第六十九話 闇夜の天使 ―I know their pain.―
紫紺の『アーマメントスーツ』を身にまとい、夜桜シズルは愛機のコックピットに乗り込んだ。
スーツ胸部に埋め込まれた『セル』と呼ばれる赤いオーブに手を触れ、「目覚めよ」と呼びかける。
パイロットの意思を読み取ってSAMは起動し、モニターの光を乗り手の目に差し込んできた。
「――行くわよ、あなた」
操縦桿を握って呟き、シズルはその機体を発進させる。
暗く短いゲートを抜けて飛び出す蒼穹。
青い空をバックに地上へと舞い降りていくのは、モノクロなカラーリングのSAMだ。
【七天使】専用機の中で最初に作られた機体のボディは【イェーガー】のそれと大して変わらない。異なるのは纏う黒いマントと専用機であるのを示す胸元の白い十字のライン、そして手に持つ先端にアメジストのような宝玉をはめ込んだ長杖だ。
獣のごとき獰猛な顎から黒い瘴気にも似た呼気――溢れんばかりの闇属性の魔力が常に発散されている――を漂わし、夜闇をそのまま切り取ったかのようなマントを風にはためかせるその名は、【レリエル】。
夜を司る天使の名を冠した、他の【七天使】機や【機動天使】のプロトタイプに位置づけられる機体である。
「おい、皆――大佐が、夜桜大佐が来てくださったぞ!!」
部隊は【異形】に囲まれ四面楚歌。
そんな状況にあっても兵たちが希望を捨てずにいられるのは、彼らにとってまさしく女神にも等しい英雄がいるからだ。
歓喜の声が方々から上がっているのを感じながら、シズルはじわじわと包囲網を狭めつつある『狼人型』や『子鬼型』の群れを睥睨した。
(我先にと獲物に食らいつこうとするのが【異形】の習性だと思っていたけど……違うのね。あくまでも私たちから仕掛けてこいと――圧力をかけて時間さえ消費させれば自分たちの有利だと、全体が弁えているんだわ。……いえ、それも違うかしら。彼らには各々がそれを自覚できる知能はないはず。だとしたら……)
彼らには「統率者」がいる。【異形】でありながら知恵の実を食した、理智ある存在が。
『第二の世界』に干渉を果たした彼らの「本体」が、おそらくこの近くにいるのだ。大量の【異形】に囲まれる人間たちをどこかから観測して、せせら笑っているはずだ。
「人間の底力、舐めないことね――知性ある【異形】さん」
今、シズルは戦場という将棋盤を挟んで見えない敵と向き合っている。
戦いを通してあなたのことを教えてもらおう、そう勝気に微笑んで女は魔法コマンドの音声入力を開始した。
「【帳よ降りよ。夜は安息、安寧の刻。善悪、運命、即ち幻。ゆめゆめ紛うことなかれ、汝の真なる道は凪たる闇にあってこそ顕現する】」
兵たちを背後に立ち、長杖を胸の前で中段に構える【レリエル】。
玲瓏なる女の声で『詠唱』は進められ、それに伴って杖先端の宝玉は紫紺の輝きを強めていく。
数え切れないほど跋扈する【異形】たちを見渡して、シズルはその艶やかな唇を弓なりに曲げた。
「――【天使の夜想曲】」
彼女がその魔法名を口にした、その瞬間――杖より放たれた黒い魔力の波が、【レリエル】を中心とした同心円状に広がっていった。
その波は【異形】たちの肉体を透過する。ほどなくして騒々しかった彼らは次第に静まり、糸が切れた人形のごとく膝をその場に突き始めた。
【レリエル】の十八番、【天使の夜想曲】。
それは対象の脳の眠りを司る部位を魔力波で刺激し、強制的に眠らせるという強力無比な魔法である。
