第二百九十四話 舞い降りる剣 ―Raphael descent―
黒羽ツグミはただ、見つめることしか出来なかった。
【ゼルエル】が戦場から追放され、【ラミエル】が四肢と翼を切断されて、【レリエル】は味方の放った光線に射貫かれた、その瞬間を。
「おい……おいおい……」
何だってんだよ、と。
男は誰に言うともなく乾ききった呟きをこぼす。
頭から血の気が引いていく。拠って立つ地面が突然失われたかのような感覚を覚える。
圧倒的だった。配下の【異形】たちを失ってもなお、たった一体で歴戦のパイロットたちを一撃も被弾することなく沈めた。
それだけの力を有する『プルソン』に、所詮【イェーガー】の改造品に過ぎない【カーオス】が勝てるはずがない。
ならば逃げるほかないが――逃げたところで多少死期が延びるだけだ。
結局、都市は『プルソン』に滅ぼされ、人類は絶滅する。
「……ちくしょう。……ちくしょおおおおおおおおおおおおおッッ!!!」
煮え滾る怒りを叫びに変えて、ツグミは血の涙を流した。
兄の眠る銀色の箱を地面に横たえ、敵を睥睨し無謀な突撃に臨む。
責任を果たす。そう、兄と約束した。
黒羽ツグミが為すべきは、『黒羽組』の同胞たちを最後まで守り抜くこと。
たとえ勝てる見込みがゼロに限りなく近いとしても、戦うことを止めてはならないのだ。
「プルソン!! 俺は、お前を――」
許さない。
その言葉が男の口から発されることはなく。
男の叫びを雑音と見做した『プルソン』が無情に放った光線が、【カーオス】の片翼を撃ち抜いて墜とした。
三機の【七天使】が退場してもなお特攻を果たさんとした勇壮の戦士が、倒された。
その非常な光景は、兵士たちの精神をへし折って余りあるものであった。
一人が恥も外聞もかなぐり捨てて悲鳴を上げたのを皮切りに、戦場は叫喚に支配された。
「う、うわあああああああああああああッッ!?」
「もう駄目だ……人類は終わりだ……!!」
「逃げるな貴様ら! それでも軍人か!!」
「何馬鹿なこと言ってるんですか……戦ったところでもう、どうにもなりませんよ……」
恐怖に頭を抱える者に、絶望に腰を抜かす者。
触発されたように敵前逃亡を開始する兵士たちを叱咤する指揮官に、全てを諦めた抑揚のない声で上官を否定する副官。
敵の攻撃で壊滅する以前の問題だった。都市を守るはずの兵士たちがその使命を捨て、我先にと『基地』へ戻らんと逃走していく。
戦線は完全に崩壊した。
「戦いを止めるな! ミコト殿下ら【機動天使】壊滅の報は入っていない、まだ希望が潰えたわけではないのだ――」
司令室では冬萌大将が全SAMへ懸命に呼びかけていた。
だがその声は最早、誰の耳にも届いていなかった。
そのとき真横から耳を劈いた銃声に、大将は前のめりになっていた上体を跳ね起こす。
そこにはつい先ほどまで隣で指示を飛ばしていた副官の遺骸があった。
「大将……私たちももう、限界です。不甲斐ない我々をどうか、お許しください」
「待てっ、早まるな! 指揮官たる者、兵士を残して自害など――」
ぱんっ、ぱんっ、と。
無機質な音が響いた後に、どさりと肉の塊が重なり落ちる音が鳴る。
凍りつく冬萌大将の目の前でモニターに映し出された光景は、歴戦の老兵の心をもへし折って余りあるものだった。
『殺戮のオーケストラ、最終幕だ。思い知るがいい――これこそが「運命」なのだと!』
ワームホールとも異なるどす黒い魔力が『プルソン』の身体を包み、呑み込み、その形状を変化させていく。
