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オニとウサギ

 『牛鬼ボクシングジム』と書かれた看板の下は、広めのガラス張り。ジムの中にいる人達がうっすらと見える。真正面から堂々と入るのは今の僕に厳しかった。ジムの横にある裏道を通って僕が住んでいる家……と言うか、ボクシングジムの寮に向かう。


「おい、成虎。なんで、そんな泥棒みてえにこそこそ歩いてんだボケ」


 ジムの窓から牛鬼ボクシングジムの会長こと、牛鬼愛龍の母……、牛鬼虎珀(うしき・こはく)さんが鬼か虎かと言うような鋭い眼光を向けながら聞いてくる。ゆったりと着こなしている黒ジャージ姿。赤いストライプが入っており、黒鬼と赤鬼を彷彿とさせる。

 短めの金髪で顔に縫い目がいくつも入っているが、愛龍の母親なだけありとても美人。大きな胸を窓枠に乗せながら話し掛けてくる理由は僕をおちょくっているのかもしれない。


「か、会長が少し休めって言ったんじゃないですか……」


「あ? 会長じゃねえ。ママと呼べ」


「……い、嫌です。それはさすがに恥ずかしいので」


 僕は会長から逃げるようにしてジム裏に建てられた寮に向かった。自分の部屋に入ってベッドに転がる。八畳ほどの部屋。ベッドと机、本棚くらいしかない。トイレと風呂は別。

 家賃は食事つきで三万ほど。場所から考えて破格の値段だが……、学生の僕にとっては結構きつい。ベッド下に隠してある万亀雄が押し付けて来た愛龍似のかなりエッチな本を見るが特に何も思わない。いつもなら、制服から着替えてすぐにジムに入っている。


「僕……、ほんとボクシング以外に何もすることが無いんだな……」


 制服を脱ぎ捨てて壁に掛けてあるジャージを手に取るといつの間にか着替えていてランニングシューズを履いて裏道を抜けていた。市内を一〇キロメートル走り、午後五時頃ジムの中に入る。

 酸欠の状態で頭がバカになっていたのかもしれない。体がジムの中に勝手に吸い込まれてしまった。その時までほぼ無意識でジムに入ってから気づいた。


「ふっ! はっ! おらあっ!」


 赤黒の半袖短パン姿の愛龍が会長目掛けて連続で拳を振るっている。周りに牛鬼ボクシングジムが抱えるボクサーたちが天才と鬼の練習を見守っていた。それほど両者の練習に魅力があると言うこと。

 ボクシングは野蛮な競技と思うかもしれないが、多くの者にスポーツとして認められている。なんせ、拳と拳で語り合うと言うのは人間の闘争本能そのものであり、昔から変わらない人間の遺伝子の中に組み込まれてしまっているのだ。だから、魅了されてしまうのかもしれない。


 僕はジム内で筋力トレーニングを始める。誰にも声は掛けない。いや、掛けられないと言ったほうが正しいか……。


「おらぁあ、死ねやっ!」

「はははっ! 逆にお前が死ねやっ!」

「ちっ……、あの糞野郎……、やっぱりお淑やかで可愛い女が良いってか。あぁ、糞!」


 ジム内にいる人は全て女性……、だが、皆もれなく殺意が高く、サンドバックが可哀そうに思えてくるほど皆のイライラをその身で受け止めている。男は僕一人……、男のボクサーもいた時があったのだが、想像を絶する過酷さに尻尾をまいて逃げてしまう者が続出した。


 僕は離れようにも離れられず、幼稚園のころからずっとお世話になっている。皆、家族みたいなもので、仲は悪くない。いや、むしろ良すぎるのかもしれない……。


「あぁん、しげとらぁ、お姉ちゃんって可愛いよねぇ?」


 汗まみれの女性が僕の背後から抱き着いてくる。距離感が近い……。実の姉ではないが、同じ寮に住んでいるのに加え、年上だからそう呼ばされる。頑なに呼ばないけれど。


「は、はい、可愛いですよ……」


「そうだよね。あぁーん、もう成虎と付き合っちゃおうかな~。絶対その方が良いよー」


「ちょっと! 抜け駆けはずるい!」


「そうだそうだ! 皆の成虎を奪うなっ!」


 周りからブーイングが起こり始める。皆、男に飢えた牝ライオンと言うか……、そう言うお年頃? と言うのか、僕は末っ子のように無茶苦茶に可愛がられている……。羨ましいと思うなら変わってほしい。一撃で熊すら倒してしまいそうな女の人から甘えられる恐怖を受けたら身が縮こまってしまう。

