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暁の機動天使《プシュコマキア》  作者: 憂木 ヒロ
第四章 落日

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第八十七話 ただいま ―The song to which I pray for reunion―

 墓標の前で謝罪と弔いの言葉を捧げ、少年の病室に足を運ぶ日々。

 時の流れと共に寒さは徐々に和らいできているにも拘らず、少年二人の心は未だに凍てついたままだった。

 薄手のコートを纏って『レジスタンス』本部を後にしたユイが今日カナタに話したのは、学園の一年次の授業が終了したのだということ。


 冷え冷えとしながらも初春の気配を感じさせる日差しが照る、三月。

 期末試験の実戦試験を無事に終えたユイたちは、カナタとレイを残しての進級が決まっていた。

 例年ならば1クラスから二年に進級できる生徒は全体の半分に満たないほどだったが、ユイやユキエらの努力の甲斐あってA組は全員が及第点以上の評価を得た。これまで導いてくれたレイやカナタに報いたい――そんな思いが彼らを奮い立たせ、前期よりも過酷さを増した長期任務を乗り越えさせたのだ。


 そうして今日、ユイは皆の勝利を少年に報せることができた。眼差しは虚ろで言葉も発せないカナタの手は、ユイがそのことを語った時、力強く握り返してきた。

 彼が届いた言葉を脳内で処理できているかは分からない。だが、確かに思いは通じているのだとユイは思わずにはいられなかった。


(来年からはパイロットコースとメカニックコースでクラスが分かれます。カナタさんたちが戻ってこられる居場所は……A組は、解散になってしまいますね)


 宮島タイチをはじめ、クラスの三分の一ほどの生徒は来年度からメカニックへの道を歩むと決めているという。

 A組としての戦いはここで終わり、次からは各々のクラスでの新たな戦いが始まるのだ。

 懸命に守ってきた少年たちの帰る場所はなくなった。だが、なくなったのならまた作ればいいのだとユイは思う。

 カナタたちが決して忘れられないように、ユイたち元A組のメンバーで彼らがいつでも戻ってこられる地盤を固めておくのだ。


 大丈夫、わたしたちならきっと――。


 そう胸に刻んで、ユイは雲一つない蒼穹を仰いだ。

 青い鳥が一羽、悠然と空を泳いでいる。あの鳥は何というんだっけ――そんな呟きはそよ風にさらわれて、少女の青い髪もまた、流れる水のごとく揺れるのであった。



 停止した心と、残酷に過ぎゆく時間。

 レイはその二つに板挟みにされたまま、もう七ヶ月もの時を浪費してしまった。

 何もできず、相方のいない二段ベッドの上で膝を抱えて蹲るだけの生活が続いた。

 暗く冷たい泥が足をすくってレイを転ばせ、沼の底へと引きずり込もうとしてくる。心が奈落に落ちようとも、彼はもはや抵抗する術を持たなかった。

 だって、抗っても何も意味がないのだから。

 信じた二人がいない世界など意味がない。見渡す限りの真っ白い世界にいるくらいなら、どす黒く染まった暗闇のほうがずっとマシだ。

 読みふけった父の著作は解読できない文字の羅列にしか見えなくなった。毎日イオリが運んでくる食事を取っても何の味すらも理解できなかった。それなのに少年と少女と紡いだ思い出だけは鮮明に脳裏に蘇り、レイを二度と還らない過去へと引き戻す。


 ――思い出が心を苛むなら。もう二度と還らない日々を乞い願うくらいなら、何も考えないほうがいい。


 それで辛さはなくなる。少女の快活な笑顔も、少年の真っ直ぐな眼差しも、二人が奏でた空を翔ける鳥を描いたような旋律も、『なかったこと』にしてしまえば楽になる。

 心を凍てつかせ、眠りにつく。それでいい。それで楽になれるなら何もいらない。

 自分を女の子だと勘違いして狼狽していた彼も、夜の訓練場で決闘した彼も、好きだと言ってくれた彼も、初めて下の名前で呼んでくれた彼も、過去を共有してくれた彼も――全部、いなくなってしまえばいい。

 そう考えれば楽になると信じ込んでいた。だがそれでも、心は激しく軋むのを止めようとしない。

 忘れようとすれば、なかったこととして片付けようとすれば、記憶の中にいる少年が悲しげに目を伏せるのだ。銀髪の少年と手を取り合っている少女も、哀しく笑うのだ。

 

 ――嗚呼、ボクを責めないで。ボクは辛くて仕方ないんだ。君たちをボクは愛してしまったから。手に届くところにいてほしいって思ってしまったから。あの日々が二度と戻らないって分かっているのに……思い出が理解を拒むんだ。何も受け入れたくないって、心が叫んでいるんだ。