地表から、そして地下から湧き上がってくる漆黒の粒子が天へと昇り、『プルソン』に吸収されていった。
理不尽な死、圧倒的な絶望。それはヒトも【異形】も問わず、その者の負の感情を喚起する。
そこから生まれ出でた闇の魔力を掬い上げ、掻き集め――魔神は「怪物」へと生まれ変わった。
『ヒトを滅ぼす! その果てに私も滅ぶ! 故郷でも、この星でも、知的生命体が世界を汚すのだ! それは我々とて例外ではない! ヒトと同じように何かを憎み、怒り、害そうとする! 知性があるから兵器を作る、知性があるから無為に殺す! この世に知的生命体が生じてしまったこと、それ自体が罪なのだ!!』
心臓のように脈打つ、巨大などす黒い肉塊。
核たる『プルソン』の身体を中心とするその醜悪な物体は、花弁のごとく広がって百合の花のよう。
葉脈にも似た血管を走らせ、ぬめりを帯びたその花弁の根元からは無数に長大な触手が伸び、のたうっていた。
地を撫でるそれが逃げ惑うSAMたちを無慈悲に捕らえ、締め上げ、その魔力を奪い取っていく。
『さあ、共に破滅し罪を雪ごうではないか!』
阿鼻叫喚の地獄。死にゆく兵士たちの魔力を栄養として太く肥えた触手の先端が、「実」をならしたように膨らんで、割れる。
そこから産み落とされしは、無数の名もなき悪魔たち。
どす黒い血を浴びて産声を上げた漆黒の翼と青い肌を持つ人型の【異形】が、残存する全ての人類を殺戮せんと舞い降りた。
「破滅……それが運命であろうとも、私は――」
抵抗すら許されず兵士たちが一方的に蹂躙されていくなか、たった一機、『基地』から飛び出すSAMの姿があった。
旧型の【イェーガー・指揮官機】で出撃する彼は、冬萌ゲンドウ陸軍大将その人である。
他の誰が戦えなくとも、人類を守る盾として最期まで役割を果たす。
父としてゲンドウはユキエにそう教え続けてきた。そして娘はその教えに従って、命を落とした。
ならば己もその役目を貫き通すのが道理だ。
「――ぜああッ!」
老いてなお猛々しい気合いを口から迸らせ、男はすれ違いざまに悪魔たちを斬り払っていく。
流麗なる銀の軌跡を描く剣が敵の命を瞬く間に刈り取り、その絶鳴を連鎖させた。
「見ていろユキエ――これが父の生き様だ!!」
飛びかかってくる悪魔の翼を断ち、手足を寸断し、胴を両断する。
その剣撃は正しく大嵐であった。
舞い踊る白閃と散りゆく緑血の飛沫の中、台風の目となる男は瞋恚の炎を宿した瞳で『プルソン』を見据える。
「身勝手な破滅主義で人類を滅ぼそうなどとは言語道断! 死にたいのなら独りで死ね、理知ある【異形】よ!」
『だがヒトもそうだろう! 誰より上へ、誰より先へ、己が他者への優位性を獲得するためにそのエゴを剥き出しにして争い合う! その身勝手さが自らを破滅させるとも知らず――!』
四肢を肉塊に呑まれ、あたかも磔にされたような状態で『プルソン』は叫んだ。
彼の燃えたぎる黒い炎に呼応するように、花弁の雄しべにあたる部位から触手が一気に展開され、ゲンドウの【イェーガー・指揮官機】へと急襲した。
「エゴだけが人類の全てではない! 軍隊はその思いを一として人々を守る! そこには己が命を擲ってでも無辜の民を生かすという、尊い精神があるのだ!」
『では何故奴らは逃げるのだ! 奴らが君と同じ軍人であるというのなら、最後まで戦い続けるはずだろう! にも拘わらず奴らは戦いを放棄した! それを身勝手と言わず何という!』