長い戦いの日々の中で彼女が編み出した、「最小限の被害で済ませるための魔法」。これこそが夜桜シズルが英雄と崇められる理由だった。
彼女が【レリエル】を得、この魔法を開発してから兵士の生存率は格段に上昇していた。三年前の『福岡プラント』での悲劇があってもレジスタンスが人員を十分に保てているのも、それ以後の犠牲者をシズルが抑えてくれたためであった。
「皆、眠ってくれたわね。さあ、私たちは進みましょう。彼らの排除は急務だけれど……それは戦闘ではなく『掃除』。割く人員は最低限にして、残る者は前進しつつ戦力を温存すること。いいわね」
静寂に支配された戦場を眺めてシズルは部下たちへ指示を出す。同時に司令部のミツヒロも全SAMに同じ旨の通達を送り、部隊は先程までと打って変わってハイペースに進行を再開した。
人間を前にしても全くの無防備な状態で眠りこける【異形】の群れの側を通過しながら、彼女らは目的地の目印であるドーム状の基地を遠目に望む。
「……っ」
シズルは胸を押さえて項垂れ、乱れた息を吐き出した。
視界が白く眩み、手足の指先の感覚は遠ざかっていく。頭蓋を万力で締め付けられるかのような頭痛がそれに追い打ちをかけ、彼女から意識をもぎ取ろうとしていた。
先ほど部下たちへ指示を飛ばせたのは幸いだった。あと少しでも言うのが遅れていたら、きっと話している最中に異常を部下たちへ晒すことになっていただろう。
広範囲に及ぶ強力な魔法は例外なく、尋常ならざる量の魔力を消費する。魔力の欠乏はパイロットの脳を蝕み、酷い場合は全身の各所に影響が出るのだ。
「く、薬を……!」
呻吟しつつもシズルは【レリエル】に命じ、魔力補給薬を出すよう求めた。
『コア』は彼女の要求に応え、操縦席後部に備え付けられたアームを伸ばし、コックピット後部のラックから予め注射器に入れてある薬を取り出した。
スーツに覆われていない首元の血管に極細の針を刺し、注入する。
数分の間、激しい痛みをひたすら堪えていると、次第にその波も嘘のように引いていった。
気づかぬうちに垂れていた涎を手の甲で雑に拭い、薬と同じくアームに用意させたボトルの水を口に含む。そうして呼吸を整えたシズルは、緩慢な所作で操縦席に背中を預けた。
「……この感覚、いつになっても慣れないわね」
パイロットを使い潰すことなく最大限に有効活用する――その理念の下で開発されたのが、いま彼女が摂取した薬だ。投与すればほんの数分で脳へと魔力が巡り、再度の魔法の発動が可能となる。
これさえ使えば理論上は何度だって魔法を打てるようになるのだ。しかし、この薬は短期間のうちに自然回復では有り得ない量の魔力を無理に補充するものであるため、脳に多大な負荷をかける。使いすぎればその負荷に耐えられず、脳に何らかの後遺症を負うリスクもあった。
それを過剰に使ったあまりに脳の魔力を司る部位を損傷し、一生魔法の使えない身体となったパイロットをシズルは何人も見てきた。薬が登場した直後、副作用について明確な情報がまだ得られていなかった頃はそういう者が多かったのだ。
(薬は使えてあと二回……夜桜シズルというパイロットが生き残るためには、それ以上の無茶はできない。次のは『プラント』に入った後まで温存しなくちゃいけないわね)
毒島中佐の部隊が散開し、眠っている【異形】を片っ端から撃ち殺していく。
そんな中で黙考するシズルは、モニターに表示されている部隊の現在位置を確認し――画面の端で動かない【ラジエル】の挙動を怪訝に思った。
(月居少尉? 何があったの……?)
