最終回
「なにを伝えれば……」
僕は六月三〇日の前日に、芽生さんから勇気の出る言葉を書いてほしいと言われた。けれど、その時は全く思いつかなかった。部屋の中で唸りながら考え、思い浮かばず眠った。
県大会の決勝戦と合唱部の県大会が被る日の朝になっても何も思いつかなかった。
試合会場に到着し、芽生さんたちの応援が無い中、愛龍の試合が始まりTKO勝利。相手の監督がこれ以上の試合続行は危険だと判断し、愛龍は難なく優勝した。
僕も決勝戦に出て、県大会を優勝した。けれど、何とも言えない焦燥感。勝てたことは嬉しいけれど初戦の時のようなお腹いっぱいになる気分は無かった。どうして、なのだろうか。一回戦目より、決勝戦で勝てた方が嬉しいはずなのに。
「あぁ、そうか。僕は勝つことにそれほど執着していないんだ。あの時は芽生さんに勝った姿を見てほしかったから必死になれた。じゃあ、自分のためじゃなくて他人のために頑張った方が本気になれるのか」
僕は表彰式を終えた後、すぐに着替えてスケッチブックを持ち、直走った。会長は後片付けの手伝いがあり車が出せない。卯花さんの車で途中まで送ってもらったが、交通事故でもあったのか、道が渋滞していた。
芽生さんがいる文化ホールまであと五キロメートルほどの距離だったので全力で走れば、一五分くらい。寮から学校ほどの距離。体力もあり余っていた僕は車の停止と共に外に飛び出した。
「ちょ、成虎! 危ないでしょ!」
「渋滞を待っていたら間に合わないかもしれない! もし、僕より早くついたら、愛龍が芽生さんをはげましてあげて!」
僕はスケッチブックを数枚破り、愛龍に渡して扉を閉める。そのまま、文化ホールまで全力で走った。
伝えたい言葉はスケッチブックにすでに書いてあるので、ただ走るだけ。赤信号は絶対に止まり、青色の点滅の時は突っ走った。いつもなら止まるが、今日は許してほしい。
車や自転車に気を付けながら緊張しているであろう芽生さんを勇気づけるために全力を振り絞る。もう、決勝戦の時以上に必死だった。やはり、自分のためよりも誰かのために努力した方が、力が発揮されやすいんだ。
そんな確信めいた気持ちを胸に秘め、大きな建物を視界に入れる。
息が途切れ途切れで、決して熱い気温じゃないのに体内の水分が全て汗に変わってしまったのではないかと思うほど服がビチャビチャになっている。
一般客用の通路を見つけ、運営側の方からプログラムを受け取った。すぐに扉を開け、中に入ると明るいステージ上に芽生さんが立っていた。
――ぎ、ギリギリ間に合った。
僕はスケッチブックを広げた。
僕は芽生さんの歌がずっと聞きたかった。出会った時からずっと聞いてみたかった。彼女がちゃんと歌っている場面を見た覚えがなかったので「歌が聞きたい」なんて伝えてしまったけれど、頑張れとか、絶対に大丈夫とか、そんなありふれた言葉で勇気が出るだろうか。
まあ、僕は出たんだけれど。でも、芽生さんは少々抜けているところがあるのに案外完璧主義な所があるので、彼女を追い詰めない言葉を選んだ。
何かを伝えようとするとき、誰かのために頑張ろうとするとき、人間は勇気が出る。僕が体験したのだから間違いない。
合唱が始まると芽生さんの声が厚みのある歌の中でもはっきりと聞こえて来た。鼓膜が声に撫でられると身が、ぞくりと震える。音響の良い文化ホールの中だから、透き通る声がより一層綺麗に聞こえた。
芽生さんの顔は常に必死。だけど歌声は繊細。なのに芯がしっかりとあって彼女の気持ちで溢れている。声を聴くだけで心臓が呼応し、歌のリズムに合わせて脈拍が整う。走って来て全身に血を巡らせていた心臓が音楽を聴いて安らいでいるのを一心に感じた。
三分程度の合唱が終わり、文化ホールは拍手に包まれる。僕も拍手を送り、瞳の奥が熱くなって世界が水に入ったように滲む。
かつて、深い深い海の底にいた僕は真っ暗闇の中で小さな声を聞き、仲間の声だと勘違いして声がする方に向かった。そこに女の子がいて、話し掛けたけれどすぐに逃げられた。
でも、また出会って仲良くなり互いに無くしたものを取り戻そうと力を合わせた。上手くいくこと失敗すること、楽しいこと辛いこと、それを乗り越えて海面から二人でやっと出られた。
その事実が、ただただ嬉しい。
芽生さんの泣きながら笑っている顔が僕にはっきりと見え、気持ちを出し切れたんだと確信した。その後、愛龍たちが到着した。舞ちゃんが携帯電話で合唱を録画してくれていたので、皆で合唱を聞きなおせる。
