第二百八十七話 名もなき英雄たち ―The Second Coming of the Angels.―
『小鬼型』の【異形】は一兵卒の【イェーガー】でも容易く蹴散らせる、いわゆる「雑魚」として知られている。
だが、その雑魚でさえ――生身の人間が相手取るのならば、一転して脅威へと変わる。
避難民が押し寄せていた『学園』のグラウンドにて。
正門や裏門を訓練用の【イェーガー】が守り、上空の『飛行型』を『レジスタンス』の小隊が撃墜していく中、その穴は人々の真下に開いた。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!』
「きゃああああああああああああああああっっ!!?」
歓喜の雄叫びと恐怖の絶叫が重なる。
不幸にも足下にワームホールが出現した者が闇に呑まれていくのを他所に、「雑魚」たちは蹂躙を開始した。
ある個体は寄り集まって震えていた子供たちの胸ぐらに掴みかかり、その矮躯に似合わぬ膂力で地面へと叩き付け。
ある個体は逃げ遅れた老人の身体を踏み越え、若い女性の脚を引っ張って捥ぎ取り。
またある個体は、背後に恋人を庇った勇敢な男子学生の喉笛を爪で切り裂いた。
「逃げろ、逃げろおおおおおおおおおお!!」
「にっ、逃げるってどこに!? もう都市中【異形】まみれだぞ!?」
「終わりだ、今度こそ人類の終わりなんだ!!」
声を枯らして同胞に促しても、その言葉に金切り声を返しても、頭を抱えて嘆き叫喚しても、この地獄は何も変わらない。
SAMがなければ人類など、爪も牙も持たぬ「雑魚」に過ぎない。
最初から弱者でしかなかった彼らを地下の避難所へ導く砂木沼ミサト教諭は、共に誘導に当たっていた同僚にして親友の沢咲アズサ養護教諭と視線を交わした。
「アズサちゃん、あなたも中へ! いま怪我人を救護できるのはあなただけよ」
「――でもっ」
「私の心配はいい。あなたはあなたの仕事をするのよ。教師として、私も自分の役目を果たすわ」
雪崩れ込んでくる人々で一杯になっている地下の大空間の鉄扉を後ろ手に閉め、ミサトは持っていた錠前を手早くそこに掛ける。
教師として自分にできることは何なのか。
そう自問するまでもなく、答えは既に導かれていた。
「今こそ実戦の手本を見せる時よ、砂木沼ミサト!」
普段はSAM格納庫として扱われている大広間の入り口を抜け、外に運ばれている【イェーガー】のもとへ駆ける。
埃を被った訓練機の足場をどうにか上った彼女はコックピットへと飛び込み、久方ぶりに機体を起動させた。
「教え子たちに恥じない戦いを、私も――!」
*
考えられる限り最悪の事態が起こっている。
夜桜シズルは光線の飛び交う空を一瞥しつつ、無人の道路をひた走っていた。
耳にこびりつくほど聞いてきた【異形】の声がしない道を選び、『レジスタンス』本部のある中央区画へ向かう。
無謀な行進だと自分でも分かっていた。
ここから一体も【異形】に出くわさず、五体満足で目的地に辿り着くなど不可能に限りなく近いことは重々承知の上だった。
それでも彼女は走ることを選択した。
成功の確率がゼロパーセントであると断言できない以上、最後まで抵抗を諦めない。
何故ならば、夜桜シズルは『レジスタンス』隊員であるから。
たとえその組織から放逐されようと、心の中にあの初志は燃え続けているから。
「積み上げた屍がっ、その亡霊が、『諦めるな』って耳元でがなり立てているのよ……!」
平和のために数え切れない仲間を死なせてきた。その屍で道を作り、歩んだ先に夜桜シズルはいる。
走れ。走れ。走れ。
と、その時――飾り気一つないスウェット姿で駆ける彼女の姿を、上空から見出した兵士がいた。
『おい、そこの人! 一人で逃げちゃ危ない!!』
立ち止まり、振り仰ぐ。
その【イェーガー・空戦型】の機体に『レジスタンス』の紋章を認め、シズルは彼の力を借りることに決めた。
「私は夜桜シズル元陸軍少将! 私を乗せて頂戴!!」