剣の一閃が肉薄する触手を切断する。機体を絡め取らんとするその手から逃れ、『プルソン』本体へと差し迫ろうとするゲンドウだったが――
『全ての人類が君のように高潔であればよかったのだがね。しかし世界はそう美しくはない!』
禍々しい産声と共に結集した悪魔たちが、彼の背後から一斉に漆黒の光線を照射する。
人類の罪悪を叫ぶ『プルソン』の声に、ゲンドウは自らの終焉を悟った。
触手と光線。その両方とも回避するのは【指揮官機】のスペックでは不可能だ。
苦し紛れの『アイギスシールド』が死の灼熱に溶かされ、壊れる。
(すまない、ユキエ。父は、人類を、守れなかった――)
コックピットに光線が到達するまでの一瞬、男が最後に思ったのはそんな後悔だった。
戦線の崩壊。その引き金となったのはツグミの敗北ではあるが、逃げ惑う彼らの教育者であったのはゲンドウだ。責任は彼にある。
この死は誇り高き死では決してない。至らぬ男に与えられた、罰なのだ。
男がその苦罰を受け入れ、最後に意識を手放そうとした、その瞬間だった。
――白い閃光が、迸ったのは。
『これは――!?』
『プルソン』が驚愕を露にする。
目を開いたゲンドウは、見た。
自らの機体を包み込む格子状の光の檻を。その檻に阻まれて跳ね返される黒色の魔力光線と、それに射殺される悪魔たちの姿を。
『【グリッド・ケージ】』
凜々しさとあどけなさを両立した柔らかい少年の声が、その魔法名を唱え上げた。
その声に冬萌ゲンドウは胸を震わせる。
娘とは別の戦場で、同じ使命を抱いて実の母を止めるため戦った勇敢なる少年。
その彼が今一度、都市の人々を護るために舞い降りたのだ。
「月居……少年」
『あっ、あとは、任せてください。ぼっ、僕が、『プルソン』さんを止めます』
どもりながらもその声音はどこまでも凪いでいた。
悲壮なまでの覚悟を宿して混沌の戦場へ帰還した少年に、ゲンドウは一人の軍人として、そして一人の父として賛辞を贈った。
「大きくなったな……。都市は、人類は頼んだぞ、カナタ君」
ゲンドウが見上げる先には、赤緋の光輝を放つSAMが一機。
浮遊する真紅の結晶で形成された羽衣を纏い、肩から腰にかけては輪状に連なる結晶の襷を掛けた、天使の如き容貌。
銀色の体躯に紅の光芒を帯びるその名は、【ラファエルオリジン】。
レイの【メタトロンO】と同じく『花弁の結晶』の力を取り込んだ、全てのSAMの記憶を引き出すことが出来る規格外の機体である。
『いっ、行くよ、マナカさん、マオさんッ!』
他人が嫌いだった。誰も信じることが出来なかった。誰もいなくなってしまえばいいのにと、本気で願ったこともあった。
中学時代から『学園』入学直後にかけて、月居カナタという少年は他者への恐怖心に満ちていた。
そんな彼を変えたのが、『学園』で出会った二人の人物だった。
一人は瀬那マナカ。彼女は理知ある【異形】との最初の邂逅であった『パイモン』戦の渦中、カナタへ混じりけの無い好意を訴え、彼を深海の孤独から掬い上げた。
もう一人は早乙女・アレックス・レイ。彼は初めカナタと反目していたが、前期中間試験での『ラウム』戦を経て友人となり、その後は度重なる死地を共に超えて無二の相棒となった。
二人との出会いがあったから、カナタは他者を信じてみようと思えるようになった。『学園』や『レジスタンス』、『リジェネレーター』で結んだ絆は、カナタの世界を広げてくれた。
(母さん。僕は戦うよ。母さんが期待して、そして絶望してしまったヒトの世界が、僕は好きだから――)
