第九十七話 重なるふたり ―The person who wishes calm―
旋律が初夏の風に乗って流れていく。
葉桜の下、幹に背中を預け、少年は瞼を閉じてその音色を聴いていた。
その歌声に中庭にやって来た生徒たちは皆足を止め、聞き惚れる。
「♪ 巡る夜を越えて わたしは祈ってるよ 今はこの胸に あなたの温度を思い出して」
桃髪の少女が紡ぐのは、再会を祈る歌。
彼女は大切な人の帰還を待つ少年の心に寄り添って、澄みきった空を仰いだ。
歌い終えた少女――皇ミコトは、中庭に集まっている生徒たちを見渡してお辞儀する。
「皆さん、聴いていただきありがとうございます。わたくしの歌で、少しでも元気づけられてもらえれば、それが何よりの幸せですわ」
クリスタルグラスを叩いたような可憐な声に誰もが魅了され、拍手と歓声を贈った。
男女問わず自分の名を呼んでくる生徒たちに手を振り返し、ミコトは木陰の少年――レイを顧みる。
「レイ。あなたの想いはきっと通じます」
「……はい。必ず」
月日が過ぎても変わらないカナタの様子に、レイの心が折れかけたことは何度もあった。
だが、その痛みはミコトの歌が和らげてくれる。人の心に真心をもって接する彼女の歌に、レイはあの日からずっと救われ続けていた。
「もうすぐ中間試験ですわね。わたくし、如何せん初めてなものですから、不安で……」
「ミコトさんでも不安になること、あるんですね」
「それは、わたくしだって人ですから。皆が思うような女神さまではないのですよ」
憂いを帯びた眼差しが、レイを射止めた。
皆はそう言うが、あなたには――。
言外に告げられる思いに、金髪の少年はこくりと頷く。
「政治の世界は少しずつ、しかし確実に、動き出しています。その行く末は誰にも見通せておりません。皇室は旧暦時代の最後の戦争以後、政治への不干渉を貫いてきました。しかし……どうやら、『尊皇派』の者たちは最近、皇族への接触を繰り返しているようです」
ここでは自分は一人の少女でいたい。しかし、皇族に生まれた以上はその鎖を解くことはできないのも、事実であった。
レイの隣に座り、ギャラリーたちには聞き取れない程度の声量で彼女は言葉を続けた。
「『尊皇派』のトップである蓮見タカネは、わたくしの許嫁です」
ぽつり、と零された告白にレイはどう反応していいか分からなかった。
言葉を迷う彼に控えめな笑みを向け、ミコトは眉尻を僅かに下げた。
「わたくしが物心付いた頃から、タカネは兄のように一緒に過ごしてくれました。彼のことは、家族としてとても大切に思っています。しかし、今は……少し、彼が遠ざかってしまったように感じるのです。昔は他愛のない話もしてくださったのに、今は会えば打倒『レジスタンス』の話ばかり。それに最近は、何やら怪しげな方々と関わりを持っているという噂も出てきているようです。わたくしはただ……誰もが笑っていられる世界を、望むだけなのに」
政治の世界も、蓮見タカネという男についてもレイは知らない。
だが『レジスタンス』の下で戦う者として、『尊皇派』の主張が脅威になるものだということくらいは分かる。
「……ミコトさんは、『尊皇派』については?」
「象徴としての皇族の姿を崩すつもりは、ありません。彼らが何を言おうが、わたくしは不干渉を貫き続けます」
今は亡き前の時代の天皇たちの思いを継ぎ、同じように国民に添い遂げる『象徴』としての自分に徹する。それが、ミコトの譲れない信条だった。
「……ごめんなさいね、レイ。なにぶん、こういうことを言えるのはあなただけですから……」
レイの手をそっと握り、肩に肩を寄せ、ミコトはか細い声で言う。
その小さな手を握り返しながら、レイはあどけなさを残す横顔を見つめ、首を横に振った。
「いえ……それくらい、聞きますよ。ボクがあなたに救われたように、あなたが状況を憂いている時はボクが助けになりたいんです」
「義理の付き合いならば、無理はしなくても良いのですよ? わたくしのしがらみに、あなたを巻き込むリスク――現に、パパラッチの方々にあなたが付け回されたという話も聞きました。あなたが平穏を願うなら、わたくしとは、離れたほうが……」
ミコトが歌い、レイが傍で聴く。昼下がりの中庭で毎日のようにそれを繰り返していた結果、二人の関係は否応なしに注目されてしまっていた。
ある生徒が撮ってSNSに挙げた動画は多くの人の目に留まり、ゴシップ誌も格好のネタだと飛びついた。
「皇女殿下の恋人」。世間の人は、今のレイをそう見ている。
ミコトには許嫁がおり、レイの気持ちも彼女には向いていない。だが『レジスタンス』側から見れば【機動天使】である彼とミコトの距離が近いのは政治的に都合が良いため、レイもそれを汲み、関係を否定はしていなかった。
「いえ、ボクは……贅沢だと思われるかもしれませんが、あなたの生の歌声が、ただ聞きたくて……」
「そう言ってくださるのなら、歌っている甲斐があるというものですわね。実は、新曲の作詞も最近始めているのです。完成したら一番に聴かせて差し上げますわ」
「ほ、ほんとですか? ふふ、楽しみです」
顔を輝かせて感情を素直にあらわにするレイに、ミコトは微笑んだ。
それから腕時計に目をやって、「そろそろお開きですわね」と立ち上がる。
「レイ。手を」
「あっ……すみません、わざわざ」
ミコトは続いて立ち上がろうとしているレイに手を差し伸べ、引っ張り上げる。
だが、その時――レイは足元の根っこに躓いて、前のめりに彼女のほうへ倒れ込んだ。
「きゃあっ!?」「うわあっ!?」
二人の悲鳴、そして身体が重なる。
少女を押し倒す形で彼女の胸元に顔を突っ込む体勢となってしまったレイ。彼は頬に触れる柔らかさと弾力とを両立した双丘に顔を赤らめ、内心で口走った。
(女の子の胸って、こんな感触なんだ……じゃなくって!)
