第五十二話 溶け合うふたり ―I'd like to engrave "loving" on my memory.―
その夜、マナカがカナタを連れて訪れたのは、都市南西の外縁部にある温泉宿であった。
地下に作られた都市の果て。モノレールを乗り継いで人の往来も少ない穴場にある静かな宿の前まで来て、「ここだよ」とマナカは笑顔で言う。
かつて両親と三人で訪れた、知る人ぞ知る秘湯がここだった。心を寄せる人と思い出の場所に来られたことが無性に嬉しくて、マナカの声音は自然と弾んだ。
「温泉入って美味しいもの食べてリラックスする! 最高の休暇の過ごし方だと思わない?」
「た、確かにそうだね。お、温泉はともかく、食堂のメニューは日替わりとはいえ大体似通った感じだし」
「うふふ、ここなら珍しい海の幸とか食べれるんだよー。お値段はちょっと割高だけど、それに見合うだけの味だってことは保証する!」
少年の背中を押して宿に入っていくマナカ。
受付で手続きを済ませてから指定の部屋に足を運んだ二人は、畳敷きの和室を物珍しそうに眺めながら、とりあえず荷物を床に下ろした。
「ふぅ……ここまで来るのに意外と時間かかっちゃったねー。改めて今日は付き合ってくれてありがと、カナタくん。夕食はすぐに運ばれてくるはずだから、それまで適当に座っててよ」
「う、うん。……あ、レイに連絡するの忘れてた。か、彼、僕の帰り遅いとうるさいからなぁ……」
私と一緒にいる時はレイの話をやめてほしい――とは、マナカには言えなかった。
自分の感情に揺り動かされたままでは『コア』との『同化』は遅らせられない。少しでも意思を強く持たなければ、心の内のそれに飲み込まれてしまう。
ミユキは「反抗せず受け入れろ」と言ったが、マナカにはそうするつもりはなかった。確かに全てを委ねれば辛くなくなる。だがその結果、自分の心が失われることが早まっては意味がない。
「あはは、レイ先生、門限には厳しそうだもんね」
「んー、そうなんだよね。じ、自分は遅くまで訓練ばっかしてたくせにね」
スマホを弄りながら何てことない口調で言ってくるカナタ。
胸に手を当てて繕った笑みを浮かべ、マナカは気晴らしに鼻歌を歌いだした。
「……そ、その曲、僕らが連弾した時の……」
「あっ、分かった? あの時すごく楽しかったよね。私とカナタくんが一緒に弾いて、早乙女くんが側で聴いていて……音楽を通じて君に近づけた気がして、嬉しかった。また、弾けるといいなぁ」
「ひ、弾けるよ。また僕の部屋に来れば、いつだって」
また、いつだって。その言葉が少女の胸の中で反響する。
カナタの口ぶりからして、彼はマナカの時間が残りわずかだということに気づいていないのだろう。
『同化』が進んでいるとはいえ、最近のマナカは司令の講義があった頃と比べて落ち着いてきている。それは単に進行の「波」が下振れただけでしかないのだが、カナタは好転したと捉えているようだった。
『同化』についてはクラスメイトにも話していない。知っているのはカナタとレイ、ユイだけで、自分から言ったわけではなく、『同化現象』の知識を持つ彼らが勝手に察しただけだ。
「そう、だよね。いつでも……いつだって、一緒に弾けるよね」
広い草原を駆けていくような、大海原へと飛び出していくような、蒼穹を思うがままに翔けていくような、作者未詳のピアノ曲。
その爽やかかつ勇壮なメロディを、二人で口ずさむ。
並べた座布団に座って、肩を預け合って――そうしているうちに、仲居さんが夕食を運びに来た。
「わ、わあ、美味しそう!」
膳の上に乗せられている海鮮定食を眺めてカナタは目を輝かせた。
マグロやサーモン、タコ等の刺身にご飯、汁物、漬物の小鉢、エビや野菜の天ぷらといった滅多に食べられないメニューは垂涎ものだ。
こういう海の幸が食べられるのも、『レジスタンス』海軍が領海を守ってくれているからだ。【ガギエル】パイロットの水無瀬ナギ他、兵士たちに感謝しつつ、二人は貴重な料理を食べ始める。
「ぼ、僕、こんなの初めて食べるよ。こ、この白いの何ていうの?」
「それはイカっていって、触手が十本生えてて墨を吐く軟体動物だよー。可食部はその触手で……」
「う、しょ、触手って言われるとなんか食べる気なくすなぁ……」
どうやらカナタは先日の『ベリアル』戦で敵が出した魔手を思い出してしまったらしい。
しくじったかと冷や汗を流すマナカは、どうにか立て直そうと試みる。
「大丈夫、美味しいから! ほらほら食べて食べて!」
「う、うん、いただきま――んぐっ!?」
「あ、よ、よく噛まないと!? え、えっと、とにかく水、水飲んで!」
慌てて食べたせいで喉に詰まらせかけるカナタ。
何とか事なきを得たものの、「これは確実にやらかした……!」とマナカは内心で猛反省した。
「ど、どうしたの、マナカさん? ぼ、僕なら大丈夫だから、一緒に食べよ?」
(いい子だっ! ほんっとうにいい子だ……!)
