ベルーガ視点一三
私たちは家に入った後、寝る準備を終え、寝床に付いた。他の家族と団らんする経験など無かったため、全員がにやにやと笑いながら今日を思い返していた。
舞と怜央は美味しい料理をお腹いっぱい食べて健やかに眠りにつく。お母さんも見た覚えがないくらい穏やかな表情ですやすやと眠っていた。
――皆を笑顔にしてしまった成虎君はやっぱりすごい。私も皆に気持ちを届けるんだ。
ただ、私は成虎君の試合を思い返してまた興奮してしまい、上手く寝られなかった。布団から出て、少々鉄臭い水道水をコップに入れて薄暗い居間で椅子に座り、一息ついた。
成虎君が相手の猛攻を受けている時、胸が苦しくて仕方がなかった。第二ラウンドまではほぼ互角の戦いで私の方もなぜか緊張しっぱなし。皆応援している中、私は声が出せなかった。
でも、三ラウンド目で成虎君が相手の拳をもろに受け、倒れてしまった姿を見たら心臓が握りつぶされてしまったかのような苦しさを得た。
一〇秒で立ち上がらなかったら成虎君の負けで一〇秒間近の九秒で立ち上がり、事なきを得ていたものの、すぐに相手が攻撃に掛かった。
成虎君はまだボーとしていた。このままじゃ、彼が負けてしまうと一瞬思い、仲間を助けるかのような気持ちで叫んでいた。その瞬間、成虎君が動き、打てないと言っていた顏への一撃で相手をノックアウトしてしまった。
勝った後、ボロボロの姿のまま、その場に立ち尽くし、何かを感じていた彼の姿があまりにもカッコよすぎて……、心臓がずっとバクバクと鳴り響いていた。眼に滝が出来てしまったのかと思うほどボロボロ泣いて、周りを引かせたのは良い思い出だ。
「成虎君、舞の告白を完全に嘘だと思っていたよな。モテモテの癖に、鈍感野郎め。でも、芽生さん……、かぁ~、とうとう名前呼びされちゃったよ。明日から、また一緒にランニング出来るんだ。どうしようにやにやしないよね。嬉しすぎて顔に出ちゃうかも」
成虎君を考えれば考えるほど、体が熱くなって顔を手で冷まそうとしても頬に触れただけで火傷してしまいそうになる。
「成虎君、気持ちを伝えるのは上手いのに受け取るの下手すぎるからな。多分、気持ちを伝えるなら、はっきりと言わないと駄目。でも、付き合ったらどんなことをするんだろう、き、キスとかしちゃうのかな。そ、そんなことしたら蕩けちゃうよ」
私は健全な女子高生……。周りの女子から少々エッチな話もたくさん聞いている。成虎君の体は女子の間で話題にあがるほど筋肉質だ。あれが良いと思える運動部女子と、少々バキバキすぎると言う文化部女子に分かれている。私は文化部で最初は怖いと思っていたが、今なら上裸姿を見るだけで完全にノックアウトさせられてしまうだろう。
「成虎君の……、エッチ」
私は健全な女子高生、性欲が無いわけじゃない……。成虎君の姿を思い浮かべながら体内の熱を鬱憤と共に払い、皆が使う椅子の上で何しているんだと事後に盛大に自己嫌悪に陥る。
でも……、びっくりするくらい気持ちよかった……。それがたまらなく嬉しかった。ここ一年間、病気かと思うほど性欲が湧かなくて活力の無い生活を送っていた。三大欲求の一つを失っていた私はようやく健康的な精神を取り戻せたらしい。
鬱憤が晴れた後に布団に入ると、溶けるように眠れた。
次の日の朝、成虎君……と愛龍ちゃんが家にやって来た。なんなら、舞と怜央も私たちのランニングについてくる始末。一種の部活みたいになっているが、そうではない。
一時間のランニングを終え、私と舞は家に帰り、怜央はそのまま牛鬼ボクシングジムで体験教習を受けるようだ。一時間後、家に戻ってくると汗まみれ。でも、すっきりした顔立ちになっていた。
「俺、ボクシングしたい……」
怜央が朝食時、ぼそっと呟いた。そうしたら、お母さんが怜央に抱き着いて……。
「わかった。お母さん、もう一度、頑張るから。したいことに全力で取り組みなさい」
「母さん……、うぅ……、俺、今度は絶対、母さんを守るから……」
お母さんは怜央の発言に体内の水分がなくなってしまうんじゃないかと思うほど涙を流していた。何なら、私と舞、怜央も泣いていた。こりゃ、私達はお母さんの涙脆さをもろに受け継いでしまっているとわかる光景だった。
怜央は朝っぱらに金髪を丸坊主に変えた。ほぼ黒髪に戻り、ボロボロの制服を着てリュックを背負う。
その姿を見た舞はさっき沢山泣いてたのにまた泣いて、双子の弟が不良から脱却してくれたのが相当嬉しいのか、おでこにタコかと思うほどキスしていた。
