⑰
4月も半ばになり、山形市はまもなく桜が満開という話。去年の今頃わたしはあまりの幸運に浮かれていた事をついつい思い出してしまう。『パスピエ』の公式サイトを覗いていると時々ライブの発表がある。ライブパフォーマンスに定評のあるバンドなので出来る事なら生で演奏を聴きたいと思っていたけれど何となく遠出して一人で参戦するのがわたしには敷居が高く感じていて近場だったら迷いなく行くぞと決めていたところに、やっぱりバンドメンバーの一人が山形がゆかりという事もあるのか、市内のライブハウスでの公演が決まったというアナウンスがあったのだ。
<絶対に行くぞ!>
と意気込んで、チケットを無事手に入れる事が出来た日は嬉しさのあまり友人の弓枝にメッセージを送ってしまったり。弓枝は、
『よかったね!楽しんできて!』
と言ってくれて、わたしも当日に向けて準備を万全に整えようと思ってまかり間違っても体調を崩したりはしないように、5月27日というその日を待ち構えていた。そんな折、5月の末近くの平日夜に珍しく父から電話が入る。出る前からイヤーな予感はしていたけれど、親類のうちの高齢の人が急に体調を崩して亡くなったという知らせだった。その人には子供の頃にお年玉を貰ったり良くしてもらったので27日の葬儀に参加しないという選択肢はなく、
『これも運命だな』
と割り切ってライブはキャンセル。仮にその時無理を言ってライブに参戦したとしても心の底から楽しめる気はしなかったし割り切ってはいたのだけれど、己の巡り合わせの悪さ、『持ってなさ』を恨めしくも思ったりした。ただ時が経つにつれ、わたしは悲観するというよりはまた山形市内でライブを開いてくれるかもしれないという希望を持ったし、何より本当に観たいのなら場所を選んではいけないんだ、とも思うようになった。つまり自分の情熱がどれくらいのものなのか試されていて、もしそのライブを見る為だったら苦難を乗り越えられるというモチベーションならば、そのライブに参戦出来る事は何物にも代えがたいのだ。
そんなことを学ばせてくれた去年の一件。職場で新入社員の宮島君にも音楽の趣味を尋ねたりしてパスピエで知っている曲があったり割と趣味が近そうな感じもするので、この話を彼にしてみたら、
「ああ…それは惜しいですね…。タイミングですね」
という感想。多分、こういう経験はわたしだけじゃなくて誰もが一度や二度は経験しているんじゃないだろうか。
「わたしは『持ってない』方の人間だけど、宮島君とかはどう?」
流れでこんな事も訊ねてしまっていた。すると宮島君が小声になって、
「佐川さんだけに言いますけど…実は俺、ソシャゲとか結構やっててですね…」
と爽やかで真面目な好青年という印象からはあまり想像できない言葉が…。もちろんソシャゲを否定しているわけではなくて、どっぷり浸かると抜け出せなくなりそうな印象の代物だからなんとなくわたしは身を構えてしまった。宮島君は少し恥ずかしそうに、
「で、俺それで結構レアなの引いたことがあるんですよ。課金は…まあ少ししましたけど」
と続ける。『課金』という言葉はやっぱりわたしには抵抗がある。でも動画配信者に『銭投げ』みたいな文化も今は普通にあって、お金を払う事に対して感覚がちょっと変わってきているかも知れない。価値観の問題とも言えるのだろうか。
「冷静に考えると、あれは麻薬みたいなもんなんだろうなって思います。結局どんなに運が良くても運営に吸い取られるだけっていうか。でも、まあそうやってサービスが続いていったりすると思うと文字通り『サービス』なんだなって」
「『サービス』ね」
最近は社会人になりたての人でも最初からどこか社会の『仕組み』に慣れているのかも知れない。逆に言うと若くして社会で成功しうる感覚を持っている人もいるだろうし、SNSでバズらせようと試行錯誤するその行為自体がマーケティングを無意識に行っているような事もある。SNSのサービスも宣伝として使われる事で収益になり利用者が増え、間口が広ければ、宣伝の効果も上がる、そんな好循環。
宮島君と会話しながら『こういう文化』はいつまで続くのだろうか?なんてことを考えた。満開になるとすぐにひらひらと舞い散ってしまう桜のように儚いものではなく、何十年、何百年と続くような文化であるなら、その文化自体の持つ意味は大きくなる。比較的素朴だったブログ全盛時代のコミュニケーションとは質が全然違う。リアルタイムに現象や出来事がタイムラインを賑わせ、ソシャゲのような話題を取り込みつつ、最早ツールを使っている意識さえもなくなってゆく。
ただ当たり前に存在する。
分析的な性格でそういう所まで考え至ったところで、今度は妙に現実の何かのところに向かいたくなっている自分を発見する。もっとこう、『生きてる』って感じがするところ。例えば…猫。
「ところで宮島君は猫派ですか?犬派ですか?」
脈略無く訊いたこの質問に、
「両方ですね」
と爽やかな笑顔で答える宮島君は、なんとなく最近人気のアイドルに雰囲気が似ているなと感じた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
職場のお花見が次の週の土曜日に決まった事で当日に必要な物とか、場所取りをどうするのかについてなど段取りがメッセージを通じて周知される。何となく一足先に今の様子を見に行きたくなってその週の土曜日に一人で下見に出掛けた。
霞城公園の桜は大学の入学式の事を思い出す。希望に胸を膨らませていたかどうかは分からないけれどわたしなりにこれからへの希望を抱いて、出会いとか、その他諸々の事を期待した。でも理学部に入学した時点で勉強漬けになりそうな気配は感じていて、最初は『大学生』ってどうやるんだろう?みたいな戸惑いがあったような気がする。
そして今も広々とした敷地に戸惑う。お花見当日は『夜桜』が良いんじゃないかという事で夕方からだけれど、どの辺りに場所取りするか迷う。まだ開き切っていない桜でもちょっと幻想的でもあって、こういう雰囲気でも上手く切り取れればバズる事間違いなし。わたしには珍しくブログに写真を載せつつ、こんな文章をしたためた。
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
桜が幻想的なのは薄紅色のせいだろうか。それとも儚い運命を知っているからだろうか。自分の知らない情緒を呼び起こさせてくれる雰囲気に身を委ね、軽はずみに言葉を吐く。今日ここに来た多くの人がたぶん同じ何かを感じているんだろう。
懐かしい記憶と今の光景を重ねて、胸に迫ってくるもの。確かにここに居ない人にも見てもらいたくなる。また記憶に残る一時。
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
『ここに居ない誰か』というのは具体的な誰かというわけではないけれど、ブログを読んでくれている人がもし何かを感じてくれていたのなら、そんな気持ちはこもっていると思う。昴君は再び大学が始まったらしく、動画投稿の間隔も少し長くなってきたような気がする。録画していたドラマを再生しながらドラクエアプリで作業のような戦闘を繰り返す。感覚的に同じモンスターとの戦闘が100回は越えていて理論的にはもう少しのはず、と思っていたらドラマがCMに入ったところで念願のアイテムがドロップ。
「おお!」
やっぱり一人でもテンションは上がってしまうものらしい。実際には何回で獲得できたのか気になっていたら、『モンスター図鑑』なるもので戦闘回数を確認することができた。
「140…」
微妙な数字に困惑してしまう。128分の1の確率なので、もし事前に確認していたら挫折していた可能性がある。数字はわたしに『現実』を認識させる。それでもその『現実』に立ち向かって獲得したアイテムは勲章のようなものなのだろう。
<それとソシャゲで課金するのを同列に並べると…ちょっと…>
これは自分でも苦笑してしまう発想。




