穂鷹駅にて
「穂鷹駅」という駅名は、その昔、この地が鷹狩りの場として重宝されていたときの名残りだという。
高校の最寄り駅なので、駅の利用者の八割ほどがそこの学生である。中型トラックの忙しなく流れるバイパス道路を遠く眺める以外は、周囲は荒凉とした畑と雑木林、庭付きの住宅が寂しげに点在している。
七月、夏の暑さも本格的になってきた、夕暮れ時のことである。
期末試験も大詰め、あと二、三科目をしのげば夏休みが待っている。
孝行は、クラスメイトの琢海と、中学の頃からの同級生である隼人とで、穂鷹駅の上りホームで電車を待っていた。
ホームには三人の他にも帰宅する生徒達がちらほら見受けられる。
「トイレ行ってくるわ」
隼人が早足で行ってしまって、二人きりになった。
「数学、どうだった?」
足もとに目を落としたまま、琢海は首を振った。
孝行が苦笑いして何気なくトイレの方を振り返ると、その人と目が合った。
そのおばさんは、近辺ではちょっとした有名人だった。
綺麗で品があるというわけでもなければ、威圧的であったり身なりが汚らしいというわけでもない。ゴミ出しに外に出たのか、ビーチサンダルにエプロン姿だったり、麦わら帽子にゴムの手袋と長靴、農作業着を着込んでいたり、パンパンに膨らんだ買い物袋をママチャリの前後に載せて、首に巻いたタオルで額を拭いながらペダルを漕いでいたりする。
決まった場所に現れるということはなく、近所のコンビニやスーパー、学校の周辺、公園、交差点、そしてどこへ行くのかこの穂鷹駅にも出没する。出没すると言っても、この近辺に暮らしているのだろうからよく見かけるのは至極当然のことである。
なぜ有名なのかというと、柔和な顔と優しげな声で、子どもだろうが大人だろうが、こちらが思春期真っ盛りの中高生であろうが、すれ違いざまに声を掛けてくるのだ。
朝方に会えば「おはよう、いってらっしゃい」
夕方に会えば「おかえり、気をつけて帰るんだよ」
テストや試合の後には「どうだった?」と言い、結果がどうであれ最後には「よく頑張ったねぇ」とうなずく。
しつこく問い詰められることも叱られることもなく、一言か二言、言葉を交わして、あとはニコニコ笑って去っていく。
登下校の途中に出会う者がいれば、体調を崩して昼間に早退したら心配そうに声を掛けられたという者もいる。その柔らかな物腰に、みな照れ臭く対応する。
学校側も彼女の存在に気付いてはいるようだが、なにか生徒と問題を起こしたという事案もないので疑問視することはなく、むしろ見回りをしてくれる優秀なボランティアだと見ているような気もする。
孝行らも入学当初こそ、そのあけすけな態度に困惑したものの、ひと月も経てば日常の一コマになり、もはや友人達との日々の話題に上ることもない。
声掛けおばさん。それが人々の共通の認識であった。
そのおばさんと目があった。
案の定、ニコッとして近づいてくる。
琢海も気がついたようだが、これはため息を吐きながら目を伏せた。
孝行がギョッとしたのには訳があった。彼がそのおばさんと話すのはこれが初めてであった。生徒の中には、まったく接することなく卒業していく者もいる。すべてはタイミングであり、おばさん次第である。
何度も見かけてきた光景がいざ自分に回ってくると、何故か緊張して途端に口の中が渇いてくる。
「テスト?」
どこへ行くつもりか、おばさんは他所行きらしい落ち着いた格好をしていたが、化粧はしていないように見えた。
「ええ、はい」
「どうだった?」
「まぁ、はい、ボチボチっす、ハハ……」
間近で見ると、その顔には小皺が目立つ。
「そっかそっか、頑張ったねぇ」
おばさんは、やはり物静かに微笑んだ。
そして視線が移って、
「君はどうだった?」
と、今度は横にいる琢海に投げかけた。
その琢海はというと、勉強が苦手で頭の良いほうではなかった。素行が悪いわけではないが、まれに癇癪を起こすきらいがあった。テスト期間中の学校が苦痛なようだったし、誰に何を言われたのか、このところは友人の前であっても機嫌が悪いことがあった。
「テスト、どうだったの?」
「うっさいなぁ……」
「え?」
「うっさいわ、あっち行けや!」
琢海は吐き捨てるように言った。
その声に、ホームにいた何人かがこちらを振り向いた。
おばさんも驚いた様子で、
「どうしたの、なにかあったの?」
と、琢海の顔を覗き込むような素振りをしたのか余計に琢海を苛立たせたのか、