『よ、夜桜少将!? どうしてここに――』
「話は後よ! いいから乗せて!」
切羽詰まった彼女の要請に兵士はやむを得ず応じ、降下した。
手早く機体に搭乗したシズルは兵士に行き先を告げる。
「『レジスタンス』本部に連れて行って! アスマ君の発言が正しいなら、そこに有事に備えて旧【七天使】機が安置されているはず」
その言葉に兵士は彼女の意図を察し、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
彼は空軍の所属ではあるが、偉大なベテランとして夜桜シズルというパイロットのことは尊敬していた。そんな彼女が戦場に戻ってくる――その事実はこの絶望的な状況にあっても、彼を大いに勇気づける。
「了解であります! 少々、飛ばしますよ!」
*
同じ頃。
都市中に木霊する人々の悲鳴を聞きながら、麻木ミオは思うように動かない脚に鞭打って車椅子を押していた。
彼女の思いもシズルと同じだった。
自分もSAMに乗って都市を脅威から守りたい。
たとえ生身の身体が動かなくとも、脳さえ無事ならSAMは十全に戦える。
「どうか……どうか、応答して」
陸軍時代に連絡先を交換していた相手に片っ端からコールを掛けているが、未だ反応はなかった。
無理もない。この有事で呑気にスマホを眺めている軍人など、いやしないだろう。
「せめて……生駒中将だけでも、安全な場所へ……」
誰からの応答も得られないまま時間だけが過ぎていく。
いつ【異形】が穴から落ちてくるか分からない極限状態の中、焦燥感に支配される。
自分はいつ死んでも構わない。それでも生駒中将だけは、戦いから解放されてようやく楽になれた彼だけは、死なせたくない。
何が何でもセンリを『レジスタンス』本部へと送り届ける。そんな決死の覚悟でミオは眼帯に覆われていない方の目を眇め、小径の先を見据えた。
その時だった。
「――【異形】」
曲がり角からのそりと顔を出す、『巨豚型』。
体高三メートルを超す巨躯の足音が全く聞こえなかったなど、有り得ない。それが意味するところはつまり――。
「く……!」
この近くに新たなワームホールが出現したということだ。
ミオはまず車椅子のセンリを一瞥し、それから五十メートルほど先にいる【異形】を見た。
目が合った『巨豚型』はワームホールから転送されてきたばかりで何が何だか分からないでいるかのように、呆然としていた。だが視野の中に獲物である二人の人間を捉え、目の色を変える。
踏み出される一歩が道路に振動を響かせる。
逃げなければ。そう本能が激しく訴えかけてくるも、『同化現象』に犯された身体は思うように動いてくれない。
ミオが一歩踏み出す間に『巨豚型』は五歩の距離を詰めてくる。
今の自分は【異形】の中でも鈍足な種にすら劣る――その現実を突きつけられ、彼女は足を止めてしまった。
「ああ……」
車椅子の横に膝を突き、最後まで一緒ですと敬愛する上官を抱きしめる。
醜悪な豚面を笑みの形に歪める【異形】を前に、ミオは最期まで抗う姿勢だけは捨てまいと敵を睥睨し続けた。
一歩、また一歩、死の足音が迫ってくる。
「殺すなら、殺せばいい……ですが、私の意志はお前たちに喰われようとも死ぬことはない! この思いは……贖罪は、生き残った『レジスタンス』の者たちが必ず……!」
『プルソン事変』に参戦した全ての軍人はあの時、人が人を撃つというあってはならない罪を犯した。
全ての兵はその十字架を背負い、この災厄から人類を守り抜くことで罪を贖おうとしている。
ミオの戦いはここで終わりだ。それでも、同じ意志を持つ『レジスタンス』兵たちがきっと受け継いでくれる。
が、その瞬間――銃声が轟き、【異形】の巨体がぐらりと頭から地面に倒れ伏した。
足元が揺れる衝撃にミオは覆い被さるように車椅子を押さえ、それから空を見上げる。
「え……?」
そこにいたのは見慣れぬ闇色のSAMだった。
【イェーガー】よりも二回りほど小型なその機体は足下へ小銃を乱射し、出現していた他の【異形】を淡々と処理していく。
