の女性はメモパットを手で押さえ、学校中に届きそうなほど芯の通った声を出した。


「私の目を見なさいよ、文字じゃなくて言葉で伝えなさいよ。出来ないからって、いつまでも逃げて情けない。どこまで逃げる気? 私達に逃げているあなたを追っている暇はないの。あなたが口パクするだけで、部の雰囲気が一気に悪くなっているってわかってる?」


 合唱部だからか、声に感情が籠っており熱い……。それだけで眼鏡の女性の部活に対する想いが伝わってくるようだった。それは僕だけではなく、桃澤さんも同じなのか怒りを見せるわけでもなく、その場で立ち尽くしている。

 桃澤さんだって頑張っているのにと言いたくなる気持ちもあるが周りに迷惑が掛かっていると言われているのなら、そうなのだろう。

 ボクシングのような個人競技ならまだしも、団体競技の中で浮いた存在がいたら周りに悪影響を及ぼしてしまうのも確かだ。合唱部なのだから、一人で歌うことはほぼ無いだろう。ソロパートとかあるのかな……。アルト、ソプラノ、テノールと言う枠組みで歌うことはあるだろうけど、一人で歌うことはないか。

 桃澤さんは一言も言い返さず、未だにその場で立ち尽くしていた。

 眼鏡の女性は踵を返し、重厚感ある扉を勢いよく開けてしっかりと閉める。「はい、気を取り直してもう一度!」と通る声が分厚い鉄の扉すら貫通して聞こえてくる。


 桃澤さんは……メデューサの目を見て固められてしまった人のように未だにその場に立ち尽くしていた。視線を扉に貼り付けられている紙に向けている。

 六月三〇日の日曜日が合唱部の県大会の日だった。なまじ目が良いのに加え、桃澤さんの上手い文字だからはっきりと見える。


 ――県大会……。ボクシングの県大会も六月だったかな……。八月のインターハイに出るために県大会の上位に入らないといけない。今の僕が出ても勝てないしな、出る意味もわからないし、会長をまた泣かせてしまうかもしれないし……。


 ボクシングをやらない言い訳ばかりが、頭の中で浮かんでくる。だが、死にたくなるような自己嫌悪は起こらず、今は自分のことよりも桃澤さんの方が気になっていた。


 桃澤さんはいきなり走りだした。膝下のスカートが何度も靡き、腕を振るいながら玄関に向けて脚を動かしている。でも、すぐに息が切れたのか膝に手を当てて息を何度も吸っていた。声を出していないから、肺活量が衰えているのかもしれない。


 僕はゴミ袋を校舎の一階にある用務員室に運んだ。ゴミは用務員さんが処分してくれるので、ゴミ袋をコンクリート質の床に置いてそのまま出る。桃澤さんに掛ける言葉もなく、教室に戻って通学鞄を持って帰路に就いた。

 牛神ボクシングジムに付いたらまた同じような日々が続くのだろう。いつか猛獣に食われて貞操が脅かされないか怯えながらサンドバックを殴り続け深い海のような無意識の世界に潜っていく。


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