隣人の飼っている犬
男は迷惑していた。
アパートの隣の部屋から、いつも耳障りな犬の鳴き声が響いてくるのだ。その部屋の前を通ると異臭もする。犬のトイレが玄関先にあるのではないかと思えた。
その夜も、薄い壁を通して、寂しがって鳴いているらしき声が聞こえた。男はテレビの音量をあげて抵抗する。
「このアパート、ペット禁止だろ……」
腹が立ったのでテレビの音量をさらにあげた。
人の足音らしき震動が重く低く響き、玄関のほうへ歩いていく気配がした。隣室のドアが開く音が聞こえ、鉄の階段を降りていく足音が消えていった。
「なんだ、いたのかよ」
男は舌打ちする。
「犬が寂しそうに鳴いてるから留守かと思ったじゃねーか」
隣人が出ていく時、鍵をかける音がしなかった。下の駐車場で車のエンジン音が聞こえ、隣人がどこかへ出かけて行くのがはっきりとわかった。
隣人は一人暮らしのはずだ。
会話をしているのが聞こえてきたことは一度もないし、いつも昼間は犬の声しかしない。
鍵を開けっぱなしで出かけたということは、すぐに帰ってくるのか、それともかけ忘れたのか……
男はそっと立ち上がると、玄関のドアを開け、隣の部屋を見た。中の灯りが黄色い。豆電球だけにして、灯りを消して出かけたのだろう。
「帰ってくれば車の音で気づくはずだ……」
そう呟くと、隣の部屋のドアノブに手をかけた。
ゆっくり回すと、ドアが開いた。
中へ入ってどうするつもりだったのか、自分でもわからなかった。とりあえずどんな犬がいるのか見てやるだけのつもりだった。
思った通り、ドアを開けてすぐのところにペットシーツが敷いてあり、そこに犬の大便が固まって放置されている。
男は思わず鼻をつまむと、部屋の奥を睨んだ。犬に対する殺意が、その目には産まれていた。
部屋の奥は暗くて見えない。しかし寂しそうに鼻を鳴らす犬の声がはっきりと聞こえていた。
男は玄関先に立てかけてあった傘を手に取ると、部屋の奥へと入っていく。
「殺す……」
低い声で呟きながら、ゆっくりと、フローリングの床をギシリ、ギシリとたわませ、歩いていく。
「どんな犬だ。殺してやる」
入ってすぐのキッチンと、奥の居間とのあいだを引き戸が仕切っていた。それはおおきく開いていたが、その死角になるところに犬はいるようで、声はするが姿は見えない。
男は居間へ、踏み込んだ。
犬ではなかった。猛獣のように、よだれを口から溢れさせ、人間の女がいた。怯えた目をこちらに向け、狂ったように吠えると、それは男に飛びかかり、おおきく開けた黄色い歯で、男の喉に噛みついた。