「……? マナカさん?」
目の前にいる男の子がいい人過ぎてマナカは泣けてきた。こんな自分が一緒にいることが申し訳なくなるくらいだった。誇張とか一切なしに本気で彼女はそう思った。
その様子に少年は一層戸惑ってしまうが、彼女の目は変に潤んで見えていない。
「ご、ごめん、何でもないから。ちょっと、目にゴミが……」
「そ、そうだったの。あ、じゃあ目薬貸してあげよっか? 目が傷ついたらケアも必要だしね」
「本当によくできた子だなぁ君は……!」
そんなこんなで二人は夕食を食べ終わった。
そうなると次にやることは一つ、温泉に入るわけだが――覚悟を決めてきたはずなのに、マナカは急に恥ずかしくなってしまう。
「こ、この部屋、備え付けの露天風呂あるんだけど……か、カナタくんさえよければ、一緒に入ってくれると嬉しいな」
空を仰げば夏の星々が一望できる露天風呂。
熱い湯に浸かってうーんと足を伸ばしたマナカは、少し離れたところで肩まで浸かっているカナタをちらりと見た。
一緒に入ったはいいものの、何だか恥ずかしくてあまり喋れていない。
背中でも流そうか? ――なんて言うこともできずにお互いそそくさと身体を洗い、タオルを身体に巻いて湯船に入った次第である。
「ほ、星が綺麗だね」
「……うん」
手足の先までじんわりと温まっていくのを感じながら、マナカはカナタの呟きに相槌を打った。
都市の空を彩る巨大スクリーンが描き出す、星空。天然ではなく人が作ったものに過ぎないが、そこには地上を望む人たちの希望があった。
「い、いつか、地上に出たら、本物の星空を見たいな。ぼ、僕とマナカさんと、レイと、他の皆とも一緒に。き、きっと本物はもっと綺麗なんだろうな」
「多分、そうだよ。何光年もの時間を超えて、私たちの所まで来てくれた光だもん。綺麗に決まってるよ」
卒業した後の、未来の話。
自分の運命は受け入れている。それでも、どうしても涙が滲んだ。
声を震わせてしまうマナカにカナタは近づいて、「ど、どうしたの?」と彼女の顔を覗き込む。
「何でもないよ。心配しないで、大したことないから。『同化』の影響で、少し涙もろくなってるだけだから」
俯くマナカの顎にそっと指を添えて、少年は彼女の顔を上向けさせた。
伸ばした指先で彼女の涙を拭ってやった彼は、優しく微笑んで言う。
「ま、マナカさん。わ、笑って?」
――嗚呼、ダメだ。
そういう台詞は今のマナカにとって、逆効果だ。
熱いものが胸の奥底から込み上げてきて、喉を震わせる。漏れ出る嗚咽を抑えきれない彼女は、口元に手を当てて、それでも精一杯笑おうとした。
「好きだよ、カナタくん」
涙で濡れている上に、無理やり笑みを作ったせいで顔はくしゃくしゃになっている。
きっとみっともない顔だ。自分が鏡で見たら卒倒するに違いない。
だが――自然と、言葉が口から出ていた。感情が胸の中で叫んでいた。その訴えに逆らうことは、マナカにはできるわけもなかった。
視界が滲んで少年の表情は見えない。
彼は、何と思っただろう。マナカの告白をどう受け止めただろう。気になったが、その答えはどうでもいいとさえマナカには思えた。
最後の時を迎える前に、自分の気持ちを伝えられた。一日限りだったけれど、ショッピングや映画、ランチ、カラオケと色々楽しめた。こうして宿で美味しいものを食べて、温泉にも一緒に入れた。
これだけできれば、十分だ。悔いはない。あとは理想のために戦って、その時を待つだけ。
「あ、あの……マナカさん。ぼ、僕ね……ずっと、分からなかったんだ」
カナタは話し始める。
彼の答えは、彼の顔をしっかり見て聞きたい。マナカは目元をごしごしと擦って、赤く腫れた目でカナタを見つめた。
「み、みんなで遊園地に行ったあの日、ぼ、僕は君に不思議な感覚を抱いたんだ。き、君の寝顔を見た時、なっ、何だかいつものマナカさんとは違って見えた。そ、その時胸に湧き出た気持ちの意味も、分からなかった」
