晴雨兼用傘
「コーちゃん。また私の傘、勝手に使ってたでしょ〜?」
仕事を終えた帰宅後。
コウスケは玄関先に座り、革靴の紐を解いている。
すると、おっとりとした中にも、怒気が含まれた彼女の声が背後から降ってきた。
「あ、ゴメン、ミヤ。やっぱりバレた?」
コウスケは振り返ってミヤを見上げる。
「バレた? じゃないよ〜」
腕を組んだミヤは、コウスケを見下ろしながら続ける。
「せめて使ったら、ちゃんとキレイにしまっておいてよ。雨の日は汚れちゃうから使わないでって、あれだけ言ってるのに、も〜」
分かっている、自分はミヤを怒らせてしまっているのだ。
コウスケは自分に言い聞かせる。
普段からおっとりして、滅多に怒ることのないミヤ。
そんな彼女が唯一、と言ってもいいくらい怒るのが、彼女の愛用している日傘を使ってしまった時だった。
怒られているのは分かってるんだけど。
コウスケが靴を脱ぎ終え、立ち上がる。
するとこれまで見下されていたコウスケの顔が、ミヤの頭二つ分くらい高い位置へと変わった。
二人が立って並ぶと、ミヤの頭はコウスケの胸元くらいまでしかない。
互いに少年少年と言う年齢はとっくに過ぎている。
それでも彼女の口調や性格、体格のせいで、今のミヤは少女がむくれているように見えた。
コウスケは怒られている最中、そんなミヤの姿にいつも愛おしさを感じてしまっていた。
「ごめん。次からは気をつけるよ」
腕組みを解かないままの彼女に、コウスケは頭を下げる。
「もう、そのゴメンは信用してあげません」
これで一体何度目でしょう?
冷たいミヤの視線が、コウスケを突き上げる。
「ゴメンってミヤ」
コウスケはもう一度ミヤに、謝罪すると「でもさ」と言葉を続けた。
「この傘って晴雨兼用だろ。なんで日傘にしか使わないの?」
普段コウスケは日傘を使用しない。
無断でミヤの傘を使って怒られるのは、決まって雨の日だった。
「なんでコーちゃんこの傘、晴雨兼用だって知ってるの?」
ミヤが驚いた顔をして腕組みを解いた。
「だってコレ、二人で買い物に行った時に買ったやつだよな?」
「どうしてそんなこと覚えてるの? いつも色んなこと忘れちゃうのに」
二人が付き合い始めた日。同棲を始めた日。
初めてのデートで行った遊園地で、買ってプレゼントしてくれたぬいぐるみ。
ありとあらゆる思い出を忘れて行く、あのコーちゃんが。
続けられていくミヤの言葉に、流石のコウスケも肩身が狭くなっていった。
「で、でもほら。高2の夏に俺がミヤに告白した場所とかはちゃんと覚えてじゃん?」
「それ忘れてたら、本当にどうかと思うよ~」
「その傘はさ、ミヤにしたら珍しいって言うか、らしくないもの欲しがったから、余計に覚えてるんだよ」
コウスケの言葉に、ミヤは嬉しそうに頬を緩ませた。
ミヤはいつも所謂女性らしいとされる、明るい色や、可愛らしくデザインされたものを好んで身に着けている。
それでいて身の回り全てを、自分の好みで固めている訳ではない。
落ち着いた色と上手く組み合わせた中で、さり気なく自らの好みを主張させている。
街中で隣を歩いている時、そのセンスが更に彼女の可愛らしさを増幅させていると、コウスケは誇らしく感じていた。
「ミヤってさ、いつも可愛いやつ選ぶでしょ? だからこの傘は無骨っぽくてらしくないって言うか」
普段、ミヤの愛用するものなら、とっさとは言えコウスケも手にしない。
この問題の傘は彼女が使うには少々大振りな一本傘で、色も黒に近いグレー。
いつも彼女が欲しがるものとは正反対の傘だった。
それにも関わらずミヤは見つけた瞬間、嬉しそうに手に取り即決で購入した。
レジ前で喜びを抑えきれないでいる彼女の様子を、コウスケは今も脳裏に焼き付けていた。
まあだからこそ、急いでいる雨の日の朝なんかは、思わず手に取ってしまうんだけど。
「それだけ?」
今は綺麗に手入れされ、畳まれている傘を見ながら、過去に思いを馳せていたコウスケ。
外れた視線を、呼び戻すようなミヤの問いかけに、コウスケは顔を上げる。
彼女を見ると、その目は先ほどまでの、何かを期待するような喜びの表情は失われ、再び鋭さを増していた。
だめだな。
コウスケは内心呟く。
今はミヤに怒られていて、叱られている。
ここはしっかり反省した態度を示さないといけない。