 絶えることのない涙がシーツを湿らせる。伸ばしっぱなしの金髪が頬に張り付いて離れない。嗚咽の海に溺れ、沈みゆく。

 カナタがいれば……二人さえいれば、何だって出来ると思った。どこへでも行けると思った。だが、その夢は永遠に掴めない幻になってしまった。どれだけ手を伸ばしても、こいねがっても、決して届かない所へ消え去ってしまった。

 また、大切な人を失った。姉や仲間を見捨てて生き延びた罪人からは結局、望んだ愛を残酷に取り上げられてしまうのが運命なのか。願っても願っても還らない者を待つことが、自分に下された罰だというのか。

 彼との絆も、彼女との信頼も、失われるためにあった罰でしかなかったのか。

 こんなことになったのも、自分が罪を背負ってしまったからなのか――何度問うても、神は答えない。


 悲嘆に暮れる、そんな時だった。

 玲瓏なる旋律が彼の居室の窓へ流れ込んできて、その耳を慈しむように撫でた。


「あなたと夢を見てた 幼い夢を見てた

 真夏の青空 冬枯れの黄昏 いつだって笑ってた

 “いつかまた会えますように”

 わたしの言葉 君は首を傾げてたね

 “いつだって会えるよ”

 懐かしくまだ遠い 思い出の笑顔」


 クリスタルグラスを打つような清らかな声で紡がれる、言葉。

 会えなくなった相手との再会を祈る、誰かの歌。

 少女の澄んだ歌声はレイの凍てついた心に染みわたり、その氷を緩やかに溶かしていく。

 レイはベッドの中から這い出て、閉め切っていたカーテンを静かに開けた。

 差し込む日差しに彼は目を細め、顔を背ける。それでも歌っているのが誰か知りたくて、眼下の中庭に視線を走らせる。

 青々とした芝が目に痛い。小鳥のさえずりが煩いくらい鮮明に聞こえてくる。開け放った窓へ吹き込んでくる微風は、いくつもの花が混じりあった香りを運んできていた。

 しばらく探して――そして、見つけた。

 開花を待つサクラの木陰に腰掛け、目を閉じて歌っている桃色の髪の少女。


「巡る夜を越えて わたしは祈ってるよ

 今はこの胸に あなたの温度を思い出して」


 視界が奇妙にぼやけていた。

 零れ落ちる涙を拭おうともせずに、レイはその少女の歌に自分の姿を投影し、気づかされた。

 レイは悲しむばかりで祈ることさえしていなかった。カナタはまだ死んだわけではないのに、回復の可能性を端から諦めてしまっていた。それは何故か――彼が無意識のうちに「罰」を望んでいたからだ。

 姉と仲間を失った後悔が生む罪悪感が、彼にその悲劇を降りかかって当然のものと思わせたのだ。

 自分はまだ、カナタの優しさを覚えている。ならば同じだけの温かさを胸に宿し、信じるだけだ。


「……ごめんなさい、カナタ。ボクは……馬鹿だった」


 いま自分がやるべきことは、決まっている。

 ゴシゴシと服の袖で目元を拭ったレイは、少年の穏やかな笑みを脳裏に蘇らせた。


「ボクは、君に会いたい。たとえ言葉が届かなくても、ボクは――」



 制服に着替えて部屋から一歩足を踏み出すと、そこは別世界だった。

 廊下を歩く生徒たちの騒がしい話し声や窓から注ぎ込む日光の眩しさが、鈍っていた五感を突き刺してくる。

 すれ違う生徒の好奇の視線に、足が竦みそうになった。彼らはまるで珍しい動物でも見るような目でレイを見ている。伝播する囁きはごく小さなものであるはずなのに、頭の中にいやに反響した。

 他人が怖い。無遠慮に投げかけられる視線は少年の手足を絡めとり、動きを封じ込める。

 

「…………っ」


 もう数メートル進めば階段というところで、レイは立ち止まってしまった。

 どうすることも出来ずに数十秒、数分が過ぎていく。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 思考にロックがかかったように、彼は胸中でそれしか呟けなくなっていた。

 耳障りなヒソヒソ声が連なり、彼を苛む中――駆け寄ってきた一人の少年が、レイの腕を掴んで引いた。


「――来い、早乙女」


 レイより頭一つ背の高い、黒髪の少年。

 彼が引きこもってからずっと食事を運んでくれていたイオリが、周囲の視線からレイを逃がすように早足でどこかへ連れ出そうとしていた。


「な、七瀬、くん……!」

「いいから、行くぞ」


 どこへ、と訊ねようとするレイだが、何故だか声がつっかえてしまう。

 そんな彼にイオリは短く言って、階段を下り始めた。一階まで真っ直ぐ降り、迷いのない足取りで玄関ホールへ。

 レイはイオリにまだ何も部屋を出た理由を言っていない。それでも全てを理解しているかのように、或いはそうして欲しいという強い願いを持ってのことか、とにかくイオリはレイを外へ連れ出した。


