第六十二話 拒絶と許容 ―Calm―
更衣室入口に置かれた大きめの自販機に似た装置に市民証をかざし、排出口から自分のスーツを受け取る。
カナタは殺菌処理を施されて新品同然の『アーマメントスーツ』を抱え、ミツヒロと二人で個室に入った。
鏡と小物置きだけがある簡素な個室で服を脱ごうとする少年だが、自分の身体のどこかにあの痣が出来ていないか気になってしまい、なかなか進まなかった。
「…………」
作戦の前日、自分は見えない靄のような【異形】と会話した。
この身体には『獣の力』が変わらず宿っており、最近ではなくなったものの『暴走』がいつ起きてもおかしくはない。
紛れもなくカナタは【異形】と密接に関わった人間で、過去には身体にその証が現れていたのだ。
「男同士だ、変に恥じらう必要もないだろう。それに入隊したらスーツ着用を互いに手伝うのは日常茶飯事だ。今から慣れておけ」
「す、すみません」
ミツヒロのほうも変に早口になってしまっている。
時間的にさっさと終わらせたいところだが、聞かねばならないことがある。しかし、訊ねたことで万一真実を少年に勘付かれたら、という危惧が彼をここに来て及び腰にさせていた。
「あ、あの……せっ、背中のチャックを閉めるのだけ手伝ってもらえればいいので……そ、その、あんまり見られると、こっ、困るというか……」
カナタがしどろもどろな口調で言うと、ミツヒロは彼に背を向けてくれた。
それを確かめてから下着を全て脱ぎ捨てた少年は、鏡に映る自分の全身をざっと眺める。以前に痣ができた首元にも、それ以外のところにも特に異常は見られない。
ほっと息を吐いて滑らかな手触りのスーツに足を通し、指先までぴったりと覆うそれを上半身まで着用して、カナタは言った。
「み、御門少将……き、着れました」
「そ、そうか。その――月居。君に聞きたいことがあるんだ。瀬那マナカのことなんだが……」
ミツヒロの声音が焦燥を孕んでいるのを感じ取って、カナタは首を傾げる。
真っ直ぐな茶色の瞳に射抜かれる少年は、そこにただならぬ雰囲気を感じつつ頷いた。
「……君が瀬那と仲がいいということは聞いている。その上で訊ねるが……瀬那マナカとはどういう人間なんだ?」
カナタにはミツヒロが何故そのようなことを聞くのか分からなかった。
言葉にし難い不安が胸のそこから込み上げてきて、彼は聞き返す。
「あ、あの……マナカさんのことで、何かあったんですか? かっ、彼女の事情を暴かなければならない何かが……?」
「い、いや、作戦とは関係ないんだ。これは俺の単純な興味――そう、ただの興味に過ぎない。だからあまり気を重くせず、率直に答えてくれればいい」
こういう言い方をすると、今度は別の方面で警戒されてしまうのではないかとミツヒロは言ってから気づいた。
が、幸いなことに恋愛に関しては極度の鈍感であるカナタは、「興味」というのを文字通り受け取って教えてくれた。
「ま、マナカさんは、本当に優しい人なんです。ぼ、僕が入学式の日に困っていたところを助けてくれたし、そっそれからも周りに馴染めない僕と一緒にいてくれたり……ま、真心に溢れた、素敵な女の子です」
ミツヒロの脳裏に蘇る昨日の少女の姿とは、どうも噛み合わない。
入学してから四ヶ月を共に過ごしたカナタの発言を疑うつもりは毛頭ないが、違和感は拭えなかった。
「そうか。……なら、大切にしろ。戦場で仲間を失う時など、予測できるものではないからな。共に生きる『今』は貴重だ」
上官としてそれっぽいことを言いながらも、ミツヒロの思考はカナタには向いていなかった。
カナタもそれは敏感に察していて、ミツヒロから背中のチャックを閉めてもらっている間も、実態を掴めない不安に苛まれるのだった。
*
ぴったりと身体に密着した『アーマメントスーツ』の感触を初めて味わったマオは、更衣室を出たところですれ違った男性兵士の視線に顔をしかめそうになった。
何でこんなに身体のラインが出るのよ、と内心で吐きつつ、「マナカ」として笑顔を取り繕う。
顔立ちはそれなりに整っている彼女に笑みを向けられ、鼻の下を伸ばす男性兵士。そんな彼から一刻も早く離れたいマオは、もはや小走りともいえる速度で廊下を歩いていったが――後ろから少年に呼ばれ、足を止めた。
「ま、マナカさん!」
「あ、カナタくん」
とりあえず呼び返し、マオは少年の顔をじっと見つめる。
マナカとして彼に接していた頃はほとんどの時間「眠って」いたマオがまずやるべきことは、月居カナタとの関わり方の模索だった。
