第六十話 月影の少女 ―Nemesis―
自分なんか消えてなくなってしまえばいい。
誰にも愛されず、誰にも本当の自分を見てもらえず、ただ大人の道具でいる自分など必要ない。
鬱屈した感情を抱え続けた少女の心の中には、いつしかもう一人の「私」が生まれていた。
暗く地味な彼女とは真逆の、快活で誰からも人気になるような「私」。
当時テレビで見ていた憧れのアイドルの名を取って、彼女は新たな自分に「マナカ」と名付けた。
『はじめまして、瀬那マナカです』
そう名乗った時の校長先生の表情は、実に珍妙なものだった。
ともすれば幽霊でも見たような、そんな感じがおかしくて笑ってしまったくらいだ。
瀬那マサオミ文部科学相の娘である瀬那マオ改め、マナカ。
彼女が改名を申し出た時、父は特に拒みもしなかった。彼は娘に愛着などなかったのだ。
両親は共に政治家で、いわゆる政略結婚だった。それでも最初は夫婦らしく愛し合おうとしていたが、政治の都合で付き合ったに過ぎない二人の気持ちは長続きしなかった。父も母もよそで愛人を作り、娘が待つ屋敷に戻ることも殆どなくなった。
そんな一人ぼっちのマオが初めて父に自発的にした「お願い」が、学園入学にあたっての改名だった。
瀬那マナカは皆から愛される人物だ。
瀬那マナカは誰にも認められる輝かしい人物でなければならない。
瀬那マナカにはそう――理想が必要なのだ。偶像や、英雄、そういう名声がなくてはならないのだ。
だから、彼女は人のために平和を目指そうと決めた。
理想を遂げた暁には、マナカの名前が皆の心の真ん中にあるのだと信じて。
その理想に一人でたどり着けるとは、彼女も最初から思っていなかった。
人気者には得てして仲間がいる。そのため当然マナカは協力者を得られるのだと疑いもしなかった。
どうせ仲間にするなら優れた人間がいい。そこで彼女が選んだのが、自分と同い年であるという月居カナタという少年だった。司令の息子という肩書きは輝かしく、彼女の側にいるのに相応しい――理由としてはそんなところだった。
元ひきこもりで人間不信ぎみ、吃音でコミュニケーションにも難有り。調べた限りの情報では使い物にならないのではという不安があったが、入学式のエキシビションマッチで彼の操縦を目の当たりにして、マナカは確信した。
――彼は使える、と。
その後、すぐに声をかけた。運のいいことに彼は柄の悪い生徒に絡まれていて、助け出すことで良い第一印象を与えることができた。
彼を『寂滅の池』に連れて行ったのは、「マオ」がその場所を好きだったから。マオはそこに足を運ぶたびに、死ぬときはこの底で眠りたいと呟いていた。
『君はここで眠ってて。瀬那マナカが皆に認められるまで……』
少年と契約を結んだその日、マナカはマオに長い眠りを贈った。
それからのカナタとの関係は、打算ありきのものになると当初は思っていた。
しかし、彼の心を開くため好意的に振舞ううちに、本当に好きになってしまっている自分に気がついた。
どうせ一方的な恋になる――そんな諦念に駆られても、彼女は好意を捨てられなかった。
「マオ」だった頃は希望も何もなかった。だが今は「マナカ」なのだ。十六歳の等身大の女の子として、素敵な男の子と恋をしてもいいはずだ。
過去の抑圧から解放されたマナカは、わがままになった。
自分の気持ちを否定するのを止めるだけで心がすっと軽くなるということを、彼女は初めて知った。
それからの日々は幸せだった。
カナタだけでなくクラスの友達がたくさんできた。カナタとの距離感が段々近づいてきているレイには複雑な感情を抱きもしたが、それも含めて「恋」している感じがして楽しかった。
厳しい戦いも彼らと一緒だったから乗り越えられた。自分たちならどこにでも行ける、理想もいつか必ず遂げられる。戦場に出るたびにそういった高揚感が胸を支配した。
だが――運命は決して甘くはなかった。
マナカから始まった理想は彼女を中心としてクラスの皆を巻き込むはずだったのに、いつしかクラスの中心はレイやカナタにすげ変わっていた。