*
眠ったまま何もできない【異形】たちは、対【異形】ライフルを撃ち放つ【イェーガー】たちの手によって淡々と処理されていく。
その一方的な蹂躙ですらない何かを見つめるカナタは、言葉を失って立ち尽くしていた。
この感情が何なのか、彼には言語化できなかった。ただモヤモヤしたものがあると、抽象的なことしか答えられなかった。
ただ、モヤモヤの理由については彼自身も察してはいた。それが『レジスタンス』のパイロットとして抱えるに相応しくないものであることも、理解していた。
(彼らはどう思うだろう。僕と一緒にいてくれた見えざる彼は、僕らの行動に何を思うだろう)
戦わずに済めばそれが一番だというのは、人間側の都合でしかない。【異形】たちから見れば、抵抗する手段を奪った上での無慈悲な殺戮だ。
対話によって人と【異形】が共生していく未来を理想とするカナタにとって、それは決して望んだ形ではなかった。
「も、もし……もし、あなたたちがそこにいるなら、おっ教えてほしい。も、もし僕らとあなたたちの対話が実現するなら、そっ、それを受け入れますか!?」
あなたはそこにいますか。
見えざる者、知性ある者へと少年はメッセージを送った。渇いた喉を震わせ、強く強く念じる。
思いさえ通じれば打開策は見えると、ひたむきに信じて。
「ひ、ヒトと【異形】の果て無き戦いなんて、ぼっ僕は嫌なんだ。そ、そのために痛みを繰り返すなんて……互いに憎しみあうなんて、ぼ、僕は……!」
憎しみ、怒り、妬み、恨み。そういった負の感情を少年は思春期真っ只中に受けて育った。
その感情が心を傷つけ、損ない、決して消えない跡を刻み付けることを彼は知っている。その「悪意」の、「敵意」の一切がなくなってしまえばいいのに――そんな願望を抱いたことも何度だってある。
相手を理解すればその全てがなくなるとは無論彼も思ってはいない。
だが、「抑制する」ことは可能だ。互いを知り、互いにいがみ合わない距離の線引きはできるはずだ。どちらかが滅ぶまで争いを続けるのではなく、「上手く住み分ける」道を模索するのは不可能ではないとカナタは思う。
「あ、あなたたちの声を僕は聞きたい。あっ、あなたたちと対話する場がほしいんです。戦いに頼らない道を探るために……どうか」
聞こえてくるのは輸送機の車輪やプロペラの音と、シオンの部隊が打ち上げる銃の蛮声。それらの音に紛れて彼らの声が届いてきはしないか、そんな期待を胸に彼はその場に佇み続ける。
その時カナタが思い出していたのは、出立の前日に対話した『潜伏型』の【異形】の言葉だった。
『第二の世界』に埋められた「シード」は、理智ある【異形】の干渉の手段。それを放置することで彼らとの対話の可能性を残しなさい――。
「シード」が出現させた【異形】たちは、例外なくカナタたちを襲撃した。この先も、彼らと遭遇する度に激しい戦闘になることは避けられないだろう。
単に呼びかけるだけで応じるものがどれだけいるか。むしろ無視して牙を剥くものが大半なはずだ。それでも一抹の可能性にかけて、彼は切実に訴えた。
『痛い』
最初に聞こえたのは、か細い女性の声。
泣いている。それは何故か? たくさんの同胞が、殺されているからだ。
『いたい。イタイ。イタイ、イタイイタイイタイ――』
ひとりの声が引き金となったように、他の『潜伏型』たちも訴え始める。
連鎖し反響する声は、悲痛だった。思わず耳を塞いで逃げ去ってしまいたくなる少年だったが、歯を食いしばってその声を受け止める。
彼らにも心があるのだ。仲間の痛みに共感し、涙を流せるだけの心が。
自分が何もしてやれないのが歯痒くて仕方なかった。自分一人が対話を掲げたところで組織は動かせない。カナタは【機動天使】のパイロットであっても、所詮は一介の学生だ。経験も少なく、立場も弱く、多くの者からの人望もない――そんな自分が何を為せるのだろう、という無力感が込み上げてくる。
力さえあれば。
思わず口走ったその言葉に、彼自身が一番驚いていた。
優れた機体を有し、自分で言うのは少々憚られるがパイロットとしての天性の才もある。『獣の力』なる未知の異能も持っている。一体、これ以上何を望むのか。
「か、母さん……」
母親が縋るべき対象でないことを、カナタは『フラウロス』に思い知らされてしまった。
今の彼にとって母とは、単に「強者の象徴」として映っていた。
『パイモン』が彼女を女王と呼んだように、彼女は人の頂点に立っている。軍人としての総合的な能力はともかく、パイロットとして、科学者としては一流の女性だ。
脳裏に浮かぶ母親の背中に手を伸ばす。
彼女のようになりたい。何にも負けずに理想のために突き進める強さがほしい。そう乞い願う少年だったが――不意に入ってきたシオンからの通信に思考を中断せざるを得なくなった。