 熊やライオン、犀、猛獣と一緒にいられるほどの精神力は僕に無い。まして、龍や鬼なんている想像上の化け物なんてもってのほかである。


「おい、お前ら、うるっせえ」


 会長は鬼の一言で皆を黙らせる。リングから降りると僕の方に向って歩いてくる。そのまま、極太の腕で肩を組まれた。


「成虎は私のだ」


「「「ずるいっ!」」」


 いつもこんな感じに、ジムの中がわちゃわちゃして会長にボコられる毎日……だった。二週間前までは。


 筋力トレーニングを終えた僕は午後七時に寮に戻り、食堂に行く。この時間帯になると寮母さんが夕食を出してくれている。今日はご飯とから揚げ、野菜類。猛獣たちの好物が置かれているので、危険地帯だ。

 周りの猛獣たちに絡まれるのを危惧してチャカチャカと倍速で山盛りのご飯とから揚げを平らげる。


「卯花さん、今日も美味しい夕食をありがとうございました」


「まあ、上手いこと言っちゃって。でも、もう良いの? 成虎君は男の子なんだし、もっと沢山食べて行きなさいよ」


 食堂で花と兎が刺繍された可愛いエプロンを身に着けた黒髪ロングで小柄の女性、明神卯花(みょうじん・うばな)さんがしゃもじを持ちながら話し掛けてくる。

 あの皆から怖がられていた万亀雄の実の母だ。家がジムの近くにあり、月曜日から金曜日の朝食と夕食を作ってくれている。

 万亀雄からは考えられないほど良い人オーラ全開で猛獣しかないジムの女性を見た後だと、とても可愛らしい兎みたいな女性だ。癒されるったらありゃしない。


「成虎君、今日、万亀雄ちゃんは学校に行ったのかしら?」


「遅刻でしたけど、来ましたよ。まあ、すぐに帰っちゃいましたけど……」


「そう……、一回しめないと駄目かしらね?」


 卯花さんが一瞬猛獣になりかけた気がしたが気のせいだろう。うん、きっと気のせいだ。


「万亀雄ちゃんが悪さしそうになったら、成虎君が止めてくれると嬉しいんだけど……、あの子、喧嘩っ早いから……」


「まぁ……、そう言う場面に出くわしたら、止めようとは思ってます」


 僕は卯花さんに頭を下げ、すぐにお風呂場に向かう。早く入らないと地獄が待っている。ここにいる猛獣たちは皆、貞操観念がバグっている。と言うか、僕が男として認識されていない可能性すらある。

 脱衣所で服を脱いだら風呂場に入り、シャワーで汗を流したあと、お湯に浸かる。出来ればゆっくり入っていたいところだが、ギシギシと化け物たちが床を軋ませながら歩いてくる音が鼓膜を震わせた。


「たぁー、疲れた疲れた。飯の前にひとっぷろ浴びないとな」

「うんうん、成虎とお風呂に入りたいとか、一切思ってないし」

「そうそう、成虎を弄って遊ぼうなんて、一切思ってないしー」


 先ほど言い合いしていた犀川さんと熊本さん、象谷さんの三人が我先にと風呂場に入ってくる。猛獣が風呂に入るのに、服なんて着るわけなかった。まあ、誰もが想像しているような女の体ではない。

 男よりも男らしい体だから興奮するかと言われたら別に……。いや、そう言うのが趣味の人もいるかもしれないけど、僕はすでに見慣れてしまった光景であって、でも健全な男子高校生であるからして、そう言うのに過敏と言うか……。