【ラジエル】の意匠に合わせたのだろう白とグレーのスーツの少年。その体つきを無意識に眺め回してしまっている自分に気がついて、マオは心中で溜息を吐く。
「いよいよ初めての実戦だね。あーっ、なんか緊張してきたーっ」
「あは、ぼ、僕もだよ。で、でも……君と一緒なら、が、頑張れる気がする」
カナタは柔らかく笑って、隣を歩くマオの手を握った。
その所作のあまりの自然さ、躊躇いのなさに、マオは度肝を抜かれる。
肌と肌の接触。だがそこに醜い欲望はない。純粋な好意だけがそこにあって――しかし、それは「マオ」に対してのものではなかった。
「……っ」
やめて。あたしに触れないで。
そう言葉にすることもできず、鋭く息だけ漏らしてマオは少年の手を振りほどいた。
「ま、マナカさん? どっ、どうしたの?」
「あ……ご、ごめんね。そ、その……あの……」
演技は他人より上手いと自負してきたのに、この時に限ってマオは何も誤魔化せなかった。
カナタは首を傾げるだけで、それ以上深く追求してこない。その眼差しが何を思っているのかマオには理解できなくて、思わず目を逸らしてしまう。
(なんであたしを責めないの。あたしはあんたの接触を拒否したのに……あんたの思うとおりに動かなかったのに、なんで、何も言わないの)
大人の言いなりになるしかなかった少女は、相手の意思を尊重するカナタのような人を知らなかった。
自分の常識の範疇から外れた相手を前に戸惑うしかないマオは、「ごめん」と一言だけ呟いて歩調を早める。
「ま、待って、マナカさん。あ、あの……な、何か困ってること、つっ辛いことがあったなら、ぼ、僕を頼ってよ。こ、これでも君の……そ、その、か、かかっ彼氏……だから」
普段以上にどもりながらも少年は「マナカ」へ自分の思いを口にした。
マオは彼のほうを見もせずに、激しく首を横に振る。
優しさに絆されてはいけない。きっとその言葉の裏には黒い感情がある。そうに決まっている。誰も、信じられない。
マオは優しさを受け入れない。誰の助けも望まない。
何故なら――どれだけ願っても、彼女の前に「英雄」は現れなかったから。
屋敷の中に閉ざされて大人の玩具にされるしかなかった彼女を救う者は、どこにもいなかったのだから。
「あたし、もう行くから」
マオはマナカとは違うのだ。彼女のように少年の甘いマスクに騙されたりはしない。
それだけ言い残し、マオは格納庫に飛び込んでいった。
取り残されたカナタは呆然とそこに佇み、彼女からの初めての拒絶をどう受け止めるか迷っているようだった。
*
「ふぅ……大将、調子は上々です!」
ぺたぺたと旗艦のデッキを『アーマメントスーツ』姿で歩いている水無瀬ナギは、微風の吹くそこに立っている黒人の大将へ報告した。
彼のスーツは何故だか水に濡れていて、それを見たイーサン・トマス・ミラー大将は呆れ顔で肩をすくめた。
「水無瀬、君はまたそんな無茶を……」
「ふふ、水も滴る美少年とは僕のことですから――というのは冗談で。これでも【ガギエル】のパイロットですので、これから泳ぐ海の様子を確かめておきたかったんですよ」
冗談と言う割にその姿は他の女性士官の注目を集めているナギ。
ふふふ、と笑ってのたまう彼に対し、ミラー大将は仏頂面であった。
と、そんな二人の間に割って入ってきたのは、一人の長身の女性士官だった。
「全く、勝手に軍を出て勝手に戻ってくる者がいると思えば、今度は勝手に海に入る者まで……あなたたち二人には本当に頭を痛めさせられますね」
グレーの長髪に薄幸そうな雰囲気の顔立ちで、スレンダーなモデル体型の美女。
ミラー大将の副官を務める彼女の名は、グローリア・ルイス中佐といった。
「大将殿が大らか過ぎるから自由と奔放を履き違えた振る舞いをする者が増えるんですよ。海軍のトップに立つ者として、その点きちんと弁えて貰わないと困ります」
「わ、私が責められるのか……?」
「当たり前でしょう、下の者は上に立つ者を見て行動を決めるものなのですから」
グローリア中佐の小言にミラー大将は耳を痛くする。中佐が大将の副官となってから五年、こういったやり取りはもはや日常茶飯事となっていた。
「大将殿、あなたは司令室にお戻りください。いつ【異形】が海から現れてデッキに乗り上げてくるかも分からない状況なんですよ」
「だが、先ほどのサーチでは数キロ圏内には大型種も見られず、そこまで気にすることでも……」