怜央は恥ずかしそうに舞を離れさせ、玄関に向かう。成虎君と走って中学に行く約束があるそうだ。それを聞いた舞も成虎君と登校するため、早々に家を飛び出して行った。
私は溜息を少々吐きながらお母さんに行ってきますと伝え牛鬼ボクシングジムに向かう。
愛龍ちゃんと登校を再開したのだ。成虎君は双子と先に出発してしまったらしい。
私たちは電車に乗って運よく座席に座れた。そのため愛龍ちゃんが軽く話しかけてくる。
「成虎とランニングデートを再開するなんて、芽生は手が早いね~」
「二人きりで走れると思ったのに……」
「芽生、案外甘えたがりだよね。二人にさせたら、犬みたいにくっ付くんでしょ。目に見えてるよ」
愛龍ちゃんの私の理解力が物凄く高い、やはり強敵だ。
「どうせ、昨日の夜、成虎を思い浮かべて……気持ちいいことしたでしょ」
愛龍ちゃんの発言に心臓がドキリと跳ねて体温が上がっていき、咄嗟に顔を隠した。彼女にくすくすと笑われ、泣きそうなくらい辱めを受ける。
だが、耳元で「私も……」と熱が少々こもった声を聴いた。顔をあげると愛龍ちゃんの耳が真っ赤になっている。わざわざ言わなくても良いのに……、自分でダメージを食らっているところを見ると、私たちは案外似た者同士なのかもしれない。
女子同士だと案外卑猥な話のオンパレードだったりするのでいつもなら気にしないのだけれど、それは他人ごとであって自分のことになるとあまりにも気まずくなり、卑猥な話は口にしないようにしなければならないと心に刻む。
でも、そう言う気持ちになるというのは健康的な証。健全な女子高生なのだから普通だよね。
学校に到着後、すぐに部長がいる三年生の教室に向かった。部長は私を見て、目を丸くしていた。深呼吸してから教室の中に向って部長の名前を呼ぶ。その姿を見た部長は私のもとに駆け寄って来て、肩を掴まれる。眼鏡がずれてしまうくらい動揺していて、早口になっていた。色々話したい内容はあれど、言わなければいけない。
「部長、後一週間しかありませんけど、私も合唱部で歌わせてください。お願いします!」
「……せっかく喋れるようになったのに、また歌いたいと思うの?」
「はい! 私は歌が好きですから!」
私の声を聴いた部長は腰に手を当てて、眼鏡のブリッジを持ち上げ掛け直す。凄腕教師みたいな雰囲気を醸し出しながら、
「じゃあ、課題曲のソプラノAパートをこの場で歌って。出来たら、出てもらうから」
「部長……、はい!」
私は三年生の教室で、一人で歌った。歌声を聴かれるのは恥ずかしかったが、電車内で愛龍ちゃんとした会話の方が何倍も恥ずかしかったので全然緊張しなかった。
何度も聞いてきた課題曲なので、歌詞や音程、速度まで完全に把握している。音源が無くても完璧に歌った。Aパートを歌い切ると教室で拍手が起き、ものすごく褒められる。
「久しぶりに聞いたけど、ほんと良い歌声ね。聞いた限り問題ないし、即戦力として使うから。覚悟しておきなさい!」
部長は私の肩に手を置き、目尻に溜まった涙を軽く拭って私にムギュっと抱き着いてきた。部長なりに、私に気を使ってくれていたようだ。一昨日の練習の時だって私の体調を一番に心配してくれて、歌から距離を無理やり置いてくれたのだと思う。
声が出なかった期間は、辛い思いや葛藤、情けない気持ち、怒りなど、今考えると私の歌の表現力を引き出してくれている要素の一つだと考えられた。歌が上手いだけじゃ駄目で、気持ちを伝えられるようにならないといけなかった。
辛い過去や暗い未来もひっくるめて私の人生。歌に魂を込めると言うのは簡単じゃない。けれど、私はボクシングと言う嫌いだったスポーツで心を揺さぶられてしまった。
歌は凄く綺麗な印象があるけれど、そうじゃない。歌は人が発する心の叫びなのだから、実際は泥臭くて、地道で、ねちっこくて、案外卑猥……。そんなところを隠して歌っているようじゃ魂を込めるなんて不可能だ。
上手く歌おうとする必要はない。心から思っている気持ちをそのまま吐き出すだけで良い。それが魂の籠った歌になるのだと悟る。
部活の際、音楽室で全てを通して歌ったあと合唱部の皆、私を見て驚愕していた。
「芽生、歌がびっくりするくらい下手になっている。でも、なんか心が震えたわ……。その気持ちのまま、合わせて行きましょう。合唱は一人で歌うんじゃない。皆で歌うんだから」
部長の力強く通る声が音楽室で響いた。皆、大きく返事して県大会までに絶対仕上げると心に決める。




