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暁の機動天使《プシュコマキア》  作者: 憂木 ヒロ
第二章 嘘と真実

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第三十六話 融合 ―It'll be one.―

 ビルの上から見下ろす戦場は、決して懐かしくは見えなかった。

『レジスタンス』を辞め、今年から学園に教師として務めることになった青年――みなとアオイは、『第二の世界』の『新宿』を眺めて乾いた感想を抱く。

 これはただのジオラマだ。現実を再現などしていない。大人が子供のために作った、都合のいい世界。ある意味では優しく、またある意味では残酷な世界だ。


(もう還らない世界を夢見て……その結果、何が得られる? 希望をうたって何人死なせた? これから僕らは、一体何人殺す?)


 今もまた、死んでいる。

 ここは決して現実ではない。それでも現実とほぼ同一なグラフィックで、子供たちを乗せたSAMが無惨に破壊されていく光景が広がっている。

 脳裏にこびりついて離れない声が――隣で散っていった親友の最期の声が、鮮明に蘇って眼前の惨劇と重なった。


(僕が教師になったことを彼は恨むだろうか。未来への布石のために今の子供たちを死地に送り込む仕事に就いた僕を、彼は、責めるだろうか)


 死者の意思など分かりはしない。だから、死んだ時点でその者はなかったものとして葬られる。少なくとも『レジスタンス』ではそうだった。

 それが本当に正しいのか、遺骨を池に捨ててろくに弔うこともしない組織のあり方が間違ったものなのか、アオイには何も意見を言えない。

 彼だけではない。月居カグヤの下で働く士官、兵卒、研究者、技術者、そういった者たち全てがトップのやり方を諫められない状態にあった。

 

(『レジスタンス』は月居カグヤという独裁者の言いなりだ。彼女は人の上に立つよりも科学者として研究に勤しむほうが向いている人材なのに……周りの者が持ち上げて、引き返せないところまで連れてきてしまった)


 宇多田カノンや風縫ソラと並んでエースパイロットと称されていたアオイは、カグヤのお気に入りだった。

 彼女は色々なことを話してくれた。世界のこと、【異形】のこと、息子のこと、組織のこと等々。だがそれらの中でもカグヤの瞳が最も輝いていたのは、自身の『コア』にまつわる研究について語っていた瞬間だった。

 

「司令……あなたは子供たちに何を望むのですか。『コア』を使って何を為そうとしているのですか」


 カグヤの行動の理由が二十年前、富士山麓に墜落した隕石こと『コア』にあることをアオイは察している。

 彼女の出発点となったもの。人類を救うSAMの文字通りの核となったもの。それは可能性の塊であり、ヒトに新たな変化をもたらすのだと彼女は言っていた。

 その変化が子供たちを救うのならば、アオイは喜んで彼女に力を貸す。胸に抱いた迷いもきっと、拭い取れるだろう。だが何も分からない現状では、どうすることも出来なかった。


『アオイ君、何をしている。早く動かないと生徒たちが……!』

「弱い生徒が残っていても邪魔なだけです。彼ら自身が立てた作戦で、彼らが倒れた――そこに僕の責任は発生しないはず。本来、僕は生徒たちの戦闘に介入しない立場でもありますし」