面白くない。もっと私を見て。もっと私に構って。何でみんなカナタやレイの話ばかりするの、何でみんな二人ばかり好きになるの――。
カナタの純粋さは皆の心を惹きつけた。レイの真面目さは皆の意識を引き締め、結束を生んだ。今や彼らこそがクラスの太陽で、マナカは彼らがいない時にしか輝けない月に過ぎない。
クラスメイトたちにとって、マナカは所詮「仲間の一人」でしかないのだ。アイドルでもヒーローでもない、いわゆる「モブ」に彼女は成り下がった。
密かに膨れ上がり続けた嫉妬心は、次第に抑えきれなくなった。
それは『同化現象』という形で現れ、マナカの人格を振り回し始めた。
そして彼女が心の均衡を崩しだすにつれて、眠らせていたはずの「マオ」が時おり彼女に話しかけてくるようになった。
『あんたばかりがいい思いをしてる。あたしはずっと苦しみ続けているのに。あんただけが笑って、恋をして、普通の女の子らしく生きてるなんて――』
怨嗟の声が頭の中に浮かんでは消えていく。
肉体を支配する主人格であるマナカの立場を脅かすほどに、「マオ」は静かに燃える黒い炎にさらなる燃料を注ぎ込んでいた。
そしてそれと並行して、彼女の中に「三人目」が顔を覗かせる。
『ぼくと遊ぼうよ。昔みたいに、一緒にさ。ぼく、ずっと待ってたんだよ? 誰も帰ってこないお屋敷で』
その声の主との記憶は、マナカだけにとっての忌まわしいものだった。
これを肯定すれば「マオ」の過去を認めることになる。「マオ」の否定から生まれたマナカの価値が、失せる。
主人格として生き残るため、マナカは懸命にその「三人目」の声に抗った。
マオと「三人目」との心の主導権を巡る争いは、日々絶えず続いた。その過程で彼女の精神が摩耗し、引き裂かれる寸前まで追い詰められていたのは言うまでもない。
カナタら周囲の人たちにそれを悟らせなかったのは、マナカのせめてもの意地だった。
恋慕する少年に告白した夜、マナカは彼と体を溶け合わせた。
好きな人とする行為はこんなにも幸せで心地よいのか――思わず涙をこぼして少年を少し戸惑わせてしまったほど、その喜びは筆舌に尽くしがたいものだった。
『あんたが初心な彼をリードしてやれたのも、あたしの経験があったから。あたしがいなきゃあんたは生まれもしなかったくせに……自分だけ気持ちよくなろうだなんて、ふざけないで』
父の道具として汚い政治家どもの玩具になった過去。強要された行為が叩き込んだ、男の喜ばせ方。それを利用して恋人との行為に溺れようというマナカを、「マオ」は決して許しはしなかった。
心の安定を求めて少年との行為に及んだマナカだったが、それは却って「マオ」の怒りを刺激するだけだった。
『許さない。許さない。許さない。それはあたしの過去を侮辱する行為だ。尊厳を踏みにじられたあたしから、あんたは自分に都合のいい部分だけを勝手に抽出した。その記憶は「マオ」だけのものだったのに――好きな男のために使い、自分だけいい思いをした』
自分を苦痛から遠ざけるために「マナカ」を生んだ「マオ」は、気づけば「マナカ」を激しく憎悪していた。
「マオ」にとって「マナカ」は簒奪者。自分が得られるかもしれなかった未来を奪った傲慢な女。
そこに他者への慈愛はなく、あるのは自愛だけ。カナタを好きになったのも単なる逃避、彼はあんたのお飾りだ――「マオ」はそう痛烈に「マナカ」を批判する。
際限なく増幅する恨みは、マナカの心を蝕んでいく。
ほの暗い感情を腹の底で沸々と煮えたぎらせながら、「マオ」は目覚めの時を待っていた。
*
カナタやアキラのいる搭乗席から離れた、空挺後部のSAM格納庫。
そこへ早足に向かうマナカは、ふと廊下で上官と鉢合わせた。
ふわっとした金髪の天然パーマが性格の無愛想さを幾分か打ち消している青年、御門ミツヒロ少将である。
「どこに行くんだ、瀬那? お前にはまだ何の命令も出ていないはずだが」
「少し、SAMに触れていたくて……操縦席に座るだけでもいいんです、許可をいただけませんか?」
「ここは学園じゃない、軍隊の中だ。そしてお前は『指示があるまで何もするな』と命令されている。そのくらい、分かるだろ」
