第八十六話 祈り、待つ者 ―Please don't forget love.―
窓の外に散っている白い粒たちを眺め、ユイは溜め息を吐いた。
ベッド脇のパイプ製の丸椅子に掛け、そこに眠っている少年の手を握る。
布団の外側に出しっぱなしになっていたせいか、少年の手は冷え切っていた。彼の手を手で包み込んで口元へと運び、気休め程度だが吐息で温める。
「ねえ、カナタさん。もう、四ヶ月以上が経ってしまいましたよ。今日が何の日か、分かりますか?」
『メディカルルーム』の白い壁に掛けられたカレンダーは、12月を示していた。
その1マス、日付の数字に赤く丸が付けられているところを指して、ユイは呟く。
「クリスマスですよ、カナタさん。本当なら、あなたや他の皆さんと一緒にお祝いでもしたかったですけれど……今年はお預けですね」
悲しげに睫毛を伏せ、少女は少年の手を握る力を僅かに強めた。
あなたはきちんとここにいる。それなのに――どうして、目を覚ましてくれないのか。どうして、声に応えてくれないのか。
この四ヶ月間、ユイは毎週末の安息日には必ずカナタの病室に足を運んでいた。
その度に彼に学園であったことを語り、彼の手をずっと握り続けていた。
ユキエやカオルの尽力もあって、中間試験はいい結果が残せたこと。キョウジのサポートによって、これまで積極的に参加していなかった子も変わり始めたこと。皆がそれぞれ努力し、クラスは以前までの勢いを取り戻しつつあること。
それでも――やはり「これではない」という違和感はいつまで経っても消えない。
いなくてはならない人がいない歪さは、決してユイたちの力で完璧に埋め合わせることのできないものだった。
「マナカさんのこと……わたし、知りたいんです。彼女があんなことをしてしまったわけを。分からないまま『なかったこと』として忘れるのは、嫌なんです。だから……」
「――あ、ユイ、早いね」
と、そこでかかってきた少女の声にユイは振り向いた。
扉を開けてやって来たのは、青みがかった黒髪をポニーテールにし、気怠げな雰囲気を醸す石田サキであった。
「サキさん……あなたこそ、今日はせっかくのクリスマスなのに……」
「もちろん、家族と過ごす時間はちゃんと取るよ。弟たちが腹空かせて待ってるからね」
サキはいわゆる大家族の長女で、下に六人の弟妹がいる。
【異形】襲来以後、激減した人口をカバーするため国は子供を産んだ家庭に助成金を出しており、その政策の甲斐あって彼女の家のような大所帯は珍しくなかった。
クラスに馴染まず訓練で手を抜くことも多かったサキは当初、カオルら他の生徒から反感を買ってしまうことも多々あった。しかし、彼女が家族の生活を支えるために高給の『レジスタンス』入隊を目指していることをカオルらはキョウジを通して知り、その微妙な関係は既に解消されている。
「あら、サキさん、その荷物は?」
ベッド脇の小机に彼女が置いた小さな箱を見て、ユイが訊ねる。
コートとマフラーをポールハンガーに掛けながら、サキは「ああ、それ?」と素っ気なく答えた。
「ショートケーキだよ。あたしの手作りなんだ。今日はクリスマスだし、月居も食べたがると思って」
「あら、良かったですね、カナタさん。サキさんからのクリスマスプレゼントですよ」
「これでこいつが喜んでくれると、いいんだけどね」
サキの口調はドライだが、その表情は至って穏やかだ。
弟を見守る姉のような顔でカナタを見つめ、彼女は言う。
「今となっては……ちゃんとこいつに関われなかったのが、無性に悔しい。互いにろくに知ることもないまま、こいつは眠っちまった。そんなこと、今更言っても仕方ないんだろうけど」
