第七十八話 永訣の火 ―"For my wish,--"―
出会いは、少女が十二歳の頃だった。
彼女が大人の慰みものにされるようになってから一年。屋敷の中に閉じ込められ、学校に行くこともできていなかった瀬那マオに対し、彼は接触した。
彼がマオを選んだのは、その胸に抱える黒い感情が一際大きかったから。
自分を嫌い、父を嫌い、母を嫌い、男を、女を、大人たち全てを嫌った彼女の絶望は、彼が棲みつくのに丁度良い「心の欠落」を生んでいた。
ぽっかりと空いた心の穴を埋める。そうしてやれば宿主の精神は楽になる。
少女は最初、彼の声を幻聴だと思っていたらしい。だがその幻聴にさえ縋りたくなるほど、彼女は追い詰められていた。
チュウヤと名乗った彼の甘い囁きに救いを見出したマオは、一切ためらうことなく彼を受け入れた。
それからは「姉」と「弟」という擬似家族としての関係が始まった。
姿のない弟と話すマオを父や屋敷の使用人たちは不気味がり、彼女の道具としての扱いはより酷くなった。
しかし、それでもマオは絶望の淵から奈落へ飛び降りることはなかった。
自分のことを何でも分かってくれる唯一の弟であるチュウヤの存在は、彼女の命を繋ぎ留める一筋の光となっていた。
チュウヤが心にいると思うだけで彼女は安心できた。どんな辛い扱いにも耐えられた。チュウヤを心配させたくない一心で、彼女は必死に「役目」を果たした。
気づけば彼女は生きるために、チュウヤに依存しきっていた。
その経過はチュウヤの思い描くシナリオ通りだった。
彼はマオを絶望に耐える「悲劇のヒロイン」に仕立て上げた。悪いのは全て大人たちで、彼らは憎むべき大敵なのだと吹き込んだ。
それを毎日繰り返していくうちにマオの心の中には他人に対する憎しみが蒸留していき、その黒い感情はいつしか抑えきれぬ悪意として噴出する――はずだった。
シナリオにズレが生じたのはほんの半年ほど前、彼女が十六歳の頃。
チュウヤが全く予期せぬタイミングで、マナカという新たな人格が突如として生まれた。
乖離性同一性障害。一般に「多重人格」と呼ばれる症状が、彼女に現れた。
医学的な見解を述べると、その症状は新しい人格を作り出すわけではない。一人の身体に複数の人格があるように見えても、実際は全てその人の心の「部分」なのだ。
だが【異形】であるチュウヤが人の病気について知るはずもなく、彼は全くの別人のように明るいマナカをそのまま別の人格として捉えた。
チュウヤはマナカとの新たな関係性を模索した。
しかし、それはすぐに頓挫することとなった。
『潜伏型』の【異形】が人の心に居着くには、宿主の心に穴がないと人格としての表出が安定しない。
あくまでも寄生者でしかないチュウヤは宿主の力が弱ってやっと心の主導権を握れる存在に過ぎず、マナカという安定した人格が登場した以上、その心の奥底に潜むしかなかったのだ。
そのため彼は、しばらく眠り続ける日々を過ごすこととなった。
その眠りから覚めたのは、一ヶ月ほど前。
マナカがコアによる『同化現象』を発症させ、その心の均衡を保てなくなり始めた頃だった。
それを好機と見て、チュウヤは彼女の肉体の主導権を握ろうと躍起になった。同時期にマオもまた、マナカへの嫉妬を募らせて彼女を排除せんとした。
チュウヤとマオは以前のように結託し、マナカに対し彼女を否定する言葉を投げかけ続けた。
『同化現象』に悩まされ、さらには二人から連日の精神攻撃を受けたマナカは段々と弱っていった。
そして遂に、『福岡プラント奪還作戦』の最中、チュウヤたちはマナカを屈服させた。
マナカが掴んだ力を横取りし、自分たちの願いを叶える――【異形】の『共同体』と密かに交信していたチュウヤは、いよいよ行動に移った。
ヒトの兵士を一人でも多く殺し、【異形】の支配を確立するために彼らの力を削ぐ。
それが『ベリアル』から送られてきたメッセージの内容であり、チュウヤはマオを唆してそれを着実に実行した。
燃え盛る少女の黒い炎は人間も【異形】も違いなく焼き殺した。その哄笑はまさしく、毒蜘蛛の女王のごとく悪意を孕んだ女のそれだった。
彼女の敵意、殺意、悪意がヒトども全てを焼き払う。チュウヤはそう確信していた。