『そうやって動けない言い訳を並べるのか、君は』

「――戦場に出たこともないくせに、知ったふうな口を叩かないでいただきたいですね。矢神キョウジ元研究員どの」


 図星を突かれたアオイは意固地になって、皮肉たっぷりの口調で言い返す。

 通信越しにキョウジが言葉に詰まる。彼からそれ以上の発言がないと判断したアオイは通信を切り、モニタ上に明滅する光点を睨み据えた。

 一つ、また一つ消えていく生徒を示す青い点。精神攻撃を受けて行動できずにいる彼らに赤い点――『フラウロス』は悠々と近づき、一人ずつ潰しにかかっていた。



 アオイが『第二の世界』にログインする、数分前。


「カナタ、聞こえますか!? カナタ!」


 早乙女・アレックス・レイは【ラジエル】に通信を繋げ、相棒の名を何度も呼んでいた。

 応答はない。微かに聞こえる乱れた呼吸音が、カナタの状況を如実に語っている。


「コックピットは開けられますか!? 今、ボクが向かいますから――ボクが、助けますから!」


 道路に膝をついて停止している【ラジエル】のそばに【メタトロン】を停め、レイは機体を降りてカナタの愛機へと駆け寄った。

 かつてカナタがそうしてくれたように、SAM背面の足場を伝ってコックピットへ登っていく。

 が、その時。

 背後から鳴り響いた爆発音に、レイはがばっと振り向いた。


「――――」


 ビルに囲まれた十字路の真ん中に立つ『フラウロス』が、ワイヤーを掴んで地面に叩きつけた機体を踏みつけ、破壊している。

 ワイヤー使いということはカオルか、カツミか――いずれにしろ実力者が一人、この戦いの舞台から退場したのだ。


「……カナタ、開けてください! ボクは君と話をしなくてはならないのです!」


 悔やんではいけない。彼らはレイを信じて送り出してくれたのだ。ここで後に戻れば彼らの信頼を裏切ることになる。

 勝つためにはカナタの力が必要なのだ。彼の魔法が唯一、『フラウロス』の魔法を打ち消す手段なのだから。

 だがドンドンと鉄扉を叩いても内側から少年の返答はなく、それが開く気配も見られなかった。

 当然だ。【ラジエル】は操作の全てをパイロットの思考に依存しており、そのパイロットが精神攻撃を受けてまともな判断力を失った状態では、ドアが開くはずもない。

 やはり無駄足だったのか――レイが唇を噛んだ、直後。

 ある女子生徒の声が彼を呼んだ。


「リーダー! これを使って!」


 声のした眼下に視線を向けると、そこには対物ライフルを抱えた黒髪の少女、冬萌ユキエがいた。

 何故そんな武器を、と瞠目するレイに、ユキエはそれを投げ渡しながらよく通る声で言う。


「私、機体が壊されても戦えるようにコックピット内に幾つか武器を置いてたの! まさか、初使用がこんな形になるとは思ってなかったけど!」


 SAMには機体が危機を迎えた際、箱型のコックピットを離脱させ射出する機能がある。作動から離脱まで数秒の間があるため、その間に倒されてしまうと意味がないのだが、ユキエは自らの「引き際」をしっかり見定められる自信があったのだろう。そうでないと、狭い【イェーガー】のコックピット内に武器など置いていられない。


「ありがとうございます、冬萌さん! しかしこんな大きいライフル、よく投げられましたね」

「これでも鍛えてるのよ。一応クラスの女子の中では体育の実技、トップだから」


 不敵に笑うユキエは踵を返そうとして、やめた。

 レイを見上げ、危機感を孕んだ早口な口調で頼み込む。


「リーダー、月居くんを助けたら七瀬くんも頼むわ。彼の機体は『フラウロス』に殴られたとはいえ、まだ生きてる。あの【異形】に何か見せられて沈み込んでるみたいなんだけど、私の声じゃ彼を立て直せなかった。でも、あなたなら――あなたの言葉なら、彼も前を向いてくれるんじゃないかって思う」

「分かりました。冬萌さん、君はここで待機していてください。あの惨劇は君一人でひっくり返せるものではありません」


 彼女の要請を受けてレイは頷いた。

 足早に自分の機体へと戻っていくユキエを尻目に、金髪の少年は不安定な足場を下りて道路を踏みしめる。


(この距離ならば扉を壊すのに支障はないはず。あとは、ボクの腕次第ってところでしょうか)