「いざ参る」と会長まで入ってくる始末……。会長は全身凶器なので触れたら死を覚悟しなければならない。たわわな胸が周りの猛獣と全く違う。

 僕は目を閉じて風呂場から動けず、逃げられなくなってしまった。会長と思わしき鬼が僕の肩に腕を乗せながらお湯に浸かる。


「まあ、何だ。私達は家族同然だから、気にするな。こっちは、お前のちんちんなんて幼稚園の頃から見てんだよ」


 ――だから気にするなって? 無理でしょ、そんなの。健全な男子高校生に刺激が強すぎるんですよ。僕がこんな状態でお風呂に入っていると万亀雄が知ったら血の涙を流しそうだ。なんたって、彼の初恋の相手は会長なのだから。今は別の人だろうけど。


「ママ、成虎はもう出たの?」


 背後からひとひとと歩いてくる知り合いの声。いや、さすがにまずい。彼女もそう言うところは気にしない猛獣だ。同年代の裸体は刺激が……、

 後ろを振り向くと半そで短パン姿の愛龍がいた。僕をさげすむような瞳が痛い……。


「なんだ、成虎も入ってたの? じゃあ、私も入ろうかなー」


 ――なんで、そうなるんだ。自分の家庭がちょっとはおかしいかもって思わないかな?


 愛龍は服を脱ぎ始めたので、僕はすぐさまお風呂から駆け出し、脱衣所で着替えの入った籠を持ちながら走る。ドタドタ走っていたら、


「もう、廊下は走っちゃいけません。って、成虎君、なんで、すっぽんぽん……」


「う、卯花さん、これには深い事情が……」


 卯花さんは小さな手で顔を覆い、僕の裸体を見ないようにしてくれていた。ときおり指を開いてチラ見してきたのは、……うん、見なかったことにする。


 僕は卯花さんに申し訳ないことをしたと思いながら部屋に入り、スポーツタオルで体を拭いた。いつもは疲れ切っていて逃げる気力もなくボーっとしているため、何も思わないが最近は練習に身が入っていないのか、深く潜れている気がしなかった。

 打算的な練習ばかりで強くなれている気もしない。まぁ、もうボクシングなんて出来ないのだから、今の僕がこれ以上強くなる必要が無いと思ってしまっているせいかな……。

 シャツと内着だけを身に着け、すぐに寝る準備を終わらせたら午前二時に目覚まし時計をセットして午後八時に眠る。疲れていないからか、最近はすぐに寝付けなかった。いつもベッドの上に乗れば五分と経たずに寝ていたのに……。


 六時間眠った後、午前二時に起床。新聞配達のアルバイトをこなすのだ。僕が通っている高校は原則アルバイト禁止だが申請を出せばアルバイトが出来る。

 僕は……両親がいない。捨てられたわけではなく、両者共に亡くなっている。母の親友だった会長のもとに預けられて今まで育ててもらった。

 実の妹もいるのだけれど、母のように育ってほしくないと言うことで祖父と祖母が育てている。年に数回しか会えないが、嫌われているわけではない。

 会長曰く、お金も毎月送られてくるそうだが、寮代くらい自分で稼がなければと思い走るのが好きだったので新聞配達をしている。もう、一年以上は続けているはずだ。


 午前二時から午前五時まで新聞配達を行ったあと、ジムの朝練に参加。午前七時まで猛獣たちに襲われ続けたあと、朝食。癒しの卯花さんを見ながら、ボロボロの状態でご飯とみそ汁、卵焼き、焼きじゃけを残さず食べきる。

 そのまま、食堂の調理場に移動し、昼食用の料理を自炊した。弁当に詰め込んで登校の準備をした後、午前八時前に寮を出る。走って行けば、午前八時三〇分に余裕で間に合う。すれ違った愛龍が僕の方に向って口を開いた。


「ちょっと、一人で行く気? 幼馴染を置いて? 信じられない」


「愛龍は自転車か電車でギリギリを狙うでしょ。僕にそんなお金の余裕はない」


「二百円ちょっとしかかからないし、定期券を買えば……、って言っても無駄か。まあ、精々頑張って。今年も雨の日、風の日、台風の日、関係なく走っていくんでしょうけど」


 愛龍は皮肉も込めて応援してくれた。台風の日は電車も止まる。地下鉄なら関係ないのか? と無駄なことを考えながら僕はさっさと走りだし、学校に向かった。

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