なのに――それを根本からひっくり返す者が現れた。
月居カナタ。
あいつさえいなければ、チュウヤの願いは実現した。
あいつさえいなければ、チュウヤはマオと共にいられた。
あいつさえいなければ、チュウヤは『共同体』に認められ、「肉体」を与えてもらえたというのに――。
許せない、と。
男の子の人格を有した『潜伏型』は呟いた。
魔力で構成される体を漂わせ、何かに寄生するしかなかった彼がようやく力を得られるはずだったのに、達成を目前に計画は頓挫するかもしれなくなった。
『お前さえいなければ……ぼくは、身体を取り戻せたはずなのに!』
チュウヤは叫ぶ。
彼の怒りはマオもマナカも呑み込んで、彼女の脳をじわじわと、しかし着実に侵食していった。
*
『月居。では、瀬那マナカの暴走は止められたんだな?』
ミツヒロからの通信にカナタは「はい」と頷きを返した。
その声音には疲労が濃く滲んでいるが、少年の表情は澄み切っている。
薄らと笑みを浮かべる彼に『よくやった』とミツヒロは言い、それから俺もそちらへ向かう、と付け加えた。
魔力を限界まで使った戦いを終え、【ラジエル】も【ラファエル】も現在は沈黙している。
機体を動かすかコックピットから出るか、そのどちらに対しても気力の湧かないカナタは操縦席の背もたれに身を預け、脱力する。
マオという少女との思いのぶつかり合いは決着した。これから彼がするべきことは、彼女――「マオ」も「マナカ」も引っ括めた少女と正面から向き合うことだ。
彼女が罪を犯す原因となった心の傷を、触れ合いながら癒していければいい。カナタは、そう思った。
「ね、ねえ、マオさん、マナカさん」
マオもマナカもそこにいる。それをよく理解した上で、少年は彼女らに呼びかけた。
「何よ、月居カナタ」
最初に応じたのはマオだった。散々泣いて真っ赤に泣きはらした目元を拭いながら、彼女はつっけんどんな声を返す。
刺はあるが幾分か柔らかくなった口調に微笑んだカナタは、目を閉じたまま穏やかな声色で言った。
「ぼ、僕は君の罪を一緒に背負って生きていくよ。き、君もマナカさんも等しく愛して、等しく守るよ。……き、君がそれを望むかは分からないけれど。ぼっ、僕は君を理解したいと思うし、出来る限りのことはしてあげたいって思うんだ」
淀みない口調で決意と覚悟を表明する少年。
罪人である彼女の罰を、彼の声だけでどれだけ軽くできるかは分からない。たった一人ではどうにもならないかもしれない。だが、それでも――カナタはマオとマナカと一緒にいてやりたかった。
彼女を庇ったことを責められ、そのために罰を受けたとしても構わないと自明の理のように思えた。
「……あんたって本当に傲慢で、偽善者で、罪人をわざわざ構う馬鹿な奴だけど――嫌いじゃない。今ならマナカがあんたに惚れた理由、分かる気がする」
普段は気弱で頼りなさげに見えるのに、SAMに乗ると途端に格好良くなるところ。
真っ直ぐな眼差しでこちらを見つめ、嘘偽りない意思でぶつかってこようとするところ。
泣いている少女に笑って手を差し伸べる、そんな優しいところ。
挙げようと思えば他にも幾らだって好きなところはある。だがそれを言うのはどうにも恥ずかしくて、マオは口を尖らせて昨夜のことに触れた。
「あんた、昨日の夜、あたしの誘いに乗ってくれなかったよね。今度あたしが誘った時はちゃんと応えなさいよ。マナカばっかりに構ったら許さないんだからね!」
「だ、だってあの時はそれどころじゃなかったし……。ま、まあそういうことする暇が出来たら、いいよ。そ、それだけじゃなくて、他にも色々、これまで出来なかった楽しいことをしよう」
普通の人が当たり前に手に入れられる、恋人との素敵な時間。
その時間を一緒に過ごすと約束して、カナタは今度はマナカへと呼びかけた。
すると――案外素直にマオが引っ込んで、マナカが彼に応える。
「……何があったのか、私もぼんやりとだけど分かってる。ごめんね、カナタくん。私……止められなかった。マオの暴走を引き止められたのは、私しかいなかったのに」