「彼が目覚めてから、ちゃんと話しかければいいんですよ。彼は必ず、わたしたちのところに戻ってきます」
少年の目元にかかった髪を指で払ってやりながら、ユイは確信をもって言った。
彼女の言葉に「そうだね」と微笑み、サキは壁掛け時計を一瞥する。
「他の連中は来るの?」
「ええ、9時過ぎには。今日はクリスマスですから、皆でカナタさんのお見舞いに行こうって決めてたんです」
シバマルやイオリ、カオルやユキエたち、それにカツミまでもがカナタのために集まってくれる手筈になっていた。
ユイはレイにも声を掛けたのだが、やはりまだ反応はなかった。
四ヶ月の時間が経ってもなお、レイは未だに部屋から出てきていない。
ユイは時間を見つけては彼の部屋のドアに背中を預け、その日の出来事などの取り留めのないことを話していた。繰り返し声をかけ、彼の再起を願っても、凍りついた心は溶かせていない。結果の出ない行為に果たして意味があるのか、彼女はそう何度も自問してきた。
それでも、きっと声は届いているのだと――外へ出るほんの少しの勇気さえ湧き出れば、彼はまた自分たちのもとへ戻ってきてくれるとユイは信じている。
「信じて待ち続けるのは辛く険しい道。ですが……信じることさえやめてしまったら、わたしと彼らの絆が薄れていずれはなくなってしまうのではないか、そんな気がするんです」
敬虔なる信徒のように胸の前で両手を組み、ユイは瞳を閉じた。
心を凍らせた仲間の帰還を待つ彼女のその姿が、サキには一層美しく、そして儚く見えた。
クラスの子たちとの関わり合いを極力避けてきた彼女は、自分が他人に対してそのように思ってしまったことに驚愕する。
家族さえ守れれば他人なんてどうだっていい。ずっとそれだけを思って、やれることをやってきた。それなのに――らしくない、とサキは笑う。
「…………あんた、すごいね」
今の気持ちを何と形容するべきか散々迷った末に、サキはそう一言絞り出した。
言ってから急に恥ずかしくなってきて頬を真っ赤に染める彼女に振り返り、ユイは目を弓なりに細める。
それから穏やかな時間が過ぎ、シバマルたち他のクラスメイトもやって来た。
皆がそれぞれカナタの顔を見つめ、思うことを口にしていく中、カツミだけは腕組みして窓の外を睨んでいた。
青い鳥が悠然と飛んでいく曇天。雪がしんしんと降っているにも拘らず飛翔する鳥を見て、不良っぽい少年はその翼を【ラジエル】と重ね合わせる。
「かっちゃん、お前もツッキーに何か言ってあげろよ。反応はないけど、聞こえてはいるみたいなんだからさ」
すっかり定着してしまった渾名で呼んでくるシバマルに促され、カツミはカナタへと向き直った。
ベッドで眠り続けている少年の銀髪は、その時の流れを象徴するように以前よりもずっと伸びていた。元々母親に似て女顔であった彼だが、肩まで髪が伸びたことで少女といって差し支えないほどになっている。
気の利いた台詞を思いつけないカツミは頭をぼりぼりと掻き、ぶっきらぼうに言った。
「お前……目ぇ覚めたら髪切れよ。俺の実家、美容院だから……一回、顔出してけ」
それだけ口にするとすぐに、カツミはまた視線を窓のほうに戻した。
「不器用なんだから」と笑うカオルは「うるせえ」と言い返す彼を適当にいなし、それからユイに代わって丸椅子に掛けると少年の手を持ち上げて口元に運ぶ。
「ふふ、眠り姫はキスで目覚めるっていうじゃない?」
カオルはそう微笑んで、少年の真っ白い手の甲に唇を落とした。
乾いた肌の感触が伝わってくる。それを感じて、カオルは思い知らされてしまった。この肌に、彼自身に潤いを与えるのは自分ではないと。
