ベルーガ視点一四
六月二九日。土曜日、私は午前中の県大会前最後の練習を終えた後、アルバイトを休んでいたので制服のまま電車で試合会場に向かった。成虎君と愛龍ちゃんは無事に二回戦を突破していた。
明日、決勝戦らしいので私達の合唱を聞きに来れるかまだわからないと言う。
逆に私は決勝戦を応援出来ないから申し訳ないと頭を下げ、無理しないで明日の決勝戦に集中してと伝えた。本当はものすごく見に来てほしかったけれど……。
合唱部は県内に沢山あり、中学生たちも同じ場所で県大会がある。午前が中学生、午後が高校生と言う具合に分かれているので、もしかすると合唱を聞いてもらえるかもしれない。体育館と文化ホールの距離はざっと一〇キロメートル。電車ならすぐだ。
「勝っても負けても、必ず応援に行くよ。何か僕に出来ることがあれば何でも言って」
成虎君は何でもと言った。じゃあ、キスして……など、言えるわけがないので私はスケッチブックを渡す。『歌は心の叫び』と書かれた紙は部屋に貼ってあり剥がしたくなかった。そのため、何か別の勇気が出る言葉を書いてもらいたかった。
成虎君はウンウン唸りながら考え込んでいた。そんなに考えなくても良いのにと思いながら、待っていると「明日までに考えておく」とスケッチブックを持ちながら言われた。
了承し、会長さんの車に乗せてもらって一緒に帰る。
その際、愛龍ちゃんと成虎君、私という順番で横並びになり、妙に気まずい雰囲気を盛大に感じた。というのも、疲れ切っていた成虎君が右隣にいる私の肩に頭を乗せて、すーすーと眠っていたのだ。
すかさず、ツーショット写真を撮ってしまい、舞に見せたら消されてしまうので秘蔵フォルダに隠す。
成虎君の寝顔が可愛くて、萌えそうになりながら帰路を精一杯楽しんだ。愛龍ちゃんの成虎君を起こしたいけど、疲れているだろうから起こしたくないと葛藤している顔が何ともいえない複雑な気持ちが露になっていた。
「う、うぅん。あれ、もうジムについてる……」
成虎君が起きた後、何事もなかったように車を降りていた。不機嫌な愛龍ちゃんの機嫌を取るのに必死。かまってくれて嬉しそうな愛龍ちゃんは成虎君に顔を見せないように視線をそらしている。
まだ明るかったが、成虎君が付いて来てくれた。もちろん、愛龍ちゃんも……。試合を見に行っていた舞と怜央も一緒だ。
家に帰り、二人と別れた。明日会えるのは歌い終わった後だろう。
心を落ち着かせながら夜を過ごし、県大会のために早めに眠る。
舞と怜央はものすごく迷っていたが愛龍ちゃんと成虎君から無理しないでと言われたそうなので、私の応援に来てくれるという。お母さんも笑顔が増えて張りきっていた。
――絶対に失敗出来ない……。でも、今の私なら大丈夫。絶対に大丈夫。
少々緊張している時、自分の胸が大きくてよかった。自分でフニフニと触っていても心が落ち着くのだ。多分、女の子あるあるだと思う。
☆☆☆☆
六月三〇日、日曜日、県大会の日があっと言う間にやって来てしまった。各自で文化ホールに移動し、現地集合。部員数は私を含めて一五人。三年生が一番多いので、抜けてしまったら少人数の合唱部になってしまう。けれど、数が多い少ないは採点に全く関係ない。合唱が良いか悪いか、ただそれだけだ。
沢山の学校が参加しており、金賞を取れる団体は数少ない。その金賞の中でも順位が付けられ全国に行けるかどうか決まる。
会場に入る前からすでに緊張しており、体と喉が強張っていた。声が出せなかった時期の症状に似ており「また声が出なくなってしまったらどうしよう」と背中に刃物を突き付けられているかのような恐怖が滲み出てきて、頬を伝う汗の感触までわかってしまう。
口が乾いた状態で、何かを飲み込むように喉を動かすと魚の小骨でも刺さっているのかと思うほど鈍い痛みが走る。水筒にいれた水を飲み、少し落ち着こうとするも息切れや心拍数は収まらなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……。大丈夫。私は絶対に大丈夫」
胸に手を置き、今、声が出ているから問題ないと、自分に言い聞かせて文化ホールに入る。本番前に声出しが出来るので、そこまでは自分の心を落ち着けるために使った。