やがて銃声が止んだ後、未知の市街戦型SAMはミオとセンリの眼前へ静かに降下し始めた。
『……麻木ミオ元陸軍中佐と、生駒センリ元陸軍中将。間違いないな?』
艶のある男の声に確認され、ミオは言葉を返すことが出来なかった。
その声は彼女のよく知る蓮見タカネその人に瓜二つだったからだ。
しかし、タカネは本部で作戦指揮にあたっているはず。ここにいられるわけがない。
一体この男は何者なのか――その問いに先んじて、男の側から己の正体を明かしてくる。
『俺は黒羽ツグミ。都市の混沌を壊す者だ』
「は……?」
都市随一の暴力団頭首の名を出され、にわかには状況を理解できないミオ。
その困惑を無視して【イェーガー・カーオス】は、ミオと車椅子ごとセンリを掴み上げた。
「なっ、何をするのです!?」
『いいから大人しくしてろ。「レジスタンス」本部まで連れてってやる』
「……何故、あなたが……!?」
『馬鹿げた夢のためにぶっ壊さなきゃならない相手がいる。この惨状をどうにかしたいってのは、俺たち逸れ者も同じなのさぁ』
ハットの鍔をくいと上げ、黒羽ツグミはニヒルに笑う。
SAMの腕に抱えられたままのミオはそれ以上、何も言わなかった。
彼女はただ悲しげに、虚ろな目をしているセンリを見つめる。
嗚呼――またこの人は戦いという名の地獄に引き戻されてしまうのか、と。
*
地上では無数の砲撃が飛び交っていた。
「『対異形ミサイル』、撃ぇッ――!!」
「【ベルセルク】隊、砲撃用意!」
【イェーガー】も【ベルセルク】も、とうに型落ちした【ゾルダート】までもが投入された、基地防衛の最前線にして最終ライン。
後衛を担う名もなき兵士たちは増えつつある前衛の討ち漏らしに脂汗を滲ませながら、絶えず砲撃を【異形】たちにぶっ放していた。
「敵の数が多すぎる! これでは、【輝夜】であっても――」
「弱音を吐くな! 蓮見司令を信じろ!」
現場指揮官も最早、精神論に縋るしかなくなっている。
比喩抜きに、前衛の【輝夜】は破壊の化身であった。
見えざる斬撃を飛ばす太刀は敵の大軍勢を崩壊させ、その足元に出現した魔力の黒薔薇が放つ触手のごとき茨の蔦は空中からの接近を許さない。
遠近距離双方を攻撃可能な【輝夜】は、まさしく全方位を殲滅する最強の機体といえた。
が、その最強の「個」も――圧倒的な「数」を前にすれば、全能ではなくなる。
「っ、また穴が!!」
「光魔法急げ! すぐに打ち消すんだ!!」
【輝夜】のカバー範囲を飛び越えて、後衛側へと直接【異形】を送り込むワームホール。
打ち消せども打ち消せども新たに出現する黒き穴に、人類側は大いに疲弊させられていた。
「チッ、魔力切れだ――」
「こっちは残弾が尽きた! くそッ……!」
「後退しろ! 急ぎ補給を行え!」
各所から上がる魔力や弾切れの訴えに、補給部隊が引っ切りなしに対応を迫られる。
後衛のさらに後方、『基地』の敷地内を狙うように上空へ開いたワームホールからは『飛行型』の軍勢が投下され、雨のような光線の掃射を降らせていた。
「っ、こっちまで……!?」
「怯むな、任務に集中しろ! 補給の遅滞はそれだけで敗北に直結する!」
『基地』全体を覆う『アイギスシールド』が光線の嵐から補給兵たちを守っている。
だが、それもいつまで続くか分からない。基地のシステムによって展開される『アイギスシールド』はSAMのそれの何倍も強固であるとはいえ、所詮は魔法だ。絶えず魔力を浴びせられ続ければ少しずつ表層を削られ、いつかは崩壊する。
「司令の担う前衛側に出現している【異形】の数がますます増えている。あの『幻影』を雑兵にかかりきりにさせるのが敵の狙いか」
「だとすれば司令に後退していただき、こちらと合流するのが最善策か? しかし――」
「ああ……奴もそれは理解しているだろう。前衛と後衛の合間に【異形】どもを肉壁として投下し、『幻影』の動きを妨害しようとしてくるはずだ」