「な、七瀬くん、ちょっ、ちょっと待ってください……!」

「ん? 行くんだろ、月居んとこ」

「そ、そうですが……ま、まず中庭に行かせてもらえませんか?」


 他人と話すのが久々なせいか緊張で何度も吃りながらも、レイは訴える。

 必死な眼差しで見上げてくるレイに、イオリは頷いて進行方向を変えた。寮の外側を回り込み、中庭へと急ぐ。

 春休みということで実家に戻っている生徒も多く、普段ならそれなりに賑わっている中庭の人気はまばらだった。

 あの桜の木の下にはもう、先ほどまで歌っていたピンク髪の少女はいなかった。

 周囲を見回してもそれらしい人影はなく、レイは肩を落とす。

 彼女にもし会えたなら、レイはお礼を言いたかった。あなたの歌で大切なことに気づけた、と。


「早乙女? 何か、探してんのか?」


 中天に差し掛かった太陽の下、とりあえず手近なベンチにかけてからイオリは訊ねた。

 頷き、レイはぽつぽつと自分が部屋を出た理由を語りだす。イオリはレイの青く大きな瞳を見つめ、それを静かに聞いていた。

 自らの内面を吐露することは照れくさく、時おり言葉に迷いつつもレイは長い時間をかけて全てを吐き出した。

 言いながら、こんなことまで明かす必要はあるのかとレイは自分でも思った。イオリが黙って聞いてくれているのをいいことに、一人で抱えた辛さを押し付けてしまっているのではないか、迷惑なのではないかと。

 だがイオリは眉をひそめることもなく、穏やかな表情のままレイの言葉を受け止めていた。

 待ち続けた友の心の氷はようやく溶け、彼は自ら一歩を踏み出したのだ。それを喜ばずしてどうするというのか。


「……良かったよ、ほんと。また、お前とこうして話せて」


 目を弓なりに細めるイオリに、レイは「はい」と微笑んだ。

 それは七ヶ月以上ぶりの笑顔だった。ぎこちなくはあっても確かに発露した、友へ向ける笑み。


「七瀬くん……ボクなんかのことを気にかけて、ずっと食事の世話までしてもらって。何度お礼を言っても、足りないくらいです」

「いいって、そんくらい。俺なりの恩返しなんだ、後腐れなしでいこうぜ。……ところで早乙女、お前、めっちゃ髪伸びたな。ぺたんこな胸に目を瞑れば本物の女の子みたいだ」

「っ、こ、これでもボクはれっきとした男ですから、変な気は起こさないでくださいね」

「分かってるって。それにお前の隣の席はもう、埋まってるもんな」


 白い歯を覗かせて悪戯っぽく笑うイオリの肩を、顔を真っ赤にしたレイは力任せに押した。

 よろけてベンチから転げ落ちかける黒髪の少年。「やったなっ」と即座に反撃してくる彼に対し、レイは掴みかかろうとしてきたその手をてのひらで受け止めた。

 それから二人とも何だかおかしさが胸の奥底から込み上げてきて、声を上げて笑い出す。

 と、そこで幼い少年のようにじゃれあう二人のもとに、一人の少女が声をかけてきた。

 

「……れ、レイさん? 本当の本当に、レイさんなんですか……!?」


 目をあらん限りに見開き、声を震わせているのはカナタの見舞いを終えて戻ってきたユイである。

 長い間壁越しに話しかけても返事すら一切寄越さなかったレイが、外に出て、更にはイオリと一緒になって笑っているのだ。白昼夢のようなものと思っても無理はないだろう。

 

「夢じゃないぞ、ユイ。こいつは正真正銘、早乙女・アレックス・レイ張本人だ」 

「えっと、あのっ……イオリさん、一回わたしの頬を思いっきりつねってください。そう言われても何だか信じられなくて……!」


 誰よりも少年二人の帰還を祈ってきた少女は、おそるおそる二人のいるベンチへと歩み寄ると、しゃがみこんでイオリへ顔を突き出した。

 少年は注文通り手加減なしの抓りを食らわしてくれて、その痛みでやっとユイはこれが現実なのだと確信を得る。


「レイさんっ……! わたし、ずっと、ずーっと待ってたんですからね! たくさん心配しました、何度もこの人はもうダメなんじゃないかって諦めかけました、わたしが何を言っても届かないんじゃないかと思いました、それでも……嗚呼、とにかくおかえりなさい!」

 

 迸る感情を整理もせずにぶつけていくユイは、言いたいことが多すぎることに途中で気づき、頭を振ってそれを打ち切った。

 痩せこけて髪も伸び、一層ひ弱に見える少年の身体をぎゅっと抱きしめ、涙混じりの声で彼の再起に歓喜する。

 彼女に抱擁され、こういう触れ合いに慣れないレイはしどろもどろになりながらも、イオリにどんと背中を叩かれて咳払いした。

 いま言うべきことは、たった一つ。


「ただいま、ユイさん、イオリくん」

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