午前中は中学生の部から始まり初初しくも元気のある合唱が心地よかった。私立中学や強豪校は他の高校生よりも上手いんじゃないかと思うほど質が高く、私が全国大会に行ったときに受けた衝撃に似ていた。この世に歌や合唱が上手い人達は何万人もいる。
以前の私はその中の一人だった。自分よりも上手い人達に会って私の得意な歌が失われたんじゃないかと言う謎の恐怖に過剰に怯え、声が出せなくなってしまった。でも、今は違う。確かに皆、音程がしっかりと取れていて周りと調和し、全体で一つの個体のよう。
歌や合唱に込める思いも強い。それでも、私以上に魂を込めて歌っている人はいないように思えた。優越感に浸ると言う訳ではないけれど、八〇億人以上いる人の中で私にしか出来ない歌が今なら出来る。誰とも比べる必要なんかなくて、自分の心をさらけ出せればそれはもうその人唯一無二の歌になるはずだ。
まったく同じ人生を歩んできた人は、この世に存在しないのだ。
ベルーガやイルカ、シャチを訓練するとき、動物達は訓練していると思っていない。ただ、遊んでいるとしか考えていないらしい。飼育員たちは皆の遊び心を引き出し、楽しんでもらう中で芸を仕込む。無理やり教えようとしても不可能。
歌が上手い下手など気にしている時点で、私は浅はかだった。そんなこと気にせずにただただ楽しめばよかったんだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
途中までよかったものの正午が過ぎ、本番が近づいてくるにつれて心臓がぎゅっと押しつぶされていく。緊張しやすい体質なのは理解しているが、ここまで納まらないと体が拒否反応を起こしているんじゃないかと思えてくる。もうすぐ本番。
沢山の団体の上手い合唱を聞いて打ちのめされそうになっている。今日は私だけで歌う訳じゃない、三年生にとって最後の大会だ。それで、失敗したら……、という考えが巡り始めたら最後、永遠と続く不の感情ループに陥る。
「それでは陸海高校合唱部の皆さん、移動してください」
三つ前の合唱が終わるとアナウンスが入り、私たちは控室に移る。ピアノが置いてあり、最後の練習が行われた。
――だ、大丈夫。声は出てた。この緊張して苦しい感情も全て歌に乗せてしまえばいい。
歌えた事実に安心し、あっと言う間に一〇分が過ぎる。一瞬の出来事のようだった。あとはステージで歌うだけ。前の合唱部がステージで歌っている中、私たちはステージ裏で呼吸を整えていた。薄暗く力強さと滑らかさが心地よい歌声だけがホール内に響いている。
一つ前の演奏が終わり、私たちの番がやって来た。
ステージの中央に移動し木製の長い台の上に八人、床に七人並んだ。いくつもあるスポットライトによってステージは光輝いている。観客席は暗く、見えにくい。けれど、多くの人の視線が鋭く、身に突き刺さってくる。視線を泳がせ、スケッチブックを探すも見当たらない。
お母さんや舞、怜央の姿は微かに見える。
――成虎君はまだ来てないんだ。し、仕方ないよ。あっちも県大会があって今日は決勝戦なんだ。私一人でも全力で歌うだけ。
先生が演奏するピアノがお辞儀の合図を出してくれたので頭を下げる。お辞儀を終え、八の字になるように体を中央に軽く向ける。ピアノが一音鳴らし、声を軽く出すのだが。
――あ、あれ。こ、声が……。
私の首がじわじわと締まり始め、喉が狭くなっていく。またこんなところで歌えなくなるのと寒気がして恐怖心から体を守るために頭が真っ白になりかける。
そんな時、重厚感のある文化ホールの扉が開き、半そでと短パン姿、スケッチブックを掲げている青年が目に入る。
『僕は芽生さんの歌が聞きたい!』
成虎君はスケッチブックを見開きで使い、気持ちを筆談で伝えてくれた。
――私も、成虎君に歌を聴いてほしい。
腹が据わったような感覚、ピアノの音楽が流れ始めても歌えないかもしれないと言う恐怖心は一切抱かなくなっていた。だって、私の大好きな人が私の歌が聞きたいと言っているんだ。私だって泣いてばかりじゃなくて、やれば出来る女なんだと知ってもらいたい。
私は歌に魂を込め、弾けんばかりの気持ちを放った。