その役割を果たすはずだった少女は既にいない。彼女と同じ場所に立てると豪語できるほど、カオルは彼との時間も思いも共有していなかった。
彼には仲間として信頼されていた。だが、その線よりも向こうに足を踏み入れることを、許してもらえてはいない。
『レジスタンス』が遣わした観察者としての立場を、カオルは他の生徒たちに明かしてはいない。だがレイあたりは薄らと察してはいたし、カナタだって明確に分からずとも警戒はしていたはずだ。
この立場さえなければ、カオルはカナタにもう少し近づけたのだろうか。彼女らのように同じ時の中で笑ったり、他愛のない話をしたり、友達だと胸を張って言える仲になれたのだろうか。
「アンタの戦う姿が、アタシは好きだった。恋、ではないと思う。憧れみたいなもんかな。本音を言うとね、アタシ、あんたともうちょっと仲良くなりたかったんだよ」
思いを告白して、カオルは顔を上げた。それから席を立ち、黒髪の少女に視線をやる。
「月居くん」
冬萌ユキエは少年の名を呼び、クラスの代表として彼へ言葉を贈った。
「あなたの帰る場所、私たちが守ってるわ。だから……いつでも、戻ってきていいのよ」
少女の黒い瞳は揺るぎなく、信頼だけを宿して少年を見つめる。
それはこの場にいる者たちの総意だった。シバマルやイオリ、リサたちも一様に頷き、カナタの帰還をただ祈った。
各々が少年へ思いを告げ終え、一行は解散となった。
皆が学園へと戻っていく中その場に残ったユイは一人、窓の外に降りしきる雪をぼうっと見上げる。
地上は都市以上に寒いのだろう――かつて戦い、指揮した部下を亡くした彼の地にそう思いを馳せた。
【異形】たちとの乱戦。撤退命令を出した時には、既に三割の兵が死んでいた。彼らの遺骸を回収する余裕は第二師団にはなく、その骸は死地に晒されることとなった。
彼らの墓標は『レジスタンス』本部敷地内の庭園にある。並んだ名前だけが刻まれた、黒い石碑だ。
自分が弱かったから部下を失った。同じ過ちを繰り返さぬようユイはこの四ヶ月、訓練に精を出し、中間試験の【異形】戦でも指揮官として「犠牲者ゼロ」の務めを果たした。
「……また来ますね、カナタさん」
少年へ微笑みかけて退出し、彼女は兵たちの墓標へ弔いに向かった。
殆ど他人とすれ違うことなく冷え切った廊下を早足に進み、階段を下りて一階へ。廊下の一角のドアを押し、中庭へと出る。
芝の緑は雪ですっかり白くコーティングされていて、踏むとザクザクと小気味よい音が鳴った。
そのリズムにユイはふと童心を蘇らせ、傘も差さずに散る雪の中でスキップする。
「~~♪」
母親がよく歌っていた祖国の民謡を口ずさみ、艶やかな青髪を揺らして舞う少女。
弟や妹たちと手を繋ぎ、歌いながら踊った幼い日を思い出す。
ユイの母親は歌手として有名な人だった。兵士になる前はユイ自身も、母親のように歌い手になるのだと夢見ていた。だが学生たちに突きつけられた「兵役」によって、その夢は断たれてしまった。
過酷な戦場。散っていく仲間たち。その運命を恨んだ数は計り知れない。
だが今は、不思議と折り合いをつけられていた。恨み、嘆いてばかりでは何も変わらない。この過酷から救われるには、自分自身の手で道を切り開くほかないのだと、彼女はいつしか思うようになっていた。
また舞えるように。また歌えるように。
刘雨萓は、戦うのだ。
「おい、そんなところで何してるんだ? 風邪引くぞ!」
と、そこに若い男から声をかけられ、ユイは歌うのをやめて振り返った。
ドアを開けて首だけ出していたのは、ふわりとした金髪の天然パーマの青年である。
