第四十二話 導く者、導かれる者 ―When now changes.―
職員室という空間の中で、湊アオイは明らかに異物として扱われていた。
他の教員と積極的な関わりを持たない。常に俯きがちで表情も読みにくい。それでいて彼には、どこか周りの教員たちを馬鹿にするような言動も度々みられた。
彼は学園が嫌いだった。『レジスタンス』に入り地上を見て、大人の嘘を知った時、これまで信じていた学園の教師たちは誰も信じられなくなった。
嫌い、だけでは生ぬるい。憎んでいた、と言ったほうが正しいだろう。
子供に偏った情報だけを教え込み、真実を隠す学園や『レジスタンス』のやり方は間違っていると彼は声を上げたかった。
だが、狭い世界を統べる機関に反抗の意を示せば、粛清されてもおかしくはない。『レジスタンス』はそのくらい平気でやる。「不慮の事故」の何割が本当の話なのか、と疑えるくらいには。
人類の科学力を結集して【異形】を討たんとする月居カグヤの志は、間違っていないとアオイは思う。
『レジスタンス』を設立した当初、彼女が掲げた理念は多くの人の共感を呼び、パイロット候補生が続々と集った。夜桜シズルらはその当時から志願して兵になり、戦い抜いた大ベテランだ。
人類の反逆の象徴となった女は、しかし、いつしか人の心を軽んずるようになった。
シズルによると、昔のカグヤは今とは打って変わって柔和な人柄だったという。それが変わったのは三年ほど前頃――『福岡プラント』を失った時期だ――で、シズルはその失敗が彼女の精神の変質をもたらしたのだと推測していた。
『福岡プラント』を襲撃した【異形】の群れの頭は、未だ討てていない。
内部に残った兵たちを切り捨て、プラントを爆破して中の【異形】を全て潰す――側近の富岡が進言した策をカグヤは却下し、全ての兵員の撤退作戦を命じた。
現場の奮戦の甲斐あって撤退作戦には成功したものの、結果プラントを奪われ、【異形】たちの多くを討ち漏らすこととなってしまったのだ。
「その作戦は間違ってなんかなかったはずなんだ。それなのに、食糧生産を担うプラントが一つ失われたから市民はこぞって司令を叩いて……何の罪もないカナタくんまで、バッシングの余波を受けて……」
そのせいで変わってしまったとしても、おかしくはない話だった。
カグヤは象徴である以前に一人の人間なのだ。止むことのない誹謗中傷を受けていれば、心が歪んでしまっても無理はない。
「……人を信じられなくなる気持ちは、僕も分かる」
校舎の屋上、フェンスに背中を預けて青年は夕陽をぼんやりと眺める。
人工太陽が彼の顔を茜色に照らす中――そこに、一人の男が声をかけてきた。
「おっ、先客か。こんなところで黄昏てるのか、アオイくん?」
紫煙をくゆらせてニヒルに笑う中年の男性教師に、アオイは無言を返した。
教壇に立つ際は額が曝されるようヘアバンドで前髪を留めている彼も、今はそれを外して長い髪を風に流していた。
「長髪が似合う男ってのも、珍しいよな。君は顔立ちも整ってるほうなんだし、モデルでも目指せばよかったんじゃないか?」
「……僕に今の仕事が向いていないと、あなたは言うんですか」
キョウジの方を見もせずにアオイは硬い声音で言った。
彼の言葉に少しの恐れと緊張を見て取ったキョウジは、「そうだ」と無遠慮に答える。
「生徒に真実を隠し続けることが、彼らを死地に送るために育てることが、辛いんだろう。俺も今年から教師をやり始めたような若輩だが、それくらいは見れば分かるさ」
図星を突かれ黙り込むアオイの隣のフェンスに、キョウジは同じようにもたれかかった。
二十歳の青年の二倍以上の時を生きている男は、年長者として彼を導かんとした。
「この仕事が自分に合わないと感じたなら、迷わずに退職するべきだ。教師でいることで良心の呵責に苛まれ、それが辛いというのなら、最も自分に合った別の道を探せ。ただ――あくまで、『精神的』に合致した場所を選びなさい。その分野で才能を示したとしても、辛さを抱えたまま働き続けるのは身体に毒だからな」