マナカにはマオと対話するチャンスが何度もあった。にも拘らずその暴虐を許してしまったのは、マナカの過失だ。
いくら心が弱っていたとはいえ、責任の三分の一は彼女にある。
君は悪くない――カナタはそう言おうとして、止めた。事実を甘い言葉で覆い隠してしまうのは、やはり違う気がした。
罪は目を逸らすものではない。向き合った上で反省し、贖罪のために前を向く、そういうものなのだろうと少年は思った。
「ぼ、僕も、謝らなきゃいけない。ぼ、僕、黙ってたんだ。きっ君の心に【異形】が住み着いてるのに気づいていながら」
自身が【異形】と関わっていると知ったら、マナカのアイデンティティが揺らいでしまう。
自分の経験から勝手にそう当てはめたカナタの考えも、また罪だったのだろう。
マナカ自身が気づいていれば何か変えられたかもしれなかった。【異形】の側につくことももしかしたら、防げたかもしれなかった。
『――気づいてたよ、彼女は』
が、そこで――マナカと同じ声で、彼女ではない誰かが笑った。
くすくすくすくす……笑声は止まらない。
その嘲笑の冷たさに肌を粟立たせ、カナタは咄嗟に身構えた。
魔力も切れ、非常用電源ではまともに戦える時間も限られているが、【白銀剣】の柄を握り込む。
「マナカさんの中にいた、【異形】……!?」
『海越え』の際、出撃しようとしたカナタの脳内に入り込んできた少年の声だ。
これまで姿を殆ど見せなかったその存在を前にして、カナタの胸に最初に湧き上がってきた感情は――対話を求める意思ではなく、「怒り」だった。
「き、君がっ、マオさんに人を攻撃するよう仕向けたのか!? た、ただの女の子が大量殺人を簡単に実行出来るわけがない!」
マオの罪はその【異形】によるもの。だから彼女は悪くない。
そう言ってしまえれば楽だろう。それならば「仕方のないこと」で済む。実行してしまった彼女に罪が一切ないとは言えないが、情状酌量の余地は出てくる。
半ば願望のようなカナタの問いに、チュウヤは乾いた声音で返答した。
「お姉ちゃんはぼくの操り人形なんかじゃないよ。ぼくと結託し、ぼくと一心同体で、ぼくがいなくちゃ生きていけない、そんな女の子なんだ。だから……ぼくの意思は、彼女の意思。その逆も然りさ。仕向けた、というのは語弊があるね」
幼い男の子のような舌っ足らずな口調にも拘らず、その言葉選びは決して子供じみてなどいなかった。
アンバランスな印象を刻み込んでくるチュウヤに、カナタは息を呑む。
かつての自分と『見えざる者』との関係。それとチュウヤの言葉とを重ねると、彼には真っ向から彼らのあり方を「否定」することはできなかった。
「ねえ、月居カナタ。君は【異形】との対話を望んでいたはずだろう? でも、その剣はなんだい? その目に宿る感情は?」
チュウヤの言葉はカナタの頭の中に反響する。
単体では殺傷能力を有さない『潜伏型』の彼が唯一持つ、特殊能力――交信である。
対象の思考に直接介入する力はマオの思考を無意識的に「人を憎むこと」に偏らせ、彼女を凶行に及ばせた。
だから先ほどのチュウヤの返答は嘘っぱちだ。
彼は最初から利用するつもりでマオに近づいたのであり、姉弟の情などありはしない。マオは彼の操り人形としてこれまで役目を果たしてくれた。
月居カナタさえいなければ、その目的は滞りなく遂行されるはずだったのだ。
「君の心には欺瞞が溢れている。対話を求めながら剣を執ろうとし、相手の正義をねじ伏せ己の正義を押し付けようとしている。――君の天秤は傾いているんだよ、月居カナタ」
月居カナタはエゴイストだ。
マナカを救おうとしたのも、マオの罪を深層心理で見逃そうと思っているところも、結局は自分本位でしかない。
裏切った兵は容赦なく抹殺するのが軍人として正しいあり方だった。彼女に命を奪われた沢山の兵たちやその遺族のことを考慮し、罪人に対しては法に従う態度を取るのが大多数から見た正しさだ。
それに真っ向から反するカナタの言葉に、誰が耳を傾けるというのか。
「……ぼ、僕は……」
「身勝手で不平等な君の意見は、思想は、誰にも届かない。【異形】にも、ヒトにも」
チュウヤの刃は実体を持たない。敵の身体を傷つけはしない。彼が抉るのは、相手の心だ。