若き指揮官たちの推測は正解だった。
その読み通り『幻影』と後衛部隊を分かつように次なるワームホールが開き、【異形】たちが地上に降り立っていた。
『幻影』は見えざる刃と茨の蔦を駆使し、近づく敵を掃討しているが――出現し続ける無数の【異形】の前には、それもいたちごっこだった。
「このままでは『幻影』が無駄に消耗するだけだ! 我々のリソースは無限ではない……何処かに隠れている『プルソン』を発見し、叩かなければ状況は変わらないぞ……!」
「だが、どうやって敵の位置を特定するっていうんだ!?」
「一か八かあのワームホールに飛び込んでみたらどうだ? 第二次プラント奪還作戦ではそれで上手くいった!」
「今回も同じだとは限らないだろう! それで貴重な戦力を失ったらどうする!?」
状況を打開できなければ、敗北は必至。
地上も地下も関係なく【異形】に蹂躙され、人類は帰る場所を失うだろう。
最強の機体を駆り出してもなお変わらない戦況に、指揮官たちがその冷静さを徐々に剥離させてしまうなか――彼らを死地に送り込んだ男が、開口する。
『突破口の鍵が、間もなく届く。あと少し、もう少しだけ、時間を稼いでくれ。誰よりも勇敢な戦士たちよ。名もなき英雄たちよ』
力強く言い渡す冬萌大将の声に、青年士官たちはその横顔に悲壮な覚悟を宿した。
突破口の鍵が具体的に何を指すか、大将は明言しなかった。それでも彼らはその鍵とやらが戦況を好転させるのだと信じて、部下たちに基地の死守を命じていく。
「命を懸けて戦線を維持せよ!! 兵士よ、戦え!!」
砲弾と銃弾、光線が乱舞する最終防衛ライン。迫る【異形】の鯨波を押し返す勢いで兵士たちは吼え猛り、ありったけの弾と魔力を敵へぶちまけた。
【ベルセルク】隊は爆発音と断末魔の絶叫が連鎖する戦場を俯瞰しつつ、『飛行型』の集団へすれ違いざまに弾幕を浴びせかけていく。
硝煙の中を突っ切って新手の敵を即座に排除する彼らは――ふと、背後から届く兵士たちのどよめきを聞いた。
一体何が起こったというのか。まさか戦線が破られたのか。いや、違う。この声は――高まる熱狂は、歓喜の叫びだ。
「これは……!?」
『待たせたわね。あとは、私たちに任せて頂戴』
艶やかな女性の声が指揮官たちの耳朶を打つ。
その言葉に彼らは目を潤ませ、胸を熱くした。
『基地』上空に躍り出ていたのは漆黒のボディの胸元に白い十字架を刻んだ、闇色のマントを靡かせるSAM。
先端にアメジストのような宝玉を嵌め込んだ長杖を掲げる天使の名は、【レリエル】である。
『不肖ながら戦場に舞い戻りました。――出撃します』
硝子色の機体が射出機より飛び出し、空へ溶けゆく。
ステルス機能によって姿を消した光の天使【ラミエル】は敵の視覚外から閃光の雨を降り注がせ、『幻影』の前方にいた敵軍を一掃した。
「夜桜少将、麻木中佐……!」
『二人だけじゃないぜぇ。お前らの崇めるあの方もご降臨だ!』
司令とよく似た声が告げる三機目の天使の登場に、指揮官たちは胸を打たれた。
十メートルを超える偉躯。肩幅の広い漆黒のボディに胸部や肩部を黄金のプレートで覆った、獣のごとく爪牙を伸ばした禍々しい威容。
力の天使【ゼルエル】。その存在は人類の反抗の象徴であり、武の極致だ。
『暴れてやれ、生駒センリ! そこの姉ちゃんのためにもよぉ!』
『……騒がしい』
無愛想な返答。だがそれでいいと、黒羽ツグミはニヤリと笑う。
『飛行型』の軍勢の合間を掻い潜り、一直線に前衛側へと突き進んでいく【イェーガー・カーオス】を見送って、『阿修羅』こと生駒センリは視界に広がる獲物たちの一景を静かに見据えた。
「……これが最後の戦いだ」
深く息を吸い、そして吐く。
感情の切り替えにはそれだけで十分だった。数え切れないほど繰り返してきたルーティンが、男を戦いのための機構へ変えていく。
ただ一つ、これまでと違うのは――彼が戦う理由を『憎悪』以外に見出したことだ。
「生駒センリ、【ゼルエル】――出撃する!」