アオイが『レジスタンス』を辞めた理由を踏まえて言ってくるキョウジ。
男の言葉はアオイの中で空虚に反響する。茜色の空に流動する薄い雲を目で追いながら、青年は「まるで僕みたいだ」と呟いた。
行くあてなど決まっていない。周囲から少しでも強い風が吹けば散ってしまう。そんな弱い存在。
「……俺から言えることはそれだけだ。最後に決めるのは自分自身――それは君が一番わかっているだろう」
「自分、自身……」
キョウジが言ったことをアオイは反芻する。
彼が戦場から逃げたのは紛れもない彼自身の意思によるもの。彼には自分で決める力がある。与えられたものが全てだと思わない視野の広さも手に入れた。目の前の情報を疑い、自分なりに検証する行動力も得た。
能力的に今の彼ならどこへ行ってもある程度はやっていけるだろう、とキョウジは思う。
だが、最後に選択を決定するのは気持ちだ。気持ちの面で安心できなければ意味がない。生まれたその年に【異形】の襲来を受け、激動の中で生きる世代の若者たちには、せめて少しでも落ち着ける環境で過ごしてもらいたかった。
「……矢神先生。僕、この前の戦闘で『嬉しい』と感じてしまったんです。手放したはずの愛機と再び会えて、一緒に戦えて……機体と一つになった感覚を味わって、僕の居場所はやはりここなんじゃないかと思うようになった。
――仲間を失うことは怖い。でも……シオンさんみたいに補給を断ってまで単騎で飛び出せば、少なくとも仲間を巻き込むリスクはなくせる。それを理解していながら僕がそれをしなかったのは、一人で死ぬのが、怖かったから」
『レジスタンス』時代に少なからず交流のあった元研究員のキョウジに、アオイは胸のうちを明かした。
彼は心の中にずっと欺瞞を抱えて生きている。戦士であった頃も、教師でいる今も。
一人で死ぬのは嫌だ。だが、仲間と一緒にはいられない。その矛盾の果てに、彼は戦場そのものから離れることを選んだ。
――勇気さえあれば。
孤独に戦う意志さえあれば、彼はその才能を腐らせずに済んだはずだ。
愛機と再びシンクロし、広い海を泳げたはずだ。
「戻るのか、『レジスタンス』に?」
「正直、そう思いましたよ。だけど、今の【ガギエル】のパイロットは後輩です。逃げた僕を責めずに、彼は僕の後を快く継いでくれました。今更戻ろうだなんて、合わせる顔がありません」
アオイに憧れ、慕ってくれていた一つ下の後輩の笑顔を思い出すと、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
罪悪感から望む道を選べなくなっている青年に、ライターをカチッと鳴らして二本目に火をつけながらキョウジは呟きを落とした。
「ナギくんが聞いたら喜ぶと思うがね。彼は聡明な子だ。自分より優れたパイロットが戻ってくるというなら、迷わず席を譲るだろうさ」
「ナギの気持ちはどうでもいいんです。僕が、僕自身を許せないんだ。身勝手に逃げて、身勝手に戻ろうという自分のわがままさに、嫌気が差す」
「……真面目だな、君は」
切迫した口調で言うアオイにキョウジは苦笑した。
遊び人気質のキョウジからすれば、アオイは別の生き物に見えてくる。
その姿はどこか彼の今の教え子に似ている。己の過去の罪を許せずに苦しむ者――その心を癒すのは、部外者の彼には難しい。
「……君に提案があるんだが、聞いてくれるか」
「構いませんが、何ですか?」
「月居くんや早乙女くんに、元【七天使】としてレクチャーしてやってほしい。彼らから君に掛け合ってくれないかと頼まれてね。せっかくだからナギくんも呼んで、明日辺りにでも彼らに会ってやってくれないか?」
試験期間中の訓練は基本的に生徒たちの自習であり、『福岡プラント奪還作戦』を控えた【七天使】は全員が本部に集って待機状態だ。アオイもナギも、スケジュールには空きがある。