分かっているんだけど……
子犬のように目まぐるしく感情や表情を変えるミヤを前にすると、どんどんと愛おしさがこみ上げてくる。
コウスケはにやけていく顔を必死に取り繕うとするが、どうやら隠し切れなかったらしいかった。
「何がそんなに可笑しいの?」
ミヤは声のトーンを完全に変えると、
「もう、コーちゃんのばかぁ」
言葉と同時に振り上げた拳を、全身を使って振り下ろしてきた。
ミヤにとっては渾身の一撃であろう拳も、二人の体格差に彼女の非力さも加わって、それほど痛みを感じるものではない。
彼女もそれは十分承知しているらしく、なんども拳を振り下ろしてくる。
漫画やアニメのように、ぽかぽかと音が聞こえてくるのではないかと言う光景が、コウスケの眼前で繰り広げられていた。
やっぱり可愛いなあ。
怒りながら胸元に拳をぶつけてくるミヤの姿を、コウスケは愛おしく感じる。
たまらなくなったコウスケは、衝動的にミヤを抱きしめたくなった。
「っと、危ねえ」
両腕を広げミヤを抱きしめようとした瞬間、コウスケは我に返って踏みとどまる。
いきなり両腕を広げたまま固まったコウスケに驚いて、ミヤも動きを止めた。
よく考えたら、自分はマスクをまだ外していない。
帰ってきてからまだ、手洗いもうがいもしてなかった。
それに着替えやシャワーも浴びずに彼女を抱きしめるなんて、今はありえない。
「ミヤ、ゴメン。俺、まだ手洗いうがいしてないし、風呂にも入ってない」
後で話し聞くから一旦タイム。
コウスケはそれだけ言い残すと、自らの荷物を置き風呂場へと駆け込んでいった。
「ミヤ、出たよ」
コウスケがバスタオルで髪を拭きながらリビングに足を踏み入れる。
ミヤはすでにキッチンで、夕食の用意をしてくれていた。
「ありがとう、ミヤ。なんか手伝える?」
先ほどまでの怒気は、背中を見た限り感じなかった。
「もう、終わるから平気だよ。それよりちゃんと水分取りなよ~。慌ててお風呂行ったから、水飲んでないんでしょう?」
完全に怒りが解けている様子でもなかったが、それでもコウスケの体調を気遣うミヤ。
コウスケも火照った頭と体を冷やすように、冷蔵庫にある麦茶をコップに注ぎ飲み干した。
「でさ、ミヤ」
二人はテーブルを挟んで向き合って座る。
彼女が用意してくれてた夕食を前に、コウスケは問いかけた。
「全部謝るからさ、傘を勝手につかったのも、忘れっぽいのも全部謝るから、教えてくれない?」
「なにを?」
「あの傘を、そこまで大切にする理由」
「別にわざわざいう事でも」
大した理由じゃない。
そんな態度を装いながらも、どこか恥ずかしそうにミヤが椅子に座り直した。
「そんなこと言わずにさ。理由分かれば、今度から勝手に使ったりしなくなると思うから」
箸を持ち上げる前に、コウスケは顔の前で両手を合わせる。
「それは、お願い? それともいただきます?」
ミヤが小首を傾げてコウスケを顔を覗き込むように見る。
「どっちも」
「も~」
どちらからでもなく、互いにつられる様にして笑いあった。
「私にとっては結構大切な思い出なんだけどな~」
コーちゃん、全然覚えてくれてないみたいだから。
最後にいたずらっぽく笑った後、ミヤは語りだした。
「私さ、今はだいぶ収まってるけど学生の頃、紫外線アレルギーみたいので、太陽の光に弱かったでしょ?」
うん。とコウスケは頷く。
「夏なんか特にだけど、屋外でする授業。体育とかとか、ずっと見学だったじゃない?」
「ああ、それは覚えてる。高校の時もそうだったよな。いつもでっかい傘さして見学してたから、なんで日陰に居ないんだろうって思ってた」
「そうそう。実はあれ、体育の先生が許してくれなくてさ。みんな暑い中で頑張っているのに、一人日陰に居るとは何事か! みたいな感じで」
「そう言えば、そんなスポ根、友情、努力、勝利が信念です。みたいな先生居たな」
当時でも行き過ぎた指導ではないかと、時折問題視されていた教師と過ぎ去った青春の日々。
一つの記憶を呼び覚ますと、連なって当時の記憶が思い浮かび、コウスケはしばしノスタルジーに浸った。
「で、親と担任の先生に説得してもらって、日傘だけはどうにか許してもらえたんだよね」
記憶の中に旅立ちかけていたコウスケを、ミヤの言葉が引き戻す。