全てが綺麗な訳ではない。カグヤや『プルソン』が唾棄する汚さも当然ある。それでも、そこに自分は生きているから。大切な人たちが生きているから。月居カナタは、この清濁併せ持つ世界を護りたい。
『戦いは怖くない、カナタ? もうあん時みたいにベソかかないでよね』
「だっ、大丈夫だよ、マオさん。ぼっ、僕は……君たちやレイ、皆の顔を思い浮かべるだけで、すっごく勇気が湧いてくるんだ」
初めて直属の部下を失った『プルソン事変』で、少年は深い心の傷を負った。
自分には戦う資格なんてない。そう自分を否定し、追い込み、自死を選ぼうとした。
だが凍てついた世界の中、そんなカナタを温めてくれたのがレイであった。
レイはカナタの悲しみを、怒りを、苦しみを、嘆きを受け止め、共感した。これからも共に生き続けようと言ってくれた。その言葉にカナタは救われた。こんな自分でも生きていていいんだと、前を向けるようになった。
だからカナタはもう一度戦える。どんな過酷な運命にも抗える。
『だったらいいけどさ。クソみたいな奴らばっかの世界だけど、皆が皆そうじゃないって、アンタが教えてくれたから……アタシも全てを出し切って戦うよ』
『君の力になりたい。最初から最後まで、私は君のそばにいたいんだよ、カナタくん』
表裏一体の少女たちはカナタに温かく寄り添う。
カナタの優しさにマオは救われた。彼との対話を経て人類への憎しみから解放された後、彼女に残ったのはカナタへのどうしようもない愛情であった。
『コア』に刻み込まれた精神のみの存在となった彼女が、彼のために出来ること。
それはSAMとして戦い抜くことだけであり――それが今回で最後になってしまうのだとマオは悟っていた。
『寂しいけど……それが一番いい未来なのかもね』
SAMが戦闘の道具ではなくなる未来。
相棒と共にそれを構想し始めたカナタの選択を、マオは尊重する。
「まっ、マオさん……た、戦いが終わっても、君とマナカさんがいなくなってしまうわけじゃない。だから、これからも」
『雑魚はアタシが潰す! カナタ、アンタは『プルソン』本体に集中して!』
声を張り上げて早口に言うマオにカナタは苦笑した。
羽衣から分離した結晶の一粒一粒が『アームズ』のごとく飛び回り、放つ光線のオールレンジ攻撃によって『悪魔型』の【異形】たちを瞬く間に撃破していく。
が――散っていった悪魔たちの魔力を吸い上げて、新たな個体が触手にぶら下がった「実」から産み落とされてしまう。
「たっ、ただ倒すだけじゃ敵の総数は減らせない――や、やっぱりマオさんの言うとおり、『プルソン』さん本人を討たなければ戦いは終わらないんだ」
自身の『アームズ』が撃つ白銀と悪魔たちの乱射する漆黒が飛び交う空を突っ切り、【ラファエルO】は『プルソン』へと迫る。
『既に運命は私が定めた! 邪魔をしてくれるな、少年!!』
「せっ世界の未来は、あなた一人が決めつけていいものじゃない!!」
夥しい数の触手が一斉に肉塊の内部を突き破り、襲来する。
その威容にかつて班の仲間たちを奪った『アスタロト』のそれを重ねるカナタは、柳眉を吊り上げ、熱い呼気を歯の隙間から噴出させた。
身体が赤く燃えたぎる。銀髪が逆立ち、爪牙が伸びる。
『獣の力』の発現。己の内に宿っていた「カムパネルラ」が遺した能力を解き放つ。
「うっ唸れ雷鳴――【招雷剣】!!」
抜いた瞬間、轟き迸る稲妻。
白く閃く刃の軌跡が全方位から牙を剥く触手を断ち切り、灰燼に帰した。
「ぷっ『プルソン』さん! 僕はあなたを止めます!!」