 SAMに乗らずに武器を扱うのは初めてだが、普段やっていることを生身でやるだけだ。

 身体に対して大きなライフルを構えた彼はスコープを覗いて照準を合わせ、そして――乾いた銃声を打ち鳴らした。

 耳をつんざく破裂音を立て、計算通りに鉄扉の蝶番を破壊した弾丸。

 中に入れそうだと視認したレイはライフルを足元に放り捨て、再び足場伝いにコックピットへ。


「カナタ!」


 ドアを肩で押し倒して内部へ足を踏み入れた彼は、操縦席の前まで回り込んでカナタへ呼びかけた。

 だが、虚ろな目をした少年は何も答えない。

 過去にあれほど助けるために頑張ったレイが眼前にいるにも拘らず、カナタの意識はどこか別の場所へ向けられたままだった。


(単に呼びかけるだけじゃ声は届かない。だったらどうする? カナタが【ラジエル】とのシンクロを今も完璧に果たしているのだとしたら……)


 機械と人の意識が繋がっているなら、人の側でなく機械の側からアプローチをかければ応答があるかもしれない。

 他に手段はあるかもしれないが、まずはこれを試そう。そう決めたレイは、ヘッドセットを外させずにカナタを操縦席から降ろし、自身がそこに座った。

【ラジエル】をはじめとする第五世代SAMでは、ヘッドセットによる神経接続と別の操縦者による手動操作の同時使用が可能となっている。当初聞いたとき、レイは二者の同時操縦に何のメリットがあるのかと首を傾げたものだが――今になってやっとその意味を理解した。


(月居司令がこういう状況を想定してこの『二者同時接続』機能を付けたかは定かでありませんが……今はそんなことどうだっていい。これなら、カナタに意思を届けられる!)


 キーボードを叩くレイはその「救い」に感謝した。

 久々のヘッドセットを介さないSAMとの接続にむず痒い感覚を抱きつつ、彼はカナタへのメッセージを【ラジエル】のメール機能を利用して打ち込んでいく。



 暗い、真っ黒な闇の底に、銀髪の少年は独りで膝を抱えてうずくまっていた。

 過去など見たくはない。見てもいいことは何もない。辛いことばかりだ。苦しくなるだけだ。

 それにも拘らず、その光景は瞼の裏に焼きついて消えない。


『オマエは嘘つきだ。悟った真実を嘘で塗り固めて、なかったことにしようとした』


 男の声が囁きかけた。


『真実を見ろ。現実から逃げるな。オマエが望んだものは、最初からどこにもなかったのだ』

「う、嘘だ。……信じられるわけ、ないよ」


 少年は膝にうずめた頭を振る。

 ねばっこい闇の中から湧き出るように現れた豹人間の【異形】は、その顔に嘲るような笑みを浮かべながら言葉を続けた。


『顔を上げよ。嘘という悪夢からワタシが解放してやる。世界に二面性は要らない。真実だけがあればいい。真実を得た先に、ワタシは新たな分岐を見出す。それはおそらく、「ワレワレ」という括りでも同一だろう』


 悪夢。それがこれまでの経験を表すものだとしたら、そこからの脱却は少年にとって果たして拒むべきものなのだろうか。

 少年には分からない。ここにいる悪魔フラウロスは信じられないが、彼の言うことの何もかもが欺瞞であるとも思えない。

 

「……悪夢でもいいよ。解放なんて要らない。僕は、ここにいていい。ずっと悪夢の中にいても構わない」


 悪夢という響きに悪いものは感じなかった。

 自分は罰されるべき人間だから。誰もが月居カグヤを責め、その息子であるカナタへ悪意を注ぐ。守ってくれる者は誰もおらず、一人ぼっちで部屋にこもるしかなかった。

 

『そうか。拒むのならば――』


 頭髪が鷲掴みにされる感触に、少年はびくりと震えた。

 強引に顔を上げさせられた彼は悪魔の真紅の眼光を直視し――その瞬間。

 自分の意識が肉体を離れ、どこか別の場所へ飛ばされていくのを理解した。



 誰かが幼い頃のカナタに声をかけていた。

 それは透き通った美しい響きを帯びた、少年の声だった。

 

『ねえ、遊ぼうよ』

 