ミヤはすでに夕食にも手を付け始めていて、自分で焼いた鳥の胸肉を美味そうに頬張っていた。
彼女は小柄なのにそこそこ食べられるタイプで、食事する姿は見ていて微笑ましかった。
「だから私、自分に合わないでっかい傘使ってたんだけど、いつだったか間違って持っていかれたか、隠されたかで失くなっちゃった時があって」
「ああ!」
突然コウスケが、雷にでも打たれたかのように身を震わせ声を上げた。
「やっと思い出した?」
「ああ、俺、ミヤに傘貸したことある」
「そうだよ。これなら代わりになるでしょ? って。私たち、あの頃あまり仲良い訳でもなかったから、驚いたんだ」
「ああ、あれは」
コウスケは恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。
「私、あの頃からだよ? コーちゃんのこと良いなって目で追うようになったの。だから告白してもらえた時は本当に嬉しくて」
そこまで言うと今度はミヤが恥ずかしそうに両頬を手で覆った。
「もう恥ずかしいよ。だから私からはあまり言いたくなかったのに。コーちゃん、意地悪だからなかなか思い出してくれないんだもん」
「ごめん、意地悪してたわけじゃ」
「あの傘はさ、あの時貸してくれた傘によく似てるんだよね。ずっと似てるの探してたんだけど、日傘としてってのだと、お店にもネットにもあんまりなくて、だから見つけた時すぐ買っちゃったんだ」
恥ずかしそうに身をよじるミヤの姿。
コウスケは少なくても自分にとって、人生を懸けるに値する愛おしさを感じた。
「コーちゃんって優しいよね。周りもことも気にしてよく見てるし」
夕食を終えた後、食器をシンクに持っていこうと重ねている時、不意にミヤが口を開いた。
「そんなことないよ。さっきのこと言ってるなら、俺はあの頃、もう多分ミヤのこと好きだったし」
だから困ってるの見過ごせなくて――
「ううん、私にだけじゃなかったよ。コーちゃんは私以外にも困ってる人の力になろうと、助けようとしてたよ。表立って率先してやるタイプじゃないかもしれないけど、私はちゃんと見てたから知ってるんだよ」
コウスケの言葉を遮ってミヤが言った。
「だから、全然そんなことないって。そんなことできてたら、もっと給料良くなってるだろうし、そしたら結婚の話だって」
「そんなことないと思うよ。私は、お仕事しているコーちゃんを見たことのないけれど、きっと今でもいろんな人の力になってるんだと思うよ」
ミヤはそこまで言うと突然席を立ち、コウスケに近づいて行った。
「コーちゃんがあの頃から変わってないのは、私が一番よく知ってるんだよ。コーちゃん。イイコ、イイコ」
ミヤは座っているコウスケの隣まで行くと、優しくコウスケの頭を撫で始めた。
「ミヤ、ごめん」
コウスケが呟く。
「何も謝ることなんてないよ。傘だって次から気を付けてくれればいいし」
「違う、そうじゃなくて、俺、やっぱりミヤのこと好きだ」
「大好きだ」
今度こそミヤに対する愛おしさが爆発したコウスケは、力いっぱいミヤを抱きしめる。
「なに、急にどうしたの?」
驚くミヤをコウスケは抱きしめながら立ち上がる。
驚きながらも首にしがみつくミヤ。
コウスケは態勢を変えてミヤを抱え直すと、そのまま隣の寝室へと抱いて行った。
「ミヤ、今日は本当にごめんな」
薄明りが点いた寝室のベットの中。横に寝ているミヤにコウスケが囁きかける。
「今日のことで、あの傘の無断使用は俺のNGリストに加わったから、もう大丈夫だ」
コウスケがミヤの髪を柔らかく撫でる。
「NGリストって、コーちゃんにもあるんだ」
ミヤは心地良さそうに身をよじって目を開いた。
「そりゃあるさ」
「忘れっぽいのに?」
からかうようにミヤが笑う。
「忘れないために」
「他には何があるの?」
「聞きたい?」
「うん」
「じゃあ、特別に中でも一番の重要機密を教えてあげよう」
「なに、なに?」
少しだけ空いていた二人の隙間。
その隙間を埋めるように二人は顔を寄せ合った。
「それはな……」
コウスケは急に真顔になる。
「他の男には絶対に知られたくない、ミヤの弱いところ」
勿体付けるように、充分間を取ってからミヤの耳元で囁いた。
「も~、コーちゃんのばかぁ~」
隣で笑うミヤの笑顔、肌の温もり。
一生彼女を守って行くんだ。
コウスケは、改めて胸に刻み込んだ。