「御門中佐……す、すみません、年甲斐もなくはしゃいでしまいました」
「はぁ……馬鹿か君は」
呆れ顔で溜め息をつくミツヒロに、ユイも空笑いを返すしかない。
傘を差してユイのほうへ向かってきたミツヒロは、「入れ」と傘を彼女へと傾けた。
「弔いは済ませたのか?」
「いえ、まだ……あ、お花は用意してきたんですけど、この雪だとお花も可哀想ですかね……」
「……行くぞ」
言葉少なにミツヒロは歩を進め、ユイもそれに従う。
中庭の片隅に設けられた石碑たちの一つの前に立った二人は、そこに跪き、それぞれ花を捧げた。
無言で頭を下げ、彼らへの謝罪と冥福を祈る言葉を胸中で贈る。
しばらくそうした後、ユイは先に立ち上がって置きっぱなしの傘を拾い上げた。
ミツヒロの頭に薄く積もった雪をそっと払い落とし、彼女は声をかける。
「中佐、寒いですし今日は早めに戻りましょう。中佐が風邪を引かれたら、亡くなった彼らも悲しむかもしれませんよ?」
こくりと頷き、ミツヒロはユイから傘を受け取る。
足元の冷たさを踏みしめながら、青年は茫洋とした白を眺めて呟いた。
「刘、雪は好きか?」
「えっ? ええ、まあ」
「その気持ちを大切にしろ。戦禍に身を投じる者は、そういう感情を忘れがちになる。あの人だって……」
あの人、が誰を指しているのかは、ミツヒロとたまにここで会う程度のユイにも分かった。
生駒センリ少将。
ミツヒロより少し年上の彼は【七天使】最強と謳われる戦士にして、一騎当千の活躍を数多く遂げてきた名士であった。
単騎での長期戦を可能とする【ゼルエル】のパイロットである彼は、必然的に戦場では重宝される。本人の希望もあって度々主要な作戦に参加させられているセンリに、休みは殆どない。
ミツヒロはいつの日か、センリになぜ戦い続けるのか問うたことがあった。
そうしたら彼は言ったのだ。「自分は常人の感情を失ってしまったのだ」、「気づいたら俺は修羅になっていたのだ」と。
ミツヒロがそうならずに済んだのは、隣でいつも笑っていたアキラの存在があったから。だが今は、あの中性的な彼はいない。
「人を人らしく生かすのは、そういう気持ちだ。それはきっと月居も知っていたこと。おそらくは彼が戦いの中で瀬那マナカに訴えたこと……」
【ラジエル】のレコーダーは高出力の魔力を浴びたことで破損し、そのデータも一切残っていない。だから、ミツヒロの言うことはただの推測だ。
同時に、それは確信でもあった。
青年と少年とが関わった時間はそう長くない。しかし、更衣室でマナカについて訊ねたあの時の受け答えで、ミツヒロはカナタという少年がマナカを本当に愛し、真心をもって接していたのだと分かっていた。
「……はい」
ミツヒロの言葉を噛み締めるように、瞑目して少女は頷く。
カナタに抱いた気持ち、仲間たちへ向ける思い。その親愛の情を楔として、人として【異形】との戦いに身を擲つのだ。
それがユイに求められる在り方。再び舞い降りる戦場で、人の上に立つことになる少女に課せられた大切なこと。
「君はここで朽ちてはならない人材だ。辛いだろうが、励めよ」
中庭を囲む回廊に戻ったミツヒロは、ユイにそう言い残して去っていった。
彼の背中を敬礼で見送りながら、少女は考える。
敵に対しての憤怒と憎悪だけで戦ってきた自分のやり方は、危ういものだったのか、と。
心を燃やし、修羅の道へと突き進まないようにするための一番の楔――自分にとってのそれが何か理解しているからこそ、彼女は強く自らを律しなければならなかった。
「……大丈夫。きっと、きっと……カナタさんは、戻ってくる」