 記憶の奥底に眠っていた記憶だ。

 黄昏の公園。誰も乗っていないブランコがひとりでに揺れ、砂場でお城を作っていた男の子はきょろきょろと辺りを見回す。


「だ、だれ……?」 

『ぼくはここにいるよ』


 誰何すいかの声への返答にはそぐわない台詞だった。

 ブランコの方から聞こえてくる少年の声に、銀髪の男の子は引き寄せられるようにそこへ近づいていく。


「そ、そこにだれかいるの? み、見えないよ」

『それは君が見ようとしていないからさ。ぼくは何処どこにだっている。ただ、ヒトに意識されないと存在を確立できないだけ』


 幼いカナタには彼が使う単語の意味さえ分からなかった。

 呆然とブランコを見つめる彼に、見えざる者は歌うような口調で語る。


『ぼくには決まった身体がない。普段は魔力によってかろうじて空間に留まることが出来ている、思念体のようなものなのさ。ねぇ、ヒトの女王の子よ。ぼくに身体を、貸してはくれないかい?』

「……ぼ、僕、君が何を言っているのか分からないよ」

『おっと、失念していたよ。ヒトの場合、五歳程度だとまだ殆ど知識を持っていないんだったね。……じゃあ、君にも分かるように、優しく砕いた言葉で話そう』


 ブランコ前の低い柵に身を乗り出したカナタに、見えざる者は穏やかな口調で言った。彼に表情があるならば間違いなく微笑しているだろうと思える声音だった。


『ぼくと一つになってくれないかい、ヒトの女王の子――いや、カナタくん』

「ひ、一つ?」

『そう、一つになるんだ。言い換えるなら……そうだね、友達になるとも解釈できる。ぼくと一つになれば、もう一人で寂しい思いをすることもなくなるんだよ』


 友達。そのワードにカナタは強烈に惹かれた。

 幼いながら自分には縁のないと思い込んでいたもの。絵本の中の子供たちだけが持っていた、絆。

 欲しい、と一旦思えば幼い意思に歯止めは効かなかった。

 もう寂しくならなくて済む。誰かと一緒に遊べる。一緒に話したり、歌を歌ったり、絵本を読んだり……色々なことができる。

 自分が知らなかった領域へ、足を踏み入れられる。他者の温もりに、触れられる。それはカナタにとって、世界がもう一つできることと同義だった。


「う、うん……と、友達になろう。え、えっと……き、君の名前は?」

『ナマエ? ……あぁ、そういえばヒトにはそういう文化があったんだったね。んー、そうだなぁ……ぼくは、えーと……』


 それなりに悩んでから、見えざる者は少し照れくさそうに言う。


『ぼくは――』



 場面が変わった。

 薄暗い部屋の中。ベッドの上で少年の身体に跨るのは、銀髪碧眼の女性だ。

 頬を上気させ、息子を見下ろして舌なめずりする母親は、怯えるカナタに言い渡す。


「ねぇ、カナタ。カナタはずっと、一人で寂しい思いをしてきたんでしょう? 私が仕事ばかりであなたの側にいてやれないばっかりに……だから、今夜はそのお詫びをしたいの」


 閉じられたドアに少年は視線を向ける。ロックがかかっていることを示す赤いランプが点灯しているのを見て、彼は諦めたように瞼を閉じた。

 この部屋のキーはカグヤだけが持っている。複数台のカメラで監視されたこの部屋は、彼女が息子を飼うために作ったかごだ。


「な、何をするの、母さん」

「一つになるのよ。それはとても気持ちいいことなの。私が与える愛を、あなたは受け入れるだけでいいの。簡単なことよ」

「……ひ、一つに……?」 


 一つになる。カナタは前もどこかでそんなことを言われた気がした。

 だが、思い出せない。記憶のどこかにあるのは確信できるのに、引き出せない。


「誰かが見たら、この行為は禁忌に映るかもしれない。でもね……それでいいの。儀式には痛みが伴うもの。神に捧ぐにえが、命を奪われるようにね。タブー視される行為でも、そこに正当性を持たせれば、その人の中では間違ったことにならない」


 自分の行動を肯定するように、言い聞かせるように、カグヤは口にした。

 少年のパジャマに手を伸ばし、するすると脱がせていく。彼の首元のあざ――いつからあったものかは彼自身も覚えていない――を目にして口許の笑みを深めた女は、「目を開けて?」と促した。


