表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/54

リュウとカメ

 休日に水族館に足を運んでいた僕は高校二年の春、校長先生の長い話を聞き終えて一年間通う教室に戻って来た。


「はぁ~、あのはげ頭、話し長すぎ。もうちょっと短く出来ないものかね」


「…………うん」


「ちょっと、ママに頭殴られ過ぎてバカになってる?」


「…………うーん、そうかも」


「はぁ……、そんな訳ないでしょ」


 廊下側の窓際の席に座っていた僕の前に黒短髪の女子が仁王立ちしながら立っていた。

 顔は可愛いけれど今の表情は鬼のよう。雰囲気が毎日変わる顏と手周りの絆創膏の数で、ストレスの量がわかる。

 一枚は普通、二枚で少し注意、三枚で離れた方がよくて四枚ですぐに逃げた方が良い。そんな彼女が付けている絆創膏の数は五枚だった。

 右拳を握り息をはぁ~っと吐いて温めている。次の瞬間、脚を肩幅に開いて僕を殺す勢いで殴りかかって来た。

 僕は反射で頭を右にずらす。何かがちりっと焼けたような痛みと彼女の舌打ちが重なる。


「ちょっと、愛龍(あいり)、いきなり殴り掛からないでよ……。今、そんな気分じゃないんだ……」


「そんな気分がすでに一週間以上続いているようですが? なに、まだ引きずってるの?」


「…………うん、たぶん、一生引きずる」


「『陸の鯱』が聞いてあきれる……」


「その恥ずかしいあだ名やめてほしいんだけど……」


「たかが一人半身麻痺にさせたくらいでくよくよしてんじゃないわよ。ボクシングをやってるならそれくらい覚悟してやれっての。謝って許しも貰ったんでしょ。それで心をさっぱり入替なさいよ。今の成虎(しげとら)ならインターハイに行けるって! ママも期待しているしさ、この私が一緒に練習してあげるから!」


「愛龍は手加減を知らないからな……。遠慮しておくよ……。あと僕はもうリングに立たない……。立ちたくない……」


 僕は机に突っ伏し握り拳を作る。未だに左拳を握るとあの時の感覚が脳裏に浮かぶ。


「こりゃ、相当重症だわ……」


「はーい、皆、すわってすわって」と担任の先生の声が教室に響く。

 愛龍は僕の頭を優しく撫でた後、ひっぱたいて自分の席に戻っていた。


 牛鬼愛龍(うしき・あいり)は去年、違うクラスだったのに今年から同じクラスになってしまった僕の幼馴染だ。

 僕が通っているボクシングジムの会長の娘。腐れ縁だ。

 学校では満面の笑みのお面を被っておりとても大人しい。リングの上でお面をひとたび外せば鬼の形相で闘牛……いや、龍のごとき激しさで敵をボコボコにするボクシングの天才児。

 まあ、両親共にプロボクサーだから血がサラブレッドなんだよな。母の方は元世界チャンピオンだし。


「え、えっと、えっと……、海原君……、自己紹介をお願いしても良いですか……」


 先生から敬語を使われる始末の僕は椅子から立ち上がって一年間お世話になる皆に顔を向けた。すると半分の女子から怖がられ、半分の女子から尊敬の念が送られる。男子からもれなく怖がられるのだけれど……。


海原成虎(うみはら・しげとら)です」


 僕が自己紹介を終え、椅子に座ろうとしたら担任の先生が強張った表情で黒板の方に視線を向けた。「名前、部活動、好きな教科、趣味、皆に一言」という具合に自己紹介で言うべき内容が書かれていた。あまりにボーっとしていたものだから、黒板を見ていなかった。


「あ、え、えっと……、部活には入ってません。好きな教科は数学。趣味は……水族館に行くことです。一年間、よろしくお願いします」


 中腰の状態で早口になりながら全て言い切り、椅子に座った。パチパチと言う小雨のような拍手が送られた。今の自己紹介で、吊り上げられた魚のように心臓が跳ねている。人前で話すのは苦手な小心者なのだ。

 いつの間に自己紹介を終えていたのか、隣にいる愛龍がクスクスと笑いながら脚を蹴ってくる。ボーっとしているのが悪いんだよとでも言わんばかりだ。


 自己紹介する人を目で追っていると、後ろの方に開いている席が一カ所。新学期初日から遅刻している者がいるらしい。いない席の者の自己紹介は飛ばして立ち上がった女子を見た瞬間、どことなく見覚えがあった。