「分かりました。ナギにも後で連絡して、来てもらえるか訊いてみます」
了承した理由は大したものではない。何もしないでいるよりかは遥かにマシだと思ったからだ。
礼を言ってくるキョウジの顔をまともに見られないアオイは、「失礼します」とだけ告げてその場を去る。
月居カナタは、戦場から逃げた者をどう見るのだろう――青年は階段を下りながら少年の青い目を思い出し、左腕をぐっと掴み寄せた。
*
そして翌日の夕方。『第二の世界』にログインしたアオイは、試験を明日に控えたA組の生徒らの前に立って挨拶した。
「短い時間にはなるが、これから君たちへの指導を始めさせてもらう。よろしく頼む」
よろしくお願いします、と生徒たちの声が返ってくる。
ここに集った人数は十数名。キョウジからA組の状況を聞いてはいたが、どうやら完全に改善してはいないようだった。
月曜に来なかった生徒のうち、今回いるのはイオリやシバマル、リサ、それから日野イタルや真壁ヨリ――ラウム戦でユキエと共に後衛を担った二人だ――といった面々だ。
カナタとユキエの説得が功を奏したようで、少しずつではあるが状況は変わってきている。
それでも、彼らの表情は暗い。『フラウロス』の精神攻撃によってできた傷が、まだ癒えていないのだ。
自分たちの教えが彼らの道を開かせられればいいが――そう内心で呟くアオイは、自分の横に一歩進み出た青年を指して紹介する。
「彼は水無瀬ナギ。僕の後輩で、今は【七天使】の一人として【ガギエル】のパイロットを務めている。――ナギ、自己紹介を」
「あ、は、はいっ。あ、あの、小官は『レジスタンス』海軍に所属する、水無瀬ナギ大尉であります! 誠心誠意、皆様方の訓練に協力いたしますので、どうかよろしくお願いいたします!」
人前で話し慣れていないのか、ガチガチに緊張した様子で名乗った青年。
長身のアオイと比較してやや低い背格好の彼は、黒髪をおかっぱにして前髪の一部に青いメッシュを入れている。整った顔立ちは少年らしさを残しており、その雰囲気は学生と言われても十分通用するほどだった。
「おい、相手は学生だぞ。そこまで畏まらなくていい。それにこれは正規の授業としての訓練ではなく、あくまで『補習』だ」
「そ、そうでしたね。――じゃ、じゃあ皆、取り敢えずSAMに乗ってみようか。まずは皆がどのくらいできるのか見てみたいし」
アオイに注意されてすぐに切り替えたナギは、訓練場に整列したカナタたちへ早速指示を出した。
【イェーガー】、【ラジエル】、【メタトロン】、【ミカエル】――量産機と三機の専用機が一堂に会す光景を眺めて、彼は恍惚とした顔で言う。
「すごいですよね、先輩。月居司令がデザインした特別な機体が三機も目の前にあるなんて! あぁ、できることなら試乗したいくらいなんだけど……」
「馬鹿なことを言うな。ほら、お前も【ガギエル】を呼び出すんだ。僕は【イェーガー】を使う」
「先輩……」
明瞭な口調で言ってくるアオイに、ナギは何かを言いたげな目を向けた。
もどかしそうに口ごもる後輩を他所にアオイはさっさと準備を進め、ナギもそれに倣わざるを得なくなる。
補習を本格的に始める前に、アオイとナギは生徒たちに走行や射撃、白兵戦を一通り行わせた。
彼らの期待通り、カナタやレイ、雨萓やカオルなどの比較的実力の高い者は全てそつなくこなしてくれた。
しかし、イオリたちは違う。彼らの動きは精彩を欠き、銃や剣を握る手には躊躇いのようなものが付きまとっているように見えた。
銃を持つ手が震える。剣筋がぶれて、組み手の相手にうまく当てられない。酷い者だと引き金が引けなかったり、剣を持ったまま固まってしまったりと、まともに戦える状態でさえなかった。
彼らを戦場に引っ張り出すのが教師の仕事だ。そのはずだと分かっていながらも、アオイは強い言葉が吐けなかった。
(戦いたくないなら逃げろ。無理して戦場に出ることなんてないんだ――)
