㊷
午後のひととき。自宅にて黙々と例の漫画を読んでいた皆川さんの姿が思いのほか微笑ましく、しばらく無言で見つめてしまった。視線に気付いた彼女が顔を上げてこちらを見て、
「すみません。内容が個人的にヒットしてしまったもので集中しちゃいました」
と釈明するように言ったので、「ううん、気にしないで」とフォロー。このアパートにわたし以外の人物がいた事は過去に数度しかなかったと記憶している。引っ越して初めの頃に弓枝にも来てもらって、後はかなり前に母親が来た事がある位だと思う。本以外の物をあまり置かない主義なので、忙しいときに少し散らかる以外は必然的に部屋の中はスペースも多く人を呼んでも困らない筈なのに、プライベートの時間を一人で過ごしたい気持ちが強いせいか自分から誰かを誘うというような事はこれまで無かった。けれど、この日はなんだか皆川さんが一緒に過ごしてくれている事がなんとなく心強いと感じる。皆川さんはどこに居ても普段とほとんど様子が変わらず、わたしの性格もよく知っているからなのか自然体でいてくれている感じ。
「面白いよね。オタクと言えばオタクなんだけど、これまでにない切り口だったから読んでて新鮮に感じたよ」
「めっちゃ『あるある』なんですよね。アイドル好きの登場人物の気持ちは…」
「わたしも何か一つくらい熱中できる趣味があったら違ったのかもなって。本いっぱいあって読書が趣味とも言えるけど、読書って普通にするものって感じだから」
「流石ですね。わたしも見倣わないと」
こんな会話をしていて気付いたのは皆川さんが漫画を読むスピードが『異様に早い』という事。ここに来て30分程しか経ってないのに既に3巻が終わって4巻目も半ばに突入している。
<内容理解している?>
とは思ってしまうのは流石に失礼なのかも知れないけれど、ある意味わたしにとっては信じられないスピードだという事なのだと思う。ただ職場でも皆川さんの呑み込みの早さは結構感じるし、天性のものなのだろうと思う事にした。
「信じられない…か…」
聞こえないくらいの小さな声で呟いて、その言葉の意味を反芻する。実際、わたしが持っている常識は今年に入って色々壊されてしまった観がある。『不思議な体験』は一旦保留にするとしても、昴君の言うガチャの能力に始まって、彼と友人のような不思議な関係が今までずっと続いている事、動画に映り込んだもの、それが小さくではあるけれどニュースになってしまったこと、他にも元カレ智広と偶然に(?)再会して普通に飲みに行った事、ペーパードライバーの身で敬遠していた運転をしてしまった事。震災の経験で人生どうなるか分からないものだと思い知らされていても、先の事は本当に分からな過ぎて頭でっかちのわたしでも処理は追い付いていないのかも知れない。
信じられない事が起こったとしても、起こった事は認めなければならない。
この半年でそんな事を受け入れるくらいには成長はしたかも知れない。この時、皆川さんの前で『不思議な体験』の事を説明しようとも思ったけれど実際あの時青ざめたわたしを介抱してくれたのは彼女だし、なんだか弁明するような感じになってしまいそうで躊躇われた。それに、たぶんだけれど、あの体験はどうあってもわたしにとって意味がある内容のもののような気がしている。それはつまり、他の人に説明したとしても前後のこの流れを知らない単発の体験だったら完全な意味が感じられない事だという事だ。わたしだって過去にネットでオカルトじみた話を読んだ時にもどう肯定的に解釈するとしても、
<そういう体験をする事もあるんだ>
という感想しか出てこないと思う。体験した誰かが匿名社会の中でもっと個人情報を出す事が出来ないから、結局信憑性も含めてある程度の理解に留まるもの。皆川さんはわたしの事を知ってくれているから少し違う可能性もあるけれど、わたしが『意味深』に感じるようには感じないと思う。当時のわたしが必死で口走った事を彼女は彼女なりに理解しようとしていると思う。それでいいのかなとも思う。
「そういえば真理さん。ちょっと聞きづらい事なんですけど、あの時の事って覚えてますか?」