――気に入らない。
彼女の中の「マオ」の苛立ちが、舌打ちとなって表出した。
途端にミツヒロの表情が凍りつく。予想もしていなかった少女の態度に、彼は怒るよりも先に狼狽えてしまった。
「……俺は少将だぞ、瀬那」
少しの間を置いてから発されたミツヒロの言葉に、マオはくすりと笑う。
瀬那マナカの愛らしい笑顔の仮面の下で、彼女はどす黒い感情を沸き立たせていた。
「ねぇ、ミツヒロおぼっちゃま。あんたのお父様の不祥事、あたし、知ってるんだからね?」
「何を言っている?」
その問いに動揺は見られなかった。彼は本当に何も知らなくて、それでいて父が問題を起こすわけもないと信じきっているのだろう。
くすくすくすくす。
マオのせせら笑いは止まらない。純朴に肉親を信用する彼の心を、自分の言葉で汚してしまえる。綺麗なものを壊せる。その行為は彼女にとって甘美な蜜を啜ることに等しかった。
「あなたのお父様、本当にセックスが下手くそな人だったよ。そのくせ、あたしのことを気色悪い目でジロジロ見て、あたしがよがってる演技にも気づかずに一人で猿みたいに楽しんじゃってんの。確か……もう五年も前のことだったかな?」
五年前のマオは十一歳。父の商品として売られた幼いマナカを御門氏が買ってしまった事実が明るみになれば、彼は社会から確実に抹殺される。
「嘘をつくな。親父が、そんな不埒な真似をするはずがない! 前内閣総理大臣の御門セイジロウは、清廉潔白な名士なんだ!」
「調べればすぐに分かることだよ。あたしの父、あたしのことを撮って後で楽しむ変態だったから」
前総理の顔がはっきりと映った映像。証拠としてこの上ないものがあるのだと告げて、マオは顔を歪めるミツヒロの横を通り過ぎざまに囁きかけた。
「お父様の不祥事がバレればあんたの組織内での肩身も狭くなる。……知ってるんだからね? あんたがコネで今の地位まで上り詰めたこと。優れた機体スペックで誤魔化してるだけで、実際は【七天使】の中でも実力は下位ってことも」
失脚させるのはそう難しくない、とマオは脅す。
立ち尽くし絶句するミツヒロに微笑みかけ、彼女は言った。
「だから、ね……あたしのこと、見逃して?」
ミツヒロは何も言い返さなかった。
それを了承と受け取ったマオは、先程よりも軽い足取りでSAM格納庫へ向かっていく。
青年の苦渋を滲ませる顔は本当におかしかった。勇敢で誠実な御門ミツヒロという男も、結局は保身を選択するだけの狐に過ぎなかったのだ。
地位にしがみつくその姿は、マオが嫌う父やたくさんの大人たちと同じだった。
――嗚呼、嫌い。嫌い。大っ嫌い。
今まではそう思うだけで何もできなかった。
少女の手に武器はなく、彼女は大人たちにいいように使われるだけの道具に甘んじていた。
だが、現在は異なる。
SAMという力と、『獣の力』――この二つさえあれば、もう誰もマオを虐げられない。
「ねぇ、チュウヤ。あたし、あんたと手を組んでやってもいいよ。いい子ちゃんのマナカなんてもう要らないの。一緒に彼女を消してくれない?」
『消すだなんて、お姉ちゃんは物騒なことを言うねー』
「あたしが生んだ人格だもの。消す自由もあたしにある、そうでしょ?」
『あは、まぁそうだね。協力する代わりに「肉体」を借りるけど、それでも構わない?』
心の中に潜む「チュウヤ」と名付けられた男の子の人格と彼女は会話する。
享楽的に弾む口調で訊いてくる彼に、マオは頷いた。
「既に好き勝手汚された身体だもの。いいよ、好きにしちゃって」
『ダメ、そんなこと――』
「黙っててよ、偽物! あんたは十分いい思いしたでしょ!? 引っ込んででよ!」
浮上してきたマナカの人格を、強い言葉で再び沈める。
マオの闇がその反抗の意思を包み固め、かつて『寂滅の池』で彼女がそうされたようにマナカを封じ込めた。
地上を知り、理想を遂げる困難さに直面したマナカの精神力は綻びをみせていた。そこにつけ込む形でマオはこの日、再誕した。
「ふふ――まずは機体を知らないとね。あんたの玩具、あたしのものにしてあげる」




