第四十八話 無為の炎 ―Devil of number sixty-eight of rank―
赤い炎の中から、瓦礫を踏み潰して曳かれる車輪の音がする。
それをかき消さんとする勢いで放たれるのは、狼たちの咆哮だ。
揺らめく火焔を突っ切って少年少女たちの前に現れたのは、人の顔を持つ美しい魔神だった。
『ご機嫌よう、ヒトの子らよ。ワタシがワレワレの子供たちに授けた智慧……それが齎す力、体感して頂けただろうか』
体高二メートルはある巨大な狼が曳く戦車に乗り、その座席で足を組んで微笑している美青年。
肌は青白く到底ヒトのそれとは言い難いが、操る声は美しく、聞くものを陶然とさせる魅力を有していた。
『悪徳、美徳、そんなものはワレワレの概念には存在しない。キミらの言葉で言うならば、ワレワレは淫らなのだよ。本能に従い、獲物を食らう……ヒトが情欲に溺れ、周りが見えなくなってしまうようにね』
炎を纏って出現した、天使のごとき美しさを誇る悪魔。
『魔道書』に記されし序列六十八番の【異形】――その名は、『ベリアル』といった。
「善悪の概念がないからって、自分たちの行為が正当化されるとでも思っているの?」
シバマルやリサ、ヨリたちが敵の圧倒的な威圧感――神々しさ、と言い換えてもいいかもしれない――に畏怖する中、ユキエだけは毅然とそう言い放ってみせた。
槍と盾を構え、先頭に立つリーダー格の【イェーガー】を見つめた『ベリアル』は、「まさか」と笑う。
『ワタシ個人としては、ヒトの死は痛ましいものだと思っているよ。だが、悲しいことに多くの「ワレワレ」にはそれが分からない。「ワレワレ」の全体が理知を得てそれを知るには、世代交代を幾度となく繰り返し、更なる進化を待つほかにないのだよ。もっとも、それを果たす頃には人類が生存競争に敗れていてもおかしくはないがね』
何万年、何億年とかかる問題なのだと『ベリアル』は語った。
だが彼は始めに「ワタシが授けた智慧」と言っていた。彼に他の【異形】の知性を目覚めさせる力があるのなら――人の死を悲しむことができるのなら、やれることがあるのではないのか。
そう訊ねたユキエに、悪魔はゆっくりと首を横に振った。
『ワタシが「ワレワレ」に智慧を与えるのは、「ワレワレ」のためだ。ヒトのためではない。そしてワタシにとってヒトというものは、キミたちの言葉で言うところの愛玩動物に過ぎない。従順ならば可愛がるし、反抗的なら始末する。――キミらはどちらだ、ヒトの子らよ?』
あくまでも【異形】はヒトの上位者であると『ベリアル』は示した。
確かに彼らにとってヒトは道端の蟻のように簡単に踏み殺せる存在かもしれない。捕らえて見世物にしたり、愛玩動物として扱ったり、需要がなければ殺処分してしまえる存在なのかもしれない。
だが――自分たちには心がある。文化が、社会が、数え切れない程の大切なものがある。
その全てを踏みにじられるなど、到底耐えられない。許せはしない。
「あなたたちに屈服するなんて、死んでも有り得ないわ! 私は人として人らしく生きたい! あなたたちのペット扱いなんて、ごめんだわ!」
「そ、そうだ! お前らみたいな化物に捕まるくらいなら死ぬほうが断然マシだ!」
「私たちには尊厳がありますわ! 美徳も知らないあなたたちに、それを踏みにじられてたまるものですか!」
少年少女たちは叫ぶ。
自分たちの平和を脅かす敵に反逆の意志を見せつける彼らに対し、『ベリアル』は悲しげに瞼を伏せた。
『ヒトの智慧が価値あるものだということを、ワタシは知っている。その智慧はワレワレの進化の分岐点を生み出し、いずれパラダイムシフトを齎す。叶うのならば保護してやりたいのだがね』
真紅の眼差しから向けられるのは、憐憫だ。
大いなる変革への流れのために子供たちの命は傷つけられ、刈り取られる。彼らは【異形】という生命体が進化するための贄になるのだ。
『――祝福を』
微笑み、そして、開いた掌に火焔を灯す。