言いたいのに、言えない。
世界は残酷だ。大人は薄情だ。その残酷で薄情なものになりきれないほど、アオイの反発心は強靭ではなかった。
「困りましたね、先輩。ああいう子たちって、どう対処したらいいんでしょうか」
ナギに悪意がないことは分かっている。彼は純粋に『レジスタンス』や『学園』、そしてA組のためを思って彼らを立て直そうとしているのだ。
そう思うのが『レジスタンス』による教育の賜物だと、自覚しないまま。
「先輩、聞いてます? せんぱーい?」
「――いつまで学生気分でいるつもりだ、ナギ? もう昔の先輩後輩の関係じゃないんだ。お前は大尉で、僕は教師。少しは自分で考えて動け」
「す、すみませんでした、湊先生。では、僕は動けなかった子たちに声をかけてみますね」
後輩だった青年の声音が若干硬くなって、胸にちくりと痛みが走る。
突き放すような言い方をしたのは、本当はナギを思ってのことではない。従順な後輩が側にいては、自分がダメになってしまうと危惧したからだ。
先輩ぶっている間は、自分のことを深く考えずに済む。慕われて承認欲求を満たせる。今のまま変わらないのを望むなら、それでいいのだろう。
だが――変わらなくてはいけないのだ。『レジスタンス』の嘘を嘘と見極められるようになり、常人より真実に近い位置にいる湊アオイが、このままではいけない。
子供たちに嘘を教えずに済む世界を目指すには、『レジスタンス』に舞い戻って組織を内部から変えていくしかないのだから。
「刘さん、君の剣には力がこもりすぎている。武器を扱うときは無心でやるんだ。強い感情が人の力を増幅させることは往々にしてあるが、今の君は感情に『呑まれて』しまっているように見える。憎しみに振り回されるな――乗りこなせ。君ならできるはずだ」
「我知道了。やってみます」
中国からの留学生にアドバイスを送りながらアオイは思う。
結局、パイロットの命運を握っているのは感情なのだ。技術はその前提に過ぎない。
己を律し、高め、無想の境地に至ったものこそが最強の戦士となれる。昔何かの本で読んだ話だったが、あながち間違いでもないのだろうと彼は感じていた。
「月居くん、早乙女くん――」
二人にアオイから授けられるのはそれくらいだ。
アオイが極めた水中戦闘の技術は二人の専門外であり、基本となる技術は二人ともマスター出来ている。技術的な水準だけなら彼らはアオイと同程度だ。おそらく二年もしないうちに、追い抜いてしまうだろう。
「む、無想って……み、味方のことも考えず、無駄な思考の一切を捨てて戦えってことですか……?」
「それは……違うよ。背負う思いと剣を振る一瞬の思考は別だ」
カナタの問いにアオイは首を横に振った。
モニターのテレビ電話越しに見える少年二人の顔を見据えて、彼は言う。
「味方のことは忘れちゃダメだ。味方だけは……味方を損なうような戦い方は、してはいけない。君たちには、僕のような失敗を犯してほしくないんだ」
カナタの風もレイの光線も、一歩間違えば味方を巻き込む規模の魔法だ。それを踏まえてアオイは自責の念を滲ませながら、願いを伝えた。
仲間を失った経験のあるレイには、その言葉が誰よりも響いたのだろう。金髪の少年の瞳は一瞬翳りをみせるも、すぐに覚悟を宿したものに変わる。
カナタも頷き、意思を共有した。
【機動天使】のパイロットには必要な言葉を授けた。あとは、他の恐れを抱えた子供たちだ。
「――ナギ。子供たちを一旦集めてくれ」
「は、はい。皆、小休憩だよ! SAMを降りて、【ガギエル】の前に集まって!」
今のアオイは指揮官機に乗っていないため、全体への一斉通信ができない。仕方なくナギに頼み、ほどなくして生徒たちが集合すると、彼も【イェーガー】を降りて皆の前に出た。
軽く咳払いして喉の調子を整える。
言うべきことは、彼らの訓練を眺めている間に考えてきた。
「僕から君たちに話がある。どうか、聞いてほしい」