「話しかけんなっつんだよ!」
「おい、やめろって……」
「いっつもヘラヘラしよって、おまえ気色悪いんじゃ!」
琢海は鬱憤を晴らすようにおばさんに浴びせかけた。
あまりの無遠慮な物言いに、孝行も口を閉ざして苦笑するばかりだった。
罵詈雑言を浴びた方はというと、固まっていた。
柔和な表情を作っていた筋肉がゆっくり元に戻って、本来のおばさんの表情になった。孝行は初めて、その人の無表情というものを見た。
物言わず、真っ黒な目が、ずっと二人を見ていた。
「あの、スンマセン、こいつ調子悪くて」
孝行が横からフォローを入れるが、おばさんは反応しない。意識的に言葉を聴き流している……というより、スイッチを切られたように動かない。瞬きもしていない。
孝行は、なんだか恐ろしくなってきた。
「琢海、おまえも謝れよ」
琢海は、おばさんの次の反応を待っているのか何も言おうとしない。
「おい、謝れって」
「…………………」
「おい、どうしたんだよ」
琢海の目が見開き、唇が小刻みに震えていた。
彼の視線は、おばさんのそれと重なっていた。
誰も音を発しない奇妙な時間、ただ自身の心臓の鼓動だけが響いている。
プシュウ、と空気の音がして、孝行はハッとした。
「おーい、電車きてんぞー!」
トイレから出てきた隼人が駆け寄りつつ二人を呼んだ。
ホームにいた人々はすでに電車に乗り込んでいて、そこに立っていたのは三人だけであった。
孝行は琢海の腕を掴んだ。が、動かない。
二本足でホームの上に立っているほかはどこにも手を付いていないし、荷物といえば大して物も入っていないペシャンコのスクールバッグだけなのに、その体は鉄筋が入ったように柔軟性を失っていた。
出発を知らせるベルが鳴った。
辛抱堪らず、孝行は動かない琢海を背後から抱え込んだ。
おばさんの首だけがズルズルと動いて、二人を追った。
漆黒に塗り潰された双眸が、二人を見据えていた。
ドアが閉まる。
二人は車両内で重なって倒れていた。女子生徒のグループが二人の姿にクスクスと笑っていた。
「うわ、めっちゃ汗かいてる、どしたん?」
別車両から乗って、二人のもとにやって来た隼人は言った。
天井の扇風機の風が異様に冷たく感じた。
「あ、なに、おばさん?」
ようやく隼人がホームに立つ存在に気付いた。
電車が動き出した。
「え、めっちゃこっち見てるんだけど」
ホームに一人たたずむおばさんを見ながら隼人は言った。その足もとで、孝行と琢海は、外からの異様な視線に怯えるようにドアの影に隠れていた。
「なにしてるって?」
「いや、ずっとこっち見てるわ」
電車が穂鷹駅から離れたのを確認して、ようやく二人は立ち上がった。
「え、ひょっとして、おばさんに怒られたん?」
「いや、怒られたっていうか……」
額の汗を拭いながら、孝行が首を傾げた。
「あのおばさん、目が……」
琢海が口を開いた。
「黒目が、眼いっぱいに広がって、真っ黒になって……」
「なにそれ」
隼人は笑っていたが、孝行は自身の手が震えているのに気付いた。
終業を知らせるチャイムが鳴り、みな思い思いに立ち上がった。
「おーい、早川と染谷、ちょっと顔出せ」
帰り支度をしていた孝行と琢海は顔を見合わせた。
生徒指導室に入ると、すでに隼人がいた。悪い予感がした。
コの字に配置された長机の中央に三人は立たされ、彼らの真正面には学年主任と教頭が控え、左手には孝行らの担任と隼人のクラスの担任、そして右手には、坊主頭の初老の男が座っている。
まぁ、楽にしてくれ。と学年主任は言うが、五人の大人達に囲まれた三人は、詰問される謂れは無いはずだが、生きた心地はしなかった。
「三人は仲良いのか?」
「まぁ、はい」
「帰るときは、いつも三人で?」
「時間が合えば、大体そうです」
「水曜日…だから一昨日か、穂鷹から電車乗ったね」
「あ、はい」
「なにか、変わったこと、あった?」
「あの、おばさんに、声をかけられました」
言ったのは琢海だった。
「ほう、それで?」
「それで、ちょっと、喧嘩…というか、揉めちゃって…」
琢海の言葉はしどろもどろだった。そして身振り手振りを混じえているうちに口調が震えてきて、ついには大粒の涙を流し始めた。琢海が泣く姿を見るのは、横に並ぶ孝行も隼人も初めてであった。
「大丈夫か、染谷」
立ち上がった担任が琢海の背中をさすった。
すみません、すみません。と、琢海は
なにが起こっているのか孝行には分からなかった。