早く起き上がらなければ、写真を撮られて不味いことになりかねない。
と思ったのも束の間、カシャッ、とシャッターを切る音が少し離れたところから鳴った。
「おい、何撮ってるんだ」
「っ、何だよあんた! いいだろうが、別に!」
「いいから貸せよ。そんな写真、流されたらあいつらも困るだろ!」
レイが顔を上げると、中庭のベンチ近くで男子生徒二人がやり合っているのが見えた。
撮った側の生徒からスマホを取り上げようとしているのは、レイもよく知る七瀬イオリその人。
強い口調で言ってくるイオリにその男子生徒もムキになっているのか、ああだこうだ言ってなかなか渡そうとしない。
と、そこに三人目の少年が音もなく男子生徒に忍び寄って、その項にふっと息を吐きかけた。
「うおわっ!?」
「っと、スマホ、ゲットだぜ!」
吃驚して投げ出されたスマホをキャッチし、すぐさま画像を削除するイオリ。
男子生徒の背後から登場したボサボサ髪の少年――九重アスマに、イオリは「よくやった」と親指を立てた。
「別に、ちょっとした悪戯のつもりでやっただけです。あなたに褒められるいわれはありません」
「相変わらず可愛げの欠片もないやつだな、お前」
呆れて溜め息を吐きつつ、イオリは男子生徒にスマホを投げ返す。
「意味分かんねぇよあいつら」などと言い残して足早に彼が去っていくのを見届け、二人は撮られたレイとミコトのほうを向いた。
「早乙女、大丈夫か!? ミコトさまも、ご無事で!?」
「ぼ、ボクは平気です……」
「わたくしも、芝がふかふかだったおかげで助かりましたわ。ありがとう、二年のお兄さん。それにアスマも」
ミコトは誰もが恋に落ちてもおかしくない可憐な笑顔を二人へ向ける。
が、しかしアスマは腕組みしてそっぽを向き、唸るような声で言い返した。
「別に、お見目麗しい皇女殿下さまにお礼なんて言われるようなことはしてませんけど」
「お前、流石に拗らせ過ぎだろ……」
呆れを通り越してドン引きしているイオリに、思わぬ反応におろおろするミコト、そして頬っぺたを両の手のひらで挟んでぼうっとしているレイ。
踵を返すアスマをイオリは呼び止めようとしたが、彼はそれを無視して行ってしまった。
「……全く、意地っ張りな奴だな、あいつは」
「お兄さんはアスマと知り合いなのですか? 彼、クラスでも少々、浮いた人物のように見えるのですが……どのような接点がおありですの?」
「えっ? あ、ああ、それは……と、トイレで偶然会った時、喋って、えっと、それで……」
嘘が下手な男である。トイレがどうのと言ったのも、このとき彼が若干の尿意を催していたのに引っ張られたせいであった。
「あら、そうでしたの。男性の方のお手洗い事情はよく知りませんが、そういう交流もあるものなのですわね」
そして、彼女は天然というか単純な少女であった。
強い信念を持ってSAM戦闘に臨み、皇族としての活動も真摯に行ってきたミコトだが、プライベートではそんな一面もあった。
「も、もうすぐチャイムが鳴りますから、ミコトさまも急いでお戻りください。――早乙女、ぼーっとしてないで行くぞ」
「ええ、よければまた会いましょうね、お二人とも」
「は、はいっ……では、また」
にこやかに手を振るミコトに、レイは控えめに手を振り返す。
まだ頬を赤らめている金髪の少年に「やれやれ」と呟き、イオリは彼の腕を引いて校舎へと連れて行くのであった。