彼はヒトの心を見通すことに長けていた。特に欠落を抱えた者の心理はよく見透かせた。
綺麗な部分だけを見上げて、現実の厳しさから目を逸らす矛盾。
月居カナタが孕んだ、本人も自覚しながら改善のための行動に出られずにいたその点を、チュウヤは容赦なく暴いて突きつけた。
所詮は子供の絵空事なのだと、未熟なお前には何もできないのだと、心を折らんとする。
「……ち、違う。ぼ、僕は、君たち言葉を持つ【異形】と話したくて、地上に来たんだ。僕は確かに声を届けたくて……」
【異形】と対話する。その行為をカナタは地上に出てどれだけできただろう。
同胞を失った痛みに涙する『潜伏型』の声を聞いただけで、それらしい対話は何もしていなかったのではないか。
思考に侵入するチュウヤがそう、囁いてくる。
お前は理想に酔っているだけなのだと。彼の大好きなロボットアニメの主人公のような、格好のいい正義のヒーローになろうとしているだけなのだと。
――お前は偽善者だ。
それは偽らざる真実だった。
では、その真実を暴かれたカナタが取るべき行動は何なのか。
偽善者であることを止め、理想を絵空事だと認め、一人の軍人としてヒトの側に与するか。
それとも、偽善者として矛盾を抱えたまま、実現するかも分からない【異形】との対話を模索し続けるか。
少年が選び取ったのは――後者だった。
「み、身勝手と詰られようと、不平等だと言われようと、偽善者だと蔑まれようとも――それでも、僕の理想は揺らがないよ! かつての僕と『彼』との関係性……それをヒトと【異形】の間で構築できれば、この果てなき争いは終わらせられる。そうなれば涙を流す人も、【異形】も、今よりずっと減る! それが僕の理想だ! 僕の正義なんだ!」
月居カナタは折れなかった。
手つかずの原石のごとき少年の意志――生まれたての状態で保たれている、イノセンスな願い。
その理想は彼の過去の穏やかな時間に由来している。目の前の相手と仲良くできれば楽しい、戦場に立つ者が忘れがちなその感覚こそが、彼を動かす原動力であった。
その純粋かつ強固な意志をもって、カナタはチュウヤに相対する。
真っ直ぐ【ラファエル】を見据えた彼は、それからその得物を腰の鞘に戻した。
君と戦う意思はないのだと、行動で示す。
「ぼ、僕、君ともっと話がしたい。きっ、君は僕の心を正しく暴いてくれる。君の言葉はマオさんみたいに、悪意に支配されてなんかいない。だ、だから……話せば分かり合えると思うんだ」
チュウヤはカナタに対して怒りを抱いているはずだった。だが、彼はどこか冷めていた。自分を俯瞰するもう一人の自分が、チュウヤという人格の冷静さを保たせる楔となっていた。
純真なるイデアを曝け出した少年の言葉に触れ、チュウヤは己を顧みる。
――ぼくが戦う理由は何だ?
ヒトが憎いから殺すのか。ヒトと戦いたい本能的な欲求に駆られているから殺すのか。
いや、違う。
彼の願いもまた単純で、純粋なものだった。
ヒトを殺したいと心から願ったことなどなかった。マオのように世界の全てを憎んだこともなかった。彼にあったのは、羨望だ。
意思だけを持つ魔力体としてしか生きられない彼にとっては、自分の身体を持って様々な行動ができるヒトや【異形】たちは何より自由なものだと思えた。
だから、己の意思でどこまでも歩ける身体がほしかった。その一心でマオという少女に取り憑いた。
しかし、所詮は他人の身体に寄生しているだけの矮小な存在――自分をそう客観視するたびに、彼は激しい自己嫌悪に駆られた。
本物がほしい。本物の自分だけの肉体があれば、チュウヤは初めて自由を手に入れられる。思考の海から抜け出し、実感という体験を得られる。
転機は、『第二の世界』にベリアルやパイモンといった理智ある【異形】が干渉してきた時だった。
ベリアル戦でチュウヤはマナカの表層意識に出現し、彼女の『獣の力』を覚醒させるとともに交信能力を発動した。
そして、願いを成就させるための導きを得たのだ。ヒトを殺し戦力を十分に削ぐことができれば、お前の願いを叶えてやろう――魔神のその言葉を信じ、チュウヤはマオの黒い炎に薪をどんどん投げ込んでいった。
その結果が、これだ。
魔神が本当に願いを叶えてくれる確証もないままその言葉を鵜呑みにし、無作為にヒトを死なせ、それにも拘らず少年に阻まれて計画は頓挫しそうになっている。
そんな彼にカナタの理想を絵空事だと断ずる資格など、彼をエゴイストだと一蹴する資格など、ありはしない。
チュウヤもまた、理想に酔っていた。本当は叶わず、口車に乗せられているだけの可能性を見て見ぬふりして、突き進んでしまった。
「……ぼくは自由がほしかった。自分の意思で動かせる四肢、五感を与えてくれる目、鼻、耳、舌、肌……それがどうしてもほしかったんだ。『ベリアル』はぼくが戦果を挙げたらそれをくれると言った! だからぼくはマオを利用した! 五体満足な君にこの欲求は理解できないだろう、だが……ぼくにとっては何よりも代え難い願いだった! だから」
武器を収めた少年に銃を向けることも、願いのためなら厭わなかった。
対【異形】ライフルを構え、引き金に指をかける。
この至近距離から撃ち放てば【ラジエル】のコックピットを爆砕することは容易いだろう。
「ぼくの――チュウヤの願いのために犠牲となれ、月居カナタ!!」
チュウヤは息を吸い込み、震える指で硬く重いトリガーを引いた。
眼前で少年が瞠目する気配を感じる。真正面から対話を求め、それでも受け入れてもらえなかったことへの落胆と死への恐怖がそこにあった。
エゴのために誰かを殺す。
それが悪だと見なされようとも、チュウヤには構わなかった。
願いさえ叶うのなら、罪なんて幾らでも背負える。悪になる覚悟はとうに出来ている。
きっと少年との運命の差異はそこにあったのだろう。結局彼はそれを「悪」だと自覚していた。自分のためだけに他の全てを壊してもいい、そう思っていた彼だが――彼にとっての世界の中心は、彼自身ではなかった。
エゴを貫き通したいのなら、自分が世界の中心だと思い込めるほどの自尊心が必要だったのかもしれない。それを悪だと思うこともなく、自らが正義だと言い張れれば、その願いは絶対に破られない強固さを持って少年を打ち砕けただろう。
しかし。
思い描いていたシナリオを完全に遂げることは、彼にはできなかった。
「カナタくんは――私たちが守る!!」
二機の間の空気を震わせたのは、少女の叫び。
チュウヤの身体の自由がマナカに奪われる。しかし、引かれたトリガーは元には戻らない。
【ラジエル】を撃たせまいと翻された銃口は【ラファエル】へと向けられ――
「ごめんね、カナタくん……!」
「ま、マナカさんダメだ! マナカさ――」
溢れた少女の涙は、永遠に少年に届くことはない。
瞬間、少年の脳裏には彼女と過ごした日々の光景が奔流のごとく湧き上がった。
契約の日の真っ直ぐな眼差し。食堂でいつも見せていた美味しそうに頬張る顔。戦いの中で皆を鼓舞する頼れる姿。連弾したピアノの爽やかかつ情熱的な音色。デートの時の仄かに赤らめた笑顔。少年の腕の中で陶然とした表情を浮かべる、幸せそうな彼女。
それらの光景が意味するところを分かっていながら、カナタは認めたくなかった。
嫌だ、行かないで、僕を置いて行かないで――そう声にならない叫びを上げ、手を伸ばす。
『――私のこと、忘れないでいてくれる?』
最後に蘇ったのは、遠征前最後に皆で遊んだあの日の言葉。
あの時には既に、彼女は自分の運命を予感していたのだろう。
『同化現象』やマオとチュウヤに心を苛まれ、弱り果てながらも、それだけは覚悟していたのだろう。
きっとこの瞬間、彼女に恐れはなかった。
運命を全て受け入れ、未来を少年に託す決意があった。
「マナカさんッ――――――――!!」
爪弾かれたその音は、少年と少女の永訣の火を燃やす。
轟音が轟き爆風が機体を吹き飛ばす中、カナタの喉は罅割れんばかりの絶叫を上げていた。
少年の脳内は色を失っていく。
少女の優しく儚げな笑顔は掻き消え、全ての感情から境界線が取り除かれていく。
カナタの時は止まっていた。
無音の慟哭が、彼の感情を余さず塗り替える。
『ありがとう』――その言葉を最後に贈ることも叶わず、瀬那マナカという少女は、月居カナタという少年へ永遠の別れを告げた。