『見えざる者』はカナタに色々な本を読み聞かせてくれたが、その中に恋の話はなかった。彼が好きなロボットアニメには恋愛シーンもそれなりにありはしたが、年の割に精神が幼い彼にはそれがピンときていなかった。
思春期になってから引きこもり始めた彼に色恋を知る機会などなく、今までを過ごしてきたわけだが――マナカに真っ直ぐな気持ちをぶつけられて、これまでカナタと共に戦い、同じ時間を共有したことを思い返して、そして理解した。
「で、でも……今なら分かる。ぼ、僕にとって君は、特別な人なんだって。き、君は僕を入学式の日に助けてくれた。せ、世界の現状を教えてくれた。たっ戦う目的を与えてくれた。ひ、一人だった僕と一緒にいてくれた。一緒に勉強してくれた。一緒に戦ってくれた。く、クラスの皆と僕を、繋いでくれた。――僕が人間だって、言ってくれた。
き、君を失いたくないって思う。君を守りたいって思う。き、君にずっと側にいてほしいって、心から思う。この気持ちは多分……『好き』ってことなんだ」
マナカの言葉があったから、カナタは今こうして前を向いて進んでいけている。
彼女は道しるべだ。行く宛もなかった彼を導いた、夜空の一等星なのだ。
マナカが想いを伝えてくれたのなら、カナタも同じように自分の気持ちに正直になりたい。
そう考えて、拙いながらも言葉を紡いだ。
「ありがとう、カナタくん。……ねえ、キス、していい?」
自分を好きになってくれた彼に感謝を捧げ、それからマナカは少しのわがままを言った。
少年は穏やかに笑って、頷く。
マナカは彼の手にそっと手を重ね、身を寄せて、唇同士を触れ合わせた。
少しかさついた彼の唇。柔らかくて瑞々しい彼女の唇。
頬がどうしても上気してしまうのは、湯船に長いこと浸かっているからに違いない。鼓動がどうしても速まってしまうのは、きっと、緊張しているせいだ。
「カナタくん、唇はケアしたほうがいいよ。今後、私のリップクリーム貸してあげる」
「そ、そうかな……あ、ありがとう」
「えへへ、何だかおかしい。天才パイロットも美容に関してはまだまだだね」
「あはは……ぼ、僕、SAM以外に関してはからきしだから……」
眉を下げて空笑いするカナタ。そんな彼に大真面目な顔で、マナカは言ってあげた。
「そんなこともないよ。ピアノだって上手だし、座学のほうも毎回いい点取ってるじゃない。知ってるんだよ、中間も期末も、テストの成績トップスリーは君と早乙女くん、ユキエちゃんが独占してたこと」
「そ、そうだったの?」
「なぁに、知らなかったの? 私なんて成績気にして毎日勉強頑張ってたのに」
「あ、ご、ごめん、そういうつもりじゃ……」
「いいよ、気にしてない。君のそういうところ、嫌いじゃないし」
肩を揺らして少女は笑う。
その弾みで彼女の胸元を隠していたタオルがはらりと捲れ落ち、小ぶりながらも形のいい乳房が露になって、少年は顔を林檎のように紅潮させた。
「ま、マナカさんっ、む、胸……」
「いいじゃない、暑いし。ね……もう一回、キスして」
今度は答えを待たずにマナカは少年へ口付けした。
先程よりも長い時間をかけて、口内で舌と唾液を絡めあう、大人のキス。
それから唇を離し、胸に触れて高まる鼓動を確かめながら、マナカは囁いた。
「ねえ、カナタくん……続き、部屋に戻ってしよう?」
*
畳の床に敷いた布団の中で、マナカは少年の裸の胸元に顔をうずめていた。
彼女の心中では、このまま寝落ちしてしまいたい気持ちとまだカナタと話していたい気持ちとがせめぎ合っている。
欠伸を噛み殺して後者を選択したマナカは、少年の胸板に顔をすり寄せて言った。
「君と繋がれて……本当に、嬉しかった。ありがとう、カナタくん」
「う、うん。ぼ、僕も同じ気持ちだよ。何だか色々リードしてもらっちゃったのは、少し申し訳ないけど」
「もぉ、そんくらいで謝んないの。初めてなんだもん、しょうがないじゃん」
行為後の気だるさも今は不思議と心地よい。
マナカの言葉にカナタはつい「ご、ごめ――」と言いかけ、慌てて口を手で押さえた。
上目遣いにカナタを見つめ、手を伸ばして汗ばんだ前髪を払ってあげたマナカは、彼の澄んだ青い瞳にしばし見蕩れた。