周囲で燃え盛る炎を自身の肉体に纏わせた魔神は、呟き一つでこの戦場を支配した。
火柱が屹立し、部隊全体が一瞬にして火の海に飲み込まれる。
「皆、【防衛魔法】を――」
『無為だよ、娘』
激しい熱と視界を塗りつぶす黒煙から機体を守らんと魔法の発動を促すユキエ。
だが、一縷の希望すら『ベリアル』は掴ませはしなかった。
全員の力で展開された半透明な緑色の防壁は、その灼熱にひと撫でされただけでどろり、と溶け崩れてしまう。
「う、ぐっ……負けて、たまるかっ……私は、リーダーに皆を任せられてるんだから……!」
機体の表面が焼かれる痛みが、肉体にダイレクトに伝わる。
激しい熱に顔を歪めてもなお、少女は敵に抗おうとした。操縦桿を固く握り、一気に前に倒す。
「うあああああああああああああああああああッッ!!」
普段から冷静な少女のものとは思えない咆哮を上げ、退路を失った彼女は刺し違える覚悟での突進を敢行した。
「無茶よ、ユキエちゃん!?」
「で、でもっ、もう手がない! ここで突破しないと、焼き殺されるだけだぞ!」
「とにかく撃つんだ! たとえおれたちがここで倒れても、ツッキーやレイ先生たちは絶対来てくれる!」
ヨリが悲鳴を上げ、イタルは切羽詰まった声で叫ぶ。
シバマルやリサたちが『毒銃』でユキエの援護射撃を行い、ヨリたちもそれに加わった。
敵に背中を見せれば終わる。屹立する幾つもの火柱を強引に突破したとしても、虫の息になったところを潰されるだけだ。
ならば――捨て身の攻撃で敵に歯向かうほかない。
銃声の重奏が鳴り響く。その毒に『ベリアル』の周りを固める巨大な狼たちが倒れ伏し、その屍を踏み越えてユキエは敵へと肉薄した。
抜き放った居合の一刀。
白刃が閃き、泰然と構える『ベリアル』の白い首元へと吸い込まれるように迫っていく。
「ここで死ねッ、怪物――ッ!!」
直後、ガキンッ、という音が少女の耳朶を打った。
それが何を意味するものなのか、彼女の理解は一拍遅れた。
『無為だ、と言ったろうが』
胸を突いた衝撃にユキエの呼吸は止まる。
魔力液のすえた臭いが飛散し、赤い飛沫が儚く舞う光景に、ヨリは銃を取り落とした。
『ベリアル』の首に斬りつけられた刃は、折れていた。その首は魔法によって鋼鉄のごとく硬くなり、どんな刃も通さないほどの防御力を得ていたのだ。
冬萌ユキエの敗北。
A組の中でもその聡明さや冷静さで確かな存在感を醸していた彼女の敗けがもたらす絶望は、ヨリたちの膝をつかせるには十分だった。
『臭いな、その液体。だが、興味はあるよ』
ユキエの心臓を貫いたのと同じ「見えざる刃」が音もなく飛来し、立ち尽くす【イェーガー】たちを次々と仕留めた。
隣で、目の前で倒れゆく仲間たち。ありったけの魔力で上位防衛魔法、【破邪の防壁】を発動したヨリは、震える声でカナタやレイたちにメッセージを飛ばした。
「輸送部隊の、真壁、ヨリです。助けて、くださいっ……【異形】が、喋る【異形】が――」
彼女に許された抵抗はそこまでだった。
炎と瓦礫の世界に崩折れる【イェーガー】。
少年少女たちが『第二の世界』の戦場から退場させられる様を眺めながら、『ベリアル』は蒼穹を仰いだ。
――羽音、ではない。
空気を切って接近し、太陽を背後に出現したのは銀翼の機士。
『この匂い……ワレワレは知っている。あれが……ヒトの女王の子か』
*
――なんて、悲惨な。
救援に間に合わなかったことを眼下の光景から理解した銀髪の少年は、唇を噛む。
破壊された基地の跡、その中央に鎮座する戦車と青年の姿の【異形】を見下ろし、彼は腰に佩いた剣を抜き放った。
「ゆ、ユイさん。ぼ、僕が魔法に巻き込まれるのは気にしなくていい。い、一切セーブしない、君の本気で戦うんだ」
「分かりました」
守るべき仲間は散った。味方を気にして魔法の威力を落とすようなことも、もうしなくていい。
カナタはユイの答えを聞く前に天高く舞い上がり、剣の切っ先を『ベリアル』へ向けて握った腕に魔力を込める。
