第七十二話 笑み ―How to fight only me.―
青白く発光して五芒星を描く、肉体を持たない魔力の塊が悪意を孕んだ存在。
それこそが序列六十九番の『第一級』【異形】、『デカラビア』であった。
「皆、急いで本陣に戻って! こいつはあたしがやる!」
細い四本の腕でライフル型の『毒液銃』を構え、四足の先端を地面に突き立てる蜘蛛の如きSAM・【マトリエル】。
そのパイロットであるショッキングピンクの髪の女性、毒島シオンは部下たちを背に『デカラビア』と対峙する。
いま彼女の眼前にいるのは、これまでに確認されたどの【異形】とも異なる形状の敵だ。【異形】の多くは地球上の生物に似た姿のものが多いが、それは全く生物らしさを感じさせなかった。
空中で輝いたまま動くことも点滅することもなく、鳴き声らしき音も立てない。
強烈な違和感に駆られるシオンは、それでも武器を手に攻撃に移る。
停止した状態の『デカラビア』へ一射、【異形】特効の毒液銃を撃ち込むが――
「っ、消えた!?」
銃弾が通過した座標には、既にその五芒星はなかった。
一撃を放った直後、それを感知したように姿をくらました敵にシオンは舌打ちする。
「簡単には当てさせてくんないってわけね。まっ、いいよ。ちょっと苦戦するくらいが一番燃えるから!」
すぐに表情を勝気な笑みで塗り替え、シオンはレーダーでの索敵と並行して目視でも同じことを試みた。
攻撃が当たった形跡はなく、『グラシャ=ラボラス』のように単に姿を透明化したわけではないだろう。『デカラビア』は確実にどこかへ移動したのだ。
(そう遠くには行っていないはず。普通に打っても当たる見込みが薄くても、登場地点を予測さえできれば――)
敵の行動パターンを把握さえ出来れば勝機は十分にある、とシオンは考えた。
少なくともこれまでの【異形】はそれで対処できた。八年間にも及ぶ地上での戦闘経験で培った彼女の観察眼に狂いはなく、どんな敵だろうがその毒で追い詰められた。
チカッ――青白い輝きが左後方の上空より差し込む。
頭部の複眼がその熱を捉え、彼女は振り返るよりも先に左側の二つの手に握るトリガーを引き、弾丸を撃ち上げた。
敵が登場した一瞬を突く射撃。
その精密さ、瞬発力、いずれも他に追随する者は一部の例外を除いていないと断言できるほど、彼女の技術は群を抜いたものだった。
(よし、当たった……!)
【異形】の瞬きは霞む。破裂した弾丸が飛散させた毒液が『デカラビア』と絡み合い、その魔力で構成された身体の魔素――魔力の最小単位――一つひとつを分離させていった。
魔力の集合体もバラバラになってしまえば脅威たり得なくなる。敵に致命打を与えた、そう判断してシオンは口元に笑みを刻んだ。
振り返りながら小雨のように舞い散る毒液の残滓を見届け、視線を撤退中の部下たちへ移す。
「――えっ?」
虚を突かれて口から溢れ出る、間の抜けた声。
先程まで彼女と共に戦っていた【イェーガー】たちは地に倒れ伏していて、その背景では炎が赤々と燃え盛っている。
幻を見ているのか、とシオンは思った。
その考えの半分は当たっていて、もう半分は外れていた。
「ぶ、毒島、中佐っ……!」
ノイズ混じりの通信で届けられる部下の声が彼女の名を呼ぶ。
辛苦を滲ませるひび割れた声音に、シオンの全身は粟立った。
彼女が見ていたのは確かに幻だった。が、それは目の前の惨状では決してない。
上空に認めた敵の姿、センサーが捉えた熱源の反応、瞬いた青白い光――それら全てが、『デカラビア』の彩った幻だったのだ。
彼女は敵の演出に踊らされ、何もいない空中を撃っていた。その間に味方が焼夷弾のごとき熱線に焼かれたことにも気づかずに。
「て、敵の、全ては……まやかし……」
通信はそこで完全に絶たれた。それが意味するところは、機体の破壊。
自身に近しかった男の死を未だ現実感をもって受け止められないまま、【マトリエル】はその場に立ち尽くす。
あの光が放たれた瞬間、確かに彼女の五感はそこに敵がいるのだと訴えていた。その感覚が通用せず、熱や魔力を捉えたレーダーの反応さえも欺かれたともなれば――もはや彼女の「索敵」行為は完全に意味を成さなくなった。