「か、母、さん……!?」


 カナタの眼前に曝されていたのは、抜けるように白い肌と豊満な乳房。

 動揺する少年に慈愛に満ちた微笑みを向けるカグヤは、彼の手を取って自身の胸元へと運んだ。


「好きにしていいわよ。それくらいの対価は払うわ」

「……な、何を言ってるの、母さん? ぎっ、儀式だとか対価だとか……ぼ、僕には何も分からないよ」


 少年は困惑するしかなかった。

 そんな無垢な彼を、これからカグヤは自らの手で汚していく。

 枕を背もたれにして寄りかかった女は、少年を抱き寄せてその胸で包み込む。

 混乱しながらも身体は反応してしまうカナタに「可愛い」と小さく笑みを漏らしながら、彼のいところを探して指で愛撫する。

 

「なっ……やめっ、て、母さん。ぼっ僕、ぅあっ、僕、こんっ、なのぉ、知らなっ……」

「この辺がいいの? ふふっ、いいわ、もっと弄ってあげる」 

 

 知らない快感は少年にとって恐怖でしかなかった。

 それを目覚めさせていく母親は、得体の知れない何かにしか映らなかった。

 気づけば全ての衣服を脱がされていたカナタは、異様に速さを増す鼓動とどこからか押し寄せてくる快楽の波に、満足に言葉を発することもできなくなっていた。

 何かが来る――彼がそう感じた瞬間。

 カグヤは突然、少年の痣が目立つ首元に()()()()()


「っ、あっ、あああっ――」


 その時、快感を掻き消す痛みが鋭く少年の頭を焼いた。

 それと同時に胃の中身が一気に逆流してくるような激しい吐き気と、鈍器で殴打されたのではと錯覚するほどの頭痛が襲い来る。

 脳裏には彼の知らないはずだった光景がフラッシュバックする。

 黄昏の公園。風もないのに揺れるブランコ。誰かの声。自分はその誰かに呼ばれて、彼の願いに応え、そして――。


『ぼくと一つになろう』


 虹色のもやのような人影が、カナタの影に重なった。

 その途端、身体を襲ったのは強烈な動悸と身体のふらつき。地面に膝をついた男の子の視界には、これまで見えもしなかった白や黒、黄金など、様々な色をした靄に似た影が、いくつも現れていた。


「こっ、これは、何……!?」

『ぼくらの同胞さ。君たちが【異形】と名づけている存在は、ぼくらの中でもヒトに存在を認められた存在に過ぎないんだ。「魔道書ゴエティア」に記されていないぼくらの仲間は、こんなふうに何処にでも漂っているものなんだよ』


 見えざる者の言葉を聞いたと同時に、少年の首元は熱を帯びた。

 ブランコのそばの水溜りを覗くと、首に稲妻のような痣が生まれているのが見えた。


『ぼくと一つになった証さ』



 暗転、そして明転。

 窓が開け放たれて涼しい風が吹き抜ける部屋の中、全裸でベッドに横たわるカナタは、隣にいたはずの母親が忽然と姿を消したのに気づいた。

 快感と一緒に自分が出したものも拭き取られていて、布団は肩まで被せられている。

 上体を起こした少年は未だじんじんと痛む首に手を当て、傷の様子を確認するためにベッドを抜け出て壁際の鏡の前まで向かった。


「あ、あれ……?」


 彼は唖然とした。確かに痛んでいるはずの箇所に、傷は一切見当たらなかったのだ。

 ではこの痛みは何なのか。母親にいきなり噛み付かれ、裂けた皮膚や流れ出た血はどこに行ったのだ。

 そもそも、何故噛み付かれてしまったのか――それを考えても、カナタは何にも思い至れなかった。 

 何かがそこにあった気がするのに、思い出せなくなっていた。


 少年の首の痣はその夜に消え、彼がこれまで見ることができていた靄のような影は見えなくなり、それにまつわる記憶も跡形もなく消え去ったのであった。

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