『カナタきゅん、さっきからずっとそこで動いてないけど、どうしたのー? 何か異常あった?』
「いっ、いえ……き、機体に問題はありません。すっ少し、ふらついただけで……」
『昨日倒れたのが響いてるのかもね。念のため空挺に戻って、休んでなよ』
すっかり板についた嘘で誤魔化し、彼女の言に従って空挺へと上昇していく。
いま自分がやるべきことは何か――挺へ帰投する間、少年はずっとそれだけを考えていた。
*
「第二師団から通信です! 明朝に『広島基地』を出立し関門海峡へと向かっている最中、大量の敵に阻まれ、本日中の海峡への到達が不可能となる見通しだそうです!」
『福岡プラント』を目指す行軍の道中で飛び込んできたその報せは、司令部の面々の士気を着実に削ぎ落とすには十分すぎるものであった。
第二師団には最強のパイロット・生駒センリや広範囲攻撃に優れる【イスラーフィール】や【メタトロン】がいる。多数の敵との戦闘には第一師団よりもずっと適しているはずだったが……聳え立つ「疲労」という壁に蹈鞴を踏んでしまっていた。
「向こうの犠牲者の数は? それ次第では、こちらから援軍を出すことも考えなくてはならないわ」
「夜桜大佐、気持ちは汲むがそれは難しい。俺たち第一師団も、決して余裕な状況ではないんだ」
何よりも人命を重視するシズルが真っ先にそう訊く中、ミツヒロは即座にそれを拒否した。
シズルの魔法がなくてはこちらもじわじわと戦力を削られ、いずれ第二師団と同じ窮状に追い込まれる。共倒れになる結果だけは避けねばならない、とミツヒロは確固とした口調で反駁を封じた。
「第一師団は変わらず『福岡プラント』への到達を目指す。そこで本日中に簡易的な拠点を設営し、明日以降の侵攻に備えるんだ。第二師団のためにしてやれることは、先に活動拠点を作っておくこと――それだけだ」
続けて彼が明示した行動指針に異論を唱える者はいなかった。
第二師団はもちろん助けたい。だが、そのために自陣の人員を減らし犠牲を増やすことは、第二師団の期待への裏切りだ。彼らは第一師団が先に道を開いてくれていると信じて進んでいるのだ。ならば、応えるのみ。
『御門少将、あたしの出番は? カナタが戻ってきたのよ、だったらあたしが代わりに出てもいいでしょ?』
「お前は俺たちの『切り札』だ。まだ出る時じゃない」
直後入ってきたマオからの通信に、ミツヒロは首を横に振って応答する。
超広範囲に及ぶ魔法を得手とするミツヒロやシズル、シオンは、その魔法を何度も使うことができない。しかし、マオは異なるのだ。彼女の魔法は比較的範囲が狭い分、一点にかかる火力が高く、それでいて連発可能。カナタの【ラジエル】と合わせて、出来ることなら確実に突破したい場面――想定されるのは第一級【異形】戦――まで温存しておきたい。
うずうずしつつも、その理屈を飲めないほどマオは愚かではなかった。「分かった」と頷き、引き続き【ラファエル】のコックピット内で待機する。
「……夜桜大佐にばかり負担はかけられない。次に奴らの軍勢が現れたら、俺がやる」
絶対に使命は果たしてみせる――その気概を胸に少将は決意を言葉にした。
レーダーに今のところ新手の【異形】の反応は見られない。だが、第二波が来るのは時間の問題だ。ここで人間たちを潰しに来ないほど、理智ある【異形】たちは甘くはない。
反逆の炎を掲げて彼らの侵攻は続く。
その目的地である『福岡プラント』に隣接された『福岡基地』には、徐々に近づきつつある人間たちを見つめる影があった。
金色の長い髪を揺らす、細身の人型のシルエット。ふわりと広がるエプロンドレスを風にはためかせるその者は、青い空を見上げてくすりと笑った。
「綺麗な空。澄んだ風の冷たい匂い。……ふふ、これって私たちへの祝福でしょうか?」
「さぁ、どうだかね。ただ確実なことを言うならば……そんな祝福を与える主など、どこにも存在しないということだ」
女の声に応えたのは青年の美声だった。
彼女の背後、戦車に座して現れた彼の名は、『ベリアル』。
『第二の世界』でカナタたちと交戦した理智ある【異形】は、遠目に『レジスタンス』の部隊を眺めて微笑んでいた。
「我々の『共同体』を築き上げてくれたこと、改めて感謝するよ参謀殿。これまで『個』でしかなかったワレワレ【異端者】が結託できたのは、全て貴女のおかげだ」
戦いを前にして感謝を述べる『ベリアル』に、その女は「いえいえ」と謙遜する。
「参謀」と呼ばれた彼女は魔神へ背中を向けたまま、滑らかな声色で言った。
「闘争の果てに何があるのか……私、それを確かめたかっただけなんです」