「綺麗……ミユキさんじゃないけど、王子様みたいだね」
「お、大袈裟だよ。あ、あの人、変に誇張していうところあるし」
「あ、ミユキさんといえば……彼女のこと、言い忘れてた」
このデートのそもそもの発端は『フラウロス』戦後のミユキの発言によるものである。
カナタとミユキが決闘した際に言いそびれたことを彼女はマナカに言っており、デートの日にそれをカナタへ教えてやるよう指示していたのだ。
「み、ミユキさんのこと?」
「――彼女も私と同じように『同化現象』が進んでて、しかも『レジスタンス』による人工的な『同化』の実験の被験者だったんだって」
カナタは瞠目すると同時に、これまでのミユキの振る舞いに合点がいくところもあった。
彼女がカグヤについて嗅ぎまわっていたのは、その『レジスタンス』の実験に関して調べる目的もあったのかもしれない。学園にいながら『レジスタンス』の情報を得るために司令の息子であるカナタに接触したと考えれば、ある程度は納得できる。
「……じ、人工的な同化……。な、何度か行われた無人機の開発に失敗していたことは知ってたけど、そんなものまで……」
無人機の代替として『同化』した者を利用する。カグヤならば発案してもおかしくはないことだ。
カナタとしては、本人の意志を尊重した上で行われているのなら許容できる。だが、もし個人の意志を無視して強制的に行われていたら、止めねばならない。
どちらにせよ、その実験について知るミユキに聞かなくては真相は分からない。
明日にでも会って聞こうと決めて、それからカナタはマナカへ訊ねた。
「き、君はどう思う?」
「……多分、君と同じ。無理やりやってることなら許せないけど、そうじゃないならいいかなって感じ」
彼女の考えを確認して、カナタは頷いた。
マナカの赤みがかった茶髪を梳くように撫でる少年は、ふと、彼女のうなじに浮き出た痣に気づいて目を見張る。
(これって――あの記憶の……!?)
見間違えるわけがない。この首元に浮き出たひし形の痣は、『見えざる者』がカナタに残したそれと同じだ。
瀬那マナカの体内には【異形】が潜んでおり、それが試験の日の飛躍的な能力向上をもたらしたのか――?
(なんで、なんでマナカさんに。彼女の身体はただでさえ、『コア』との『同化』に蝕まれているのに……【異形】まで心に宿してしまったとしたら、三つの人格が脳内にいるのと同じだ。それがせめぎ合い、身体の主導権を握ろうとすれば――心が磨り減って、マナカさんの人格は……!)
どうすればいい。どうすれば彼女を救える?
彼女は人として、人類のための希望を掲げているのに――取り付いた【異形】が『見えざる者』のように人に友好的でなかった場合、その希望も闇に葬られるだけだ。
「ま、マナカさん、ごめん!」
少女のうなじの痣めがけて少年は犬歯を突き立てる。
鋭く押し殺した悲鳴がマナカの喉から漏れ出るが、構わずにカグヤが過去にカナタにしたように噛み付き続けた。
「なっ、何するの、カナタくん!?」
その声は明らかに怯えていて、それでカナタは我に帰る。
痣から口を離し、唾液が糸を引くそこを凝視するが――刻印は消えていなかった。
身体を起こして自分を見つめてくる眼差しを、少年は見つめ返すことができなかった。
「そ、その……き、君のうなじを見ていたら、こ、興奮、しちゃって……ほ、本当に、ごめん……」
「それ、本心じゃないよね? 今のカナタくん、様子が普通じゃなかった。ねえ、理由があるなら話してよ。何も責めないから、お願――」
マナカの身体を抱き寄せて、唇で口を塞いだ。
話せない。話せるわけがない。知らないほうが彼女は幸せに生きられる。自分が【異形】なのかもしれないという悩みや苦しみは、アイデンティティが根本から揺るがされる辛さは、彼女に抱えてほしくない。そんなものカナタだけで十分だ。
強引に乳房を掴み、押し倒す。今の噛み付きはあくまで暴力的な行為の一環なのだと思わせるために、彼は無心で獣を演じた。