迸るパルスがパイロットから機体へと通じ、伝った意思の力が魔法という形となって具現化した。
「ふっ、吹きとばせ、【ラジエル】!!」
白銀の閃きと同時に放たれる突風。
地上の炎を吹き消す勢いの豪風に、黒い【防衛魔法】を発動する『ベリアル』は笑みを深めた。
「まっ、まだまだッ! ――水よ!」
カナタが空いた左の掌に浮かべるのは、水属性の魔素――魔力を構成する最小単位の粒子――である。
『詠唱』をすっ飛ばして魔法の「組み上げ」を完了させた彼は、先ほどの風に多量の水を混ぜ込んで立ち並ぶ火柱へとぶつけた。
「か、掻き消えろッ!!」
少年の鋭い叫びとともに、水を含んだ空気弾が連射される。
着弾したそばから渦を巻き、暴風が竜巻と化して立ち上った。
烈火と烈風、せめぎ合う両者の戦いは――
『超えるか、我が炎を』
風が、制した。
火柱に代わって自身の周囲を囲んだ竜巻の群れに、『ベリアル』は感嘆の声を漏らす。
子供たちの逃げ道を奪った炎は一転、風に変わって今度は【異形】を封じ込めたのだ。
状況は逆転した。今や劣勢にあるのは『ベリアル』のほうであり、カナタたちはまだ余力を残している。
「よくも、よくもユキエさんたちを!!」
裂帛の咆哮を上げて急降下し、ユイはその長剣を『ベリアル』の防壁に振り下ろした。
黒い魔力壁の表層に脈打つ波紋。剣の魔力が敵の盾を徐々に侵食していく。
このまま押し込めばいける――確かな手応えを感じて一気にさらなる炎の魔力を流し込むユイだったが、
『理を逆転させよ。見えるものに縋るな。蒙昧なるヒトよ』
せせら笑う青年のざらついた声に、彼女は目をかっ開いた。
剣の赤い輝きは黒く染まり始めていた。敵の防御を突破するはずが、逆にその接触を利用されている。
「――くっ!」
咄嗟に剣を引こうとするが、粘っこくまとわりついた黒い魔の手はそれを離さない。
防壁の表面から幾つも伸び上がった細長い腕は、剣だけでなく【ミカエル】の身体や翼までもを雁字搦めにした。
『相手が攻めに全力を注ぐ瞬間こそ、防御側にとっては最大の好機となるのだ。逸ったな、娘』
「随分と、よく喋る……!」
関節を極められて身動きの取れない【ミカエル】を『ベリアル』は嘲笑した。
理智ある【異形】の多くは聡明さを尊び、蒙昧なものを嫌悪する。彼もその例外ではなく、状況有利に飛びついたユイを蔑みの目で見ていた。
『フラウロス』や『パイモン』と比較して饒舌かつ人間味のある話し方の【異形】へ、ユイは歯ぎしりしつつ言った。
「私を盾にすればカナタさん、狙えないと思ったのでしょう!? 単に倒すだけならわざわざ触れずとも出来た! なのに敢えてこうしたのは、それが狙いなのでしょう!?」
『ベリアル』は彼女の問いに何も返さなかった。
魔手を通して【ミカエル】の中へ止めどなく魔力を送り込み、彼は機体の『コア』を侵食しようとする。
『コア』さえ制御下に置いてしまえば、その機体の管理権をパイロットから奪えるのだ。そのためにはパイロットであるユイの精神に介入し、彼女をまともに機体とシンクロできない状態にまで追い詰める必要がある。
そうなってしまえば、あとは『コア』に『ベリアル』が正式なパイロットなのだと思い込ませればいいだけだ。
『ヒトは心を特別なものとして扱う。ワレワレにない文化だ。心とは脳の中で行われる情報の交流の付随物としてあるものに過ぎない。魔法で書き換えるのも、再現するのも、システムさえ理解すれば容易だ。そしてワタシは、ヒトの脳を得ることでそれを理解したのだ』
まるでカナタに聞かせるように、天を仰いで『ベリアル』は語った。
ヒトの脳を得る――それが意味するところを少年は正しく把握できない。ヒトの脳に近しい、等しいものを得たということなのか、それとも物理的にヒトの脳を自身に移植したということなのか。
どちらにしろ、それが人間にとって大きな脅威であることには変わりない。
「ゆ、ユイさんをっ、ユイさんを返せ!!」




