第二百八十二話 無慈悲 ―Angels and Demons―
テナは叫び続けていた。
他とは異なる周波数の魔力を感じる東の方角を目指しながら、理知ある【異形】に声を届けようとしていた。
「『プルソン』、さん――きこえていますか、プルソンさん!? どこかでぼくらのことを見ているんでしょう、プルソンさん!」
返事はない。
その存在が近づいているという感触もまた、ない。
分かるのは以前調査に赴いたときに感知できた、超高周波数の魔力――その波紋が東の方角から確かに放たれているということだけだ。
「東、って言ったよな。どれだけ離れてるか、分かるか? 二人とも」
「……」
「ニネル?」
押し黙ってしまうニネルにアキトが呼びかける。
少女には分かっていた。理解していながら言葉にしたくはなかった。そこで起こるであろう現実はあまりに恐ろしく、想像することさえ苦痛な地獄であることが予見できたから。
「……たぶん、『新東京市』のあたり、だと思う、です」
己の内に生じた恐怖に抗い、テナは抑揚を殺した声で推測を口にした。
アキトもフユカもその言葉に絶句するしかなかった。
『新東京市』直上に『プルソン』が出現したと仮定するなら。
『レジスタンス』と『リジェネレーター』の主力が全て出払った今、『プルソン』が本気を以て都市を襲撃しようとしているなら。
それを防ぐすべは、皆無だ。
理知ある【異形】は都市の『アイギスシールド』を突破できる。『第二の世界』に干渉した『パイモン』がその前例。
『それは……本当なのか』
乾ききった声がそう問うた。
後方から急速に接近してくる気配に、アキトは振り返る。
「【アザゼル】……!」
漆黒の両翼から蒸気を靡かせてこちらへ向かってくる【アザゼルΧ】に、彼は身構える。
しかし『緊急通信チャンネル』を用いて伝えられたパイロットの