「そういう姿勢が部下たちを奔放にさせてしまうのですよ、大将殿!」
語気を荒げるグローリア中佐にタジタジとなり、足早に艦内へ戻っていくミラー大将。
彼が扉を閉めるまでしっかりと見送ってから、グローリア中佐はナギに向き直った。
「水無瀬大尉。あなたの奔放な振る舞いは枚挙に暇がありません。一人で【ガギエル】を動かして海に出たり、スーツ姿で何度も泳いだり、海面の氷に穴を開けて『釣り堀』だとか言ったり……何があなたをそこまで駆り立てるのですか。去年まではそんなこともなかったはずでしょう?」
濡れた髪から雫を滴らせ、青年は俯いた。
もう十九歳になる彼のその姿が幼い子供のように映って、グローリア中佐は続けようとした言葉を詰まらせる。
「…………湊くんのことが原因なのですか。彼がいなくなったから、自制を促す身近な先輩がいなくなったから、そうなってしまったのですか」
青年の行動は、グローリア中佐にはヤケになっているかのように見えた。
ともすれば寂しさを誤魔化すように、危険も顧みず遊んでいるのだろうか、と。
顔を上げたナギは今にも泣き出しそうな表情で、緩やかに首を振った。
「残念ですね。それはちょっと、違います。僕は別に、いついなくなっても構わないと思ってるんです。僕には湊アオイっていう、僕よりもずっと凄い先輩がいる。皆だってきっと、僕なんかよりも先輩が【ガギエル】に乗るのを望んでる。そう思うと……危険な行動も、不思議と怖くなくなるんです」
代わりがいるから、死んだって構わない。ゆえに刹那的な快楽を優先する。他の誰もやらないような危ない遊びに手を出す。
海に潜っては笑って戻ってくる青年は、死の淵を歩くことさえも楽しんでいるのだ。その欲求は自分なんかどうなってもいいと思える心がないと、湧き得ないものだ。
「水無瀬大尉……いえ、ナギくん、と敢えて呼びましょう。私は、組織内でも数少ない海軍の兵一人ひとりのことを気にかけ続けていました。私は年長者として、若い兵たちの母や姉のような役割でいたかった。しかし……出世して仕事に忙殺されることで、そうすることもできなくなってしまいました。
ナギくん。他の誰かがあなたを贔屓で選ばれたパイロットだと揶揄しようとも――少なくとも私はあなたの本当の実力を知っているし、大切な人だと思っています。それだけは忘れないで」
グローリア中佐はナギの肩をそっと抱いて、額と額を突き合わせた。
彼女は生まれつき不妊体質で、子を育てたことがない。それでも「育てたい」と願って、部下たちに対しては等しく親身に寄り添ってきた。
ミラー大将の副官に抜擢されてからはそれも半ば叶わなくなりつつあったが、彼女のあり方は変わっていない。
そっと青年の額に口づけし、グローリア中佐は彼の頭を慈しむように撫でてやった。
「そろそろ任務の時間です。できることならもう少しだけあなたと話していたいところでしたが……」
「……あの、ルイス中佐」
名残惜しそうにナギから身体を離し、艦内へ引き返していこうとする中佐をナギは呼び止めた。
彼は自分の額についた紅を指先で拭って、くすっと笑う。
「こういうの、気をつけてくださいよ。僕は美少年ですから、こんなの見つかったら他の女の子たちがうるさいです」
頬を仄かに赤らめるグローリア中佐。長らく恋愛とは距離を置いていた彼女は、そういう台詞に対する反応の仕方が分からずにしどろもどろになっていた。
「そ、そういう意味ではなかったのですよ? ただ親愛の情を込めただけで、何も他意は……」
「あははっ、中佐、案外かわいいところあるんですね」
「な、何を言うのですか!? からかうのはおやめなさい、水無瀬大尉!」
肩を揺らして笑いながら、ナギは中佐を追い抜いて艦内へ戻っていった。
その場に残されたグローリアは奇妙にドキドキする胸を押さえ、凪いだ海をぼうっと見つめる。
(ナギくん、私の言葉で元気になってくれたら良いのですが)
【異形】との戦いの時代は、彼らのような若い者も容赦なく戦場に追い立てる。
その潮流の中で自分たち大人は何を果たすべきか――自分なりに模索しながら、グローリアやミラーは戦い続けてきた。
一つの局面を乗り越えれば、次なる敵がまたやってくる。寄せては引いてを繰り返す波のように、それは決して収まることはない。
「陸・海・空軍、全ての兵たちに、勝利という祝福を」
途絶えない祈りが兵たちを支えると信じて、グローリアは空を仰いだ。
行く先は渡り鳥たちが悠然と向かう関門海峡。
戦いは間もなく、幕を開ける。