 マスクはしておらず、だて眼鏡も着けていないが雰囲気だけでわかってしまった。

 立ち上がった女子は黒板の前に立ち、チョークを持って名前を書く。それ以外に部活動と好きな教科、趣味、皆に一言……。自己紹介なのに、一音も発することはなかった。


桃澤芽生(ももざわ・めい)、合唱部です。好きな教科は国語。趣味は……水族館に行くこと。事情があって声が出せません。でも、仲良くしてくれると嬉しいです』と達筆な字で書かれていた。隣の先生の字が霞むくらい上手い。


 ――声が出せない? 水族館にいた時、声を出していた気がするんだけど……。


 桃澤さんは頭を下げた影響で前に出てしまったセミロングほどの髪を耳に掛け直し、すぐに自分の席に戻って行った。拍手をするべきなのだろうかと固まっていると愛龍が鼓膜を劈くほどの爆音を拍手で起こし、皆も釣られて手を叩く。

 最後の人の自己紹介が終わったころ……。


「ふわぁ……、うっす……」


 後ろではなく、教室の前の扉が開く。入って来たのは制服を着崩し髪をオールバックに固めている身長一七五センチメートルほどの青年。

 先生が固まり、教室の九割八分の顔が青く変わる。


「シゲ、今年も一緒のクラスか……。ま、楽しくやろう」


 青年は廊下側の通路を通って僕に肩を組んできた後、黒板を背にした時、右後ろにある、さっきまで開いていた席に着く。


「ちょっと初日から遅れてくるなんて、バカじゃないの! 先生に謝って自己紹介して!」


 愛龍は青年に向って母親かと言うくらいの剣幕で叫ぶ。


「はぁ……、うるっせえな、朝から。えっと、すんません。明神万亀雄(みょうじん・まきお)。帰宅部、好きな教科は喧嘩。趣味は喧嘩。あぁー、一言……、他校にいびられたら俺に言え」


 万亀雄は椅子に座り、すぐさま突っ伏して眠りについた。他校の不良と抗争でもして来たのだろう。

 中学時代からあんな感じだ。座った席の隣にいる桃澤さんは声を出せないのにさらに出しにくい状況になりつつある。

 先生も怒るに怒れない雰囲気になり、ホームルームが岩に着いたコケのようにぬるっと終わった。

 愛龍は万亀雄のところに……行かず、隣の桃澤さんのもとに向かった。逆に万亀雄がこっちに来る。愛龍の椅子を横に向け椅子の背もたれを僕に向けながら睨みを効かせてくる。


「……シゲ、他校、特に藻屑高のやつらが俺たちの島を荒らしに来やがった。やっぱ、『陸の鯱』がいねえと俺たちが舐められちまう。ツラ貸してくれねえか?」


「万亀雄……、前も言ったけど僕はもう行けないんだ……。小、中、で会長にこっぴどく怒られたんだから。その時のせいで僕の頭がおかしくなったのかもしれない」


「大丈夫だ、お前はもとから大分やばい奴だ。まぁ、会長もやばい人……、いや化け物か」


「僕をやばい人扱いしないでほしい。あと会長が化け物だって言うのは同感だよ……。と言うか、そもそももう無理なんだ。僕は……もう肩から上を殴れない」


 左拳を握ると電気を当てられたようにプルプルと震えている。手だけ見れば、死ぬ間際のお爺さんのようだ。


「そうか。なら仕方ねえな。だがそんなんじゃ、いざって時に大切なもんを守れねえぞ」


「いざって……、どんな時だよ」


「そりゃあ、母親や妹、彼女が拉致られた時だろ」


「はぁ……、シスコンなのは変わらないね。何なら、マザコンでもあるか。残念ながら、僕の妹は近くにいないし、彼女もいない。母親も……ね」


 僕が万亀雄の本性を呟くと胸ぐらをつかまれ、鋭い眼光を向けられる。多くのやんちゃな学生たちと喧嘩三昧の日々を送っているだけに、威圧感は半端ではない。周りの生徒達が完全に引くくらいの剣幕を放っている。すぐに放され、教室を出て行った。


「いつもいつも強引なんだから……」


 その日、万亀雄は遅刻して学校に来たにも拘わらず、その他の授業に出ることなく無断で早退していた。まあ、いつものことだ。中学のころからぐれちゃってあんな感じ。でも、学内のテストで上から一〇番以内に入るくらい頭が良いのはずるいといつも思っている。


 新学期初日が終わり、登校鞄を担いで教室を出ようとしたころ……。誰かに睨まれているような気がした。でも、気にすることなく教室を出て帰路につく。

 路上に咲く桜でも見ながらゆっくり帰ろうと思っていても、いつの間にか雨のように降る桜の花びらを全身に受けながら走っていた。

 電車を使えばもっと早く目的地につけるのだろうが、そんなお金を使うのはもったいない。自転車も持っていないし、歩いたら一時間くらいかかってしまう。なら、走るしかない。せっかちな方ではないと思うんだけど。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