姿を消して一瞬のうちに「転移」する『デカラビア』は、幻影をもって人を惑わす。
どこから飛んでくるかもタイミングさえも予測不可能な攻撃。まさしく神出鬼没なその【異形】に人間の側から攻撃を当てることも叶わず、人々はただ攻撃に備えて【防衛魔法】を張ることしかできない。
「あたしの部下を……よくもッ!!」
拳を固く握り締め、喉が張り裂けんばかりの叫びを上げるシオン。
瞋恚の炎を瞳に宿す彼女は狂ったように周囲をぎょろぎょろと見回し、銃口を何もない空へ何度も構えて向けた。
空には【異形】を運んできたワームホールだけが、虚ろに開いている。
あれさえ現れなければ、とシオンは思わずにいられない。『デカラビア』さえ出なければ、これほどの惨劇に見舞われることもなかったはずなのに、と。
「隠れてないで出てこい【異形】ッ!! あたしの仲間を奪ったその罪、あたしの弾丸で裁いてやる!!」
声は空虚に響いた。
聞こえてくるのは炎が爆ぜ、機体が一機、また一機と崩れ落ちる音だけだ。
漏れ出た魔力液が熱に焦がされる不快な臭いが鼻をつく。焦熱の戦場は女から正常な感覚と判断力を徐々に奪い、その体力も着実に削っていった。
「どこに……どこにいる、【異形】!? 自分だけ隠れて、人を焼いて……食いもせず、ただ死なせるなんて……この、卑怯者ッ――――!!」
燃える大地に膝を突き、シオンは悲痛な叫びを垂れ流した。
憎悪、怒り、悲しみ、憎しみ――月居カナタが嫌った負の感情に支配され、女は地面を掻き毟りながら歯を食いしばった。
*
突進には突進を。
黒煙のごとき鬣を揺らめかす馬型の【異形】・『ガミジン』を押し返す【レリエル】は、その体勢のまま右手に魔力を溜め始めた。
発動せんとしているのは先刻【異形】の軍勢を一斉に眠らせた秘技。
消費する魔力量は多いが、対象を一体に絞るぶん負担は少ない。
このまま決めきる――そう決意して、シズルは詠唱を開始した。
「【帳よ降りよ。夜は安息、安寧の刻】――」
玲瓏な声で唱えられる呪文に、『ガミジン』はその赤い瞳孔をかっと開いた。
血走った瞳に宿っているのは、怒りと憎悪だろうか。
シズルの意思を察したのか、魔力をさらに燃焼させて嘶き、後ろ脚で一際強く地面を踏みしめる。
『ヒィィィイイイイイイイインッッ!!』
「くっ――!!」
『ガミジン』の鬣は文字通り燃えていた。
煙のように天へと伸び上がりながら広がり、その背後を黒く覆い尽くす。
闇を背負ったようにさえ思える【異形】の威容に、女は息を呑んだ。
荒ぶる鼓動の一拍一拍が肋骨を打ち、彼女の身体を震わせる。
「なんて力なの……!?」
黒いオーラを纏う『ガミジン』の姿は、シズルには何倍にも膨れ上がって見えていた。
圧倒的な魔力が見せる錯覚か――彼女も最初はそう思った。
しかし、意思を強く保って中断していた詠唱を再開しながら、シズルは確信せざるを得なくなる。
この【異形】は本当に「巨大化」しているのだ、と。
漲る魔力が血管や神経を通じて全身に駆け巡り、骨や筋肉に作用して異常なまでの成長をもたらしている。
軋むような音を立てて急激に伸びる骨、たちまち膨れ上がる筋肉。その成長は身体に負担を強い、痛みを代償とするが【異形】にとってそんなものは些事に過ぎなかった。
敵を倒せるならば何だってする。それが彼らの遺伝子に刻み込まれた本能なのだから。
「【善悪、運命、即ち幻。ゆめゆめ紛うことなかれ、汝の真なる道は凪たる闇にあってこそ顕現する】」
【レリエル】を守る漆黒の防壁はもう崩壊寸前だった。
亀裂を走らせる六角形の板の集合体に目を眇めるシズルは、詠唱を最後の節まで終えると杖を握る右腕をぐっと前に突き出す。
盾の崩壊の瞬間が魔法発動の合図だ。
敵の攻撃をモロに食らうリスクは避けられないが、動きを長時間止められるなら後続が処理してくれる。それに、残る魔力を振り絞れば機体の大破は防げるだろう。
――頼むわよ、葉山中佐。
シズルは自分と共に司令部から出撃し、控えさせていた【イェーガー・指揮官機】のパイロットへと胸中で言い残した。
ほどなくして、その時は訪れる。
蜘蛛の巣のように亀裂が全体へ走った刹那、【絶対障壁】は形状を保てずに崩れ去った。
『ガミジン』の鋼鉄の頭が【レリエル】を突き飛ばさんとする、その一瞬。
女は眦を吊り上げ、裂帛の咆哮を撃ち放つ。
「――【天使の夜想曲】!!」
響き渡る女性の歌声。
宇多田カノンの【蝶々のアリア】とも異なる穏やかな音色が、暴れ狂う【異形】の耳にまで届けられる。
『ヒィィイイイイイイイイイインッッ――!!』
再度の嘶きを聞いた女の瞳は限界まで見開かれた。
効いていない。音自体は聞こえているはずなのに、魔力が伝わっていない。
何故――そう考えて答えを導き出そうとするシズルだったが、彼女にはその猶予も与えられなかった。
歌う人間の雌の声は馬型の【異形】の闘争本能を大いに刺激し、暴走した戦車のごとき頭突きが【レリエル】の頭部へとぶち当てられる。
「ぐああああああああッ――!?」
脳天をかち割る衝撃、次いで襲い来る激痛。
機体のダメージを自身の感覚として直に受けるシズルの痛哭は、『ガミジン』にとっては凱歌であった。
地面に沈む漆黒のSAMを踏みつけ、乗り越え、黒馬の【異形】は前進する。
目指すは人の密集した本陣。より多くの人間の命を踏み潰す――それだけを目的に『ガミジン』は驀進していった。
*
「防壁北面一部解除! 【ラミエル】、どうぞ!」
中隊まるまる一つをカバーする【防衛魔法】を展開する真木中佐は、出撃せんとする御門ミツヒロ少将へそう叫んだ。
コウノトリに似た鳥型の【異形】・『シャックス』がいるのは、部隊の東側。正面を避けて北面から出ろという真木中佐に、ミツヒロは「了解した!」と鋭く返す。
今やひと振りの剣のように研ぎ澄まされた男の感覚は、愛機【ラミエル】と完全に一体化していた。防壁内の冷たい空気を感じながら腰を低く落とし、翼を広げて一気に飛び出す。
防壁の一部が解除され外からの風が流れ込んでくる中、【ラミエル】は最大出力でその風を意に介さずに突っ切っていった。
助走からの離陸。
吹き荒れる竜巻という最悪の気象条件にあっても、少将としてミツヒロは何としても敵にたどり着かんという気概で機体を制した。
「御門ミツヒロは断じて、人殺しを許しはしないッ!!」
憤激の咆哮を打ち上げて青年は大風の向こうにいる『シャックス』を睨み据えた。
彼我の距離はそう遠くない。【ラミエル】の光線の射程範囲内――その確信をもって、ミツヒロは第一射を敵へと放った。
無論、光線は風の影響を受けない。だがここで問題になるのは、機体を激しく揺り動かす暴風だった。
「ぐっ、このッ……!」
翼がへし折れそうだ。荒れ狂う風は青年から飛び立つ力を奪い、照準さえまともにさせてはくれない。
灰色がかった風の渦は青年を嘲笑うかのようにヒュウヒュウと不快音を鳴らし、彼の苛立ちを掻き立てる。
飛ぶのを諦めて『ワイヤーハーケン』を地面に打ち込み、その場に踏ん張って射撃せんとした【ラミエル】。
が、『シャックス』がその魔力反応を見逃すわけもなかった。
荒天下で視界も悪く、防壁の側面ならば数秒の猶予はもらえると当たりをつけていたミツヒロの期待は、あえなく砕け散る。
その瞳にどす黒い魔力を滾らせる【異形】。眼光と共に放たれる漆黒のビームはミツヒロのそれとぶつかり、相反する属性の魔力は互いに打ち消し合った。
「ちっ……!」
初撃の失敗はミツヒロに圧倒的不利をもたらす。
だが、それでも青年に諦めるつもりは毛頭なかった。
暴風の中でも最後まで魔力を振り絞って戦う――彼はそう覚悟を決め、雄叫びを上げる。
「【ラミエル】ッ!! 俺に、応えろぉぉおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
どうせ居場所が割れてしまっているのなら、いっそ堂々と敵の前に出ればいい。
敵の懐まで潜り込める可能性が万に一つでもあるのなら、飛び込まないでどうする。
いつまでも保身に走り、最善よりも及第点を目指すあり方のままでいいのか――そう自分に問いかけて、青年は答えを導いた。
(御門ミツヒロは確かに誤った。俺という人間は欲に負けたダメな奴なのかもしれない。だが……せめて戦場では、正しい人でいたいんだ!)
人を守る。敵を討つ。それだけ出来れば、他に何も求めない。
散っていったかつての上官、同期の仲間たち、後輩たち――彼らに面目が立つパイロットになるために、御門ミツヒロは地を蹴った。
魔力を激しく燃やし、鯨波のごとく押し返さんとする風に抗って、【ラミエル】は捨て身の突撃を敢行する。
「うあああああああああああああああああああああああッッ!!」
防壁の周囲で渦を巻く竜巻に頭から飛び込み、突っ切る。
機体の装甲が剥ぎ取られるが、そんなものは意に介さない。
一つの竜巻を突破しても容赦なく襲いかかってくる突風、豪風、烈風の数々。
翼がへし折れ、カメラのレンズが風圧に耐え切れず凹み、各所の装甲や装備が飛ばされ丸裸の様相を呈しても、彼は諦めず突き進んだ。
(いつから、忘れていただろう。こんな泥臭い戦い方――)
最初は一心不乱に敵へと立ち向かい、その喉元に食らいついて仕留めていた青年。
『第二級』の『巨象型』や『爪熊型』を巧みな飛行術で翻弄し、その懐に飛び込んで至近距離からの連射を叩き込む戦法は、過去の彼の十八番だった。
負けを恐れずに果敢に敵へと向かう姿勢と挙げた数々の戦果を評価されて、彼は昇格を重ね、【七天使】にも選定された。
しかし立場が上がるほどに命を惜しむようになり、保身に走るようになってしまった。
(俺の戦い方を、見せてやる!)
そこには既に、人の上にふんぞり返るだけの頭でっかちな男はいない。
初志を思い出して勝利に貪欲になる青年が、蘇っていた。
翼を羽ばたかせ舞い上がる『シャックス』。だが、その巨体の羽ばたきは小型の鳥型に比べて鈍重だ。空に舞い上がって滑空を始めれば勢いづくが、そこに至るまでは遅い。
『シャックス』は竜巻を連発したぶん魔力を消耗しており、さらなる負担を避けるため、体力の温存を図って飛ばずにいたのだろう。
しかし、今はそれが仇になった。竜巻も突風も乗り越えて敵が接近してくるなど、『シャックス』の経験に基づく予想の範疇にあるわけがない。
『ガアアアアアアッ――!!』
怪鳥の【異形】は、もはや魔力消費を無視して目からのビームを乱発する。
一撃でも当たれば撃ち落とせる――だがそんな確信も、数秒後には裏切られた。
「御門ミツヒロを、舐めるなァッ!!」
ビームは当たっている。にも拘らず、墜ちない。
【ラミエル】の機体表面をコーティングしている光属性のベールが、鏡面のごとく『シャックス』の攻撃を反射しているのだ。
【七天使】となってから遠距離射撃しかしてこなかったミツヒロがここに来て生み出した、新たな魔法である。
飛んでくる攻撃に防御の手間など割かず、受けた上で跳ね返す。機体が食らうダメージの全てをなかったことにはできないが、それでも十分だ。
この突貫攻撃の勢いを削がれさえしなければ、何だって構わない。
「吹き飛べぇええええええええええええええッ!!」
腕を後ろへ振り絞り、そして、掌を突き出す。
そこから放たれるのは波紋を描く光と、振動で何もかもを吹き飛ばす超音波だ。
敵の眼前にまで躍り出た青年が放った【輻射波動掌】は、短いサイクルで連続照射した高周波をもって敵の体内に膨大な熱をもたらし、その脳や臓器を内から破壊する。
『――――――――――!?』
瞬間的に熱されて絶鳴を上げることさえ許されず、『シャックス』は息絶えた。
死骸が地面に崩折れる音と同時に、荒れ狂っていた竜巻はたちまち勢いを失い、消え去っていく。
風が止み、静謐に包まれた戦場に【ラミエル】は立ち尽くす。
装甲の殆どが吹き飛び、左腕の関節も奇妙な方向へ曲がってしまっている機体はまさしく満身創痍。
いま新たな敵に襲われでもしたら全く抵抗できない、そんな限界の状況だった。
「御門少将……!」
長い静寂を引き裂いたのは、真木中佐だ。
敵が倒れるまでの間中隊を守り抜いた彼女は、涙ながらに【指揮官機】で【ラミエル】に駆け寄り、その手を取る。
機体を通して触れ合う感覚が何だかむず痒くて、ミツヒロは声を上げて笑った。
「ふ、ふふっ、あはははははっ……!」
「しょ、少将?」
彼がなぜ突然笑いだしたのか、真木中佐には分からなかった。
ミツヒロもきっと、訊かれても何も答えはしないだろうと思われた。
この笑いはそういうものだった。胸の奥底からどうしようもなく湧き上がるその感情に身を委ね、青年は一頻り笑い続けた。
「あははっ、はぁ、はぁっ……! なあ真木中佐、俺、もう動けないんだ。手間をかけさせるが、他の兵に命じて、【ラミエル】を飛空艇まで運んでくれないか」
魔力も体力もとうに限界を超え、ミツヒロは戦うどころか指揮さえも取れない状態であった。
それでも声音だけは気丈さを保って部下に頼み、複数の【イェーガー】に運ばれながら彼は凹んだカメラに映る歪んだ蒼穹を眺め、呟く。
「ああ……綺麗だ」