と思った矢先にこの質問はちょっとドキリとしてしまう。皆川さんは漫画を一度置いてこちらを見ている。
「あの時って、『あの時』かな?」
「そうですね」
「うん。覚えてるよ。会社での事は半分くらいしか覚えてないかもしれないけど」
「そうですか…。ごめんなさい。大変だったとは思うんですけど、わたしもわたしなりに気になっていた事なので」
「そうだよね。どう説明すればいいのか分からないけど、少なくともみんながが言うように『疲れてた』わけじゃなかったの。信じられないものを見てしまったから気が動転しちゃったって事なんだけど…」
「わたしもそう感じます。真理さんずっと普通にしてますし、確かに少し忙しくなってたとは言ってもあの日はどちらかというと出社してきた時に、何か良い事があったのかもなって感じに見えました」
「あ…確かにそれは言えるかも。前日にパスピエって、わたしが好きなアーティストCDが届いて嬉しかったの」
「そうだったんですね。だったら猶更…」
「実はわたしも後からその時の事を思い出すと別にショックではないんだけど、ちょっと自信が無くなっちゃって…むしろ、夢だったと思った方がわたしとしてはありがたいような気もする。性格上ね」
「なんとなく分かります。前にも言ったかも知れないですけど、子供の頃に見た震災の光景とか、本当でも嘘だって思いたくて、わたしも真理さんのような心境になってたかもです」
「この前の体験自体は悪い事じゃなかったんだけどね。やっぱり人には受け止められるキャパシティーってあると思うの。それを越えちゃうと」
「幽霊とかそういう感じなんでしょうかね。わたしも実際に見たら受け止められないかもしれないですね」
「足はあったよ。白くて綺麗な足で…リアルだったんだよなぁ…」
細部を思い出してみてまた頭を抱えてしまうわたし。それを見た皆川さんが申し訳なさそうに。
「すみません。でも、わたしが思うのは…真理さんが『しっかり者』だから困っちゃう部分ってあると思うんです」
「『しっかり者』?」
皆川さんがわたしをそう評すのはある意味で自然だと感じる。けれど、改めてそう呼ばれると恥ずかしいというのか、全然そんな事ないよと思えてしまう。
「やっぱりわたしって『しっかり者』なのかな?」
「そりゃあ勿論そうですよ。真理さんがいつも職場でしっかりしている人だから、もしかしたら会社の人も真理さんに気負わせてしまっていたのかなって思っているのかも知れません」
「ううん。わたしは性格的に『長女だからしっかりしなきゃ』がそのまま続いている感じなの。それに融通が利かないっていうか…」
「それに『信念』もありそうです。」
「『信念』」
皆川さんから次々に放たれるやや『硬い』言葉にわたしはやや戸惑う。『信念』という程のものなのかどうかは分からないけれど、例えば日記代わりにブログを長く継続している事とか、物事を自分で考えて理解しようと努めている事とかは信念の現れなのだろう。
「ちょっと話が違うかもしれないですけど、この漫画の主人公とか登場人物も何か『信念』を感じます。自分がこうだと思った方向に進めるのは凄い事だと思うんです」
「そうきましたか!」
妙な所から共通点を見出されて思わず感心してしまったわたし。『好きなものは好きでいい』という信念は確かに読んでいて胸を熱くさせてくれたけれど、昴君にもわたしの熱さ…熱血な所を喝破されたり、わたしも誰かに『何か』を感じさせているのかも知れない。その後話の流れで皆川さんの信念は何かという探索が始まり、二人で紅茶やコーヒーを飲みながらそこそこ長い時間話し込んでいた。
自分が想像した以上に充実した時間になった事が喜ばしく、皆川さんが帰り際に、
「また遊びに来てもいいですか?」
と言ってくれたのが嬉しかった。その時にはもう冗談交じりに、
「え~どうしよっかなぁ?」
「そんなぁ~」
なんて言い合えるくらいに絆が深まった。
<いいよなぁ、こういう関係>
彼女が去った後の部屋で一人感動していてふと思った事がある。
「信じられないけど、やっぱりあの短時間で漫画の内容頭に入ってたんだ…」
事の大小はあれど、これはこれは軽くショックを受けた事実だ。