結果は金賞。ただ、全国大会に行けるわけではないらしい。いわゆるダメ金と言うやつだ。一位二位三位に賞が贈られるわけじゃないので、ダメ金と言う感覚はよくわからない。でも、芽生さんが泣いて喜んでいるのだから、僕たちも喜んだ。
六月が終わってすぐに七月がやってくる。七月になれば、もうすぐ夏休みに入る。だが、その前に期末テスト。というのに僕たちは七月一二日の海の日に開催されている祭りにやって来た。以前、皆で来たいと言っていた祭りなのだが、人数は想定より多くなっていた。
夜の水族館も開館しており、暗い海の中を魚たちが泳いでいるかのような光景を目の当たりにできるらしい。水族館好きにとって外せないイベントだ。ただ、綺麗な景色よりも食い気の強い女性たちによって祭りの方を先に回ることに。
「おーい、成虎、万亀雄、怜央君、早く~!」
愛龍は黒い布地に赤い炎のような金魚が刺繍されている浴衣を身に纏い、少年のような満面の笑みを浮かべながら手を振っていた。
「成虎さん、今日は一杯遊びましょうね! 花火が上がった時にキッスも~。きゃぁ~!」
黒髪が増えてきた舞ちゃんは黄色い浴衣を身にまとっていて僕に抱き着いてくる。一人で盛り上がれる才能を持っているのか、何もしていないのにすでにテンションが高い。
「ちょ、舞、浴衣はレンタルなんだから、汚さないでよ……」
芽生さんはモモ色っぽい綺麗な生地の浴衣を身に纏い、少し長い髪を結ってかんざしのような髪留めを付けている。薄く乗った化粧が祭りを彩る暖色の明りに照らされていた。唇のほのかな艶と瞳の潤いがとても綺麗で色っぽい。
「芽生さんの浴衣、凄く可愛いね」
「あ、ありがとう、な、成虎君の甚平も、よく似合っているよ……」
少しの沈黙の後、愛龍が僕の首に手を回し「可愛いのは芽生だけなの~?」と威圧感たっぷりの口調で聞いてくるので「もちろん、三人とも可愛いよ……」と付け足しておいた。
「よろしい。じゃあ、今日は全部、万亀雄のおごりだから! 楽しもうッ!」
「おいっ! 俺も金欠なんだよ!」と万亀雄の声が響くが愛龍の「万亀雄、お願い。やっぱダメ?」とあざとい表情を浮かべながら訊くと、あっさり了承を貰っていた。やはり、万亀雄は愛龍に甘い。
「俺、祭りに来たの初めてかも……」
「そうだっけ? じゃあ今日で怜央は祭り童貞を卒業ってことね。私も祭り処女を卒業!」
「舞、そう言うのは恥ずかしいから言わない方が良いと思うよ。成虎さんから嫌われるかもしれない」
「え? そ、そうかな……。じゃ、じゃあ、今日で祭りを経験した人になれるね!」
「今さら言い換えても遅いよ……」
舞ちゃんと怜央君は双子なので、よく似ており髪型が同じならばば瓜二つ。性格は少々違い喋っている限り、見分けはつく。どちらも不良から改心してくれて本当に良かった。
「成虎君、本当にありがとう、色々と……。もう、感謝したいことが一杯あって一度に出来ないよ」
芽生さんは僕の隣に立ち、ゆっくりと歩いていた。コンクリートの上に木製の下駄の底が擦れる乾いた音。老若男女の活気あふれる声。暗い夜にも拘らず屋台が並び明るい歩道。海風が穏やかに吹くと隣からふわりと香る石鹸と汗の混ざった僕の好きな匂い。
少し前、僕は愛龍にやっぱり付き合えないと伝えた。インターハイもあるし、色恋にうつつを抜かしている時間はないと思ったから。
そう伝えたら、愛龍は「インターハイで優勝してメロメロにしてやる」と、堂々宣言し拳を突き出してきた。
僕は挑戦紛いな発言に頷いて拳をぶつけ合わせた。その日からと言うもの、愛龍の甘え具合が拍車を増した気がする。それに呼応するように芽生さんも距離が近い気がする。
「あ、あの、芽生さん。なんか、近くない?」
「そ、そうかな? 別に私はそう思わないけど……」
芽生さんの肩が僕の腕に少し当たっている。違う方向を見たら、いつの間にか腕が抱かれていて柔らかい感触と火傷しそうな熱が布越しに伝わってきた。
「ちょいちょい、成虎。芽生にくっ付かれて何、鼻の下を伸ばしているのー。私の裸体を見た時はそんな顔を赤くさせてなかった癖にー」
「なにっ! シゲ、愛龍の裸を見ただと! おまえぇえ、親友だと思っていたのにぃ!」
「し、成虎君と愛龍ちゃんはもう裸を見せ合う関係に。そ、そんな……、わ、私だって」
万亀雄と芽生さんは愛龍の嘘に踊らされ、後々顔を真っ赤にして愛龍を追いかけ回していた。そんな姿を見て、僕と舞ちゃん、怜央君は大きく笑う。
髪が靡くほど少し強めの海風が吹くと、高校二年生の夏が始まる匂いがした。