「おばさんと話したのは、染谷だけか?」
「えっと、僕もです」
孝行が手を挙げた。
「三木谷は?」
隼人は渋い顔をして。
「直接じゃないですけど…あのおばさん、ずっとコッチ見てました」
「見たのか?」
はい。と、隼人はうなずいた。
「どんな表情だった?」
坊主頭の男が初めて口を開いた。
琢海はヒッヒッと息を引き攣らせながら、
「眼の白い部分がなくなって、真っ暗になって……」
「それは、左眼?右眼?」
「りょ、両方です」
それを聞いて、教頭と学年主任が腕組みして唸った。それから坊主頭の男を混じえての密談を五分ほど交わすと、
「それでは、何卒よろしくお願いします」
教頭と学年主任は、立ち上がって、その場で深く礼をした。歳を重ねた大人の男の、真剣に頭を下げる姿に、孝行は自分が危険な領域に踏み込んでしまったのだということをようやく自覚した。
「まぁ、出来る限りのことは、やってみます」
坊主頭の男は、三人
「じゃあ、三人とも、ちょっと来てもらおうか」
三人はその足で校門前に立たされた。
「どこ行くんですか?」
「先生もよく分からんけど、とても大事なことらしい」
「僕たち、殺されます?」
隼人が、ふざけ半分で聞いた。そんなわけないだろう。と、普段の担任なら豪快に笑い飛ばしてくれるのだろう、小麦色の男性教師は眉をひそめたまま、
「大丈夫だ、きっとなんとかしてくれる」と言った。
───まるで、もう次はないみたいな言い方じゃないか。
しばらくして、校舎裏の駐車場から白のセダンが回って来た。先ほどの坊主頭の男が運転していた。
冷房の効いた車内で会話も無いまま十五分、車はとある神社の前で停まった。
「あ、鳥居は、くぐらないようにね」
「えっ」
「石畳の上も歩かないように」
鳥居の脇を通って、奥に控える荘厳な社をよそに男は三人を脇の小道に誘導した。剥き出しの地面は、昨日の夕立でぬかるんでいた。
清掃員の用具入れかと見間違うほどに小さく、朽ちた社があった。
三人は社の中に案内された。
蒸し暑く、十人も入らないであろう狭い内部に、厳かな平壇があり、その上に小さなキャンプファイヤーのように焚き木が井の字に組まれている。天井は、度々ここで火を起こしてきたのか隅々まで真っ黒だった。
数分後、坊主頭の男が白装束で現れた。お坊さんだと思っていたが神主だったようで、彼が入ると扉が閉じられた。薄暗い社の中央に火が灯った。
焚き木が燃え、坊主頭の男と巫女たちが一斉にお経らしき文言を唱えはじめた。
孝行がチラと横をみると、隼人は目を瞑り、琢海などは肩を震わせ泣いている。
事前に渡された、それぞれの名前入りの人型の紙に数本の髪の毛を包んで、炎のなかに投げ入れた。轟々と燃え盛る燈色の炎の中で、どういう反応が起きたのか、その瞬間、青白い光がパチパチと爆ぜた。
厄払いや祈願のために火を焚く、仏教の「護摩」に似ていたが、神社で護摩とはこれ如何に、と孝行は内心、首を傾げた。坊主頭の男も、本当に神主なのかも怪しくなってくる。
真夏の夕方、炎によって社のなかは高温で酸素も薄い。ワイシャツが透けるほど汗塗れになりながら、それでも三人は動けなかった。男も坊主頭に玉の汗をビッチリ浮き立たせて必死に唱え続けていた。
謎の護摩が終わり、そのまま解散となった。学校が終わったのは昼前だったはずなのに、すでに夕暮れ時だった。
孝行と琢海の担任の教師が、車で迎えに来てくれた。
「個人的には、あんまり噂とか好きじゃないんだけどな」
静かな車内で、担任は言った。
「あのおばさんに悪態つくと、あんまり良くないらしいんだ」
「はぁ……」
「ちょっとヤンチャな奴って、次の学期とか翌年にはいなくなってるだろ?って、お前らは一年だからそんなのわからないか」
担任は笑いながら、
「まぁ、大体は問題起こして、学年主任と揉めて辞めてっちゃうんだけどさ、何人かは……やっぱあの人が関係してるらしいんだよな」
「…………」
「あくまでも噂だけどね」
「あの人って、神さま的な人だったりするんですか?」
目を真っ赤に腫らした琢海が小さな声で言った。
「座敷わらし?地主神?……とかなんとか、誰かが言ってた気がするけど」
うーん。と、担任は顎髭をさすりながら、
「でも、そういうのって案外、身近にいるもんなのかもなぁ」
翌年、琢海は転校した。
孝行と隼人は卒業まで穂鷹駅を利用し、進学とともに町を離れた。
後輩に話を聞けば、おばさんは相変わらず散歩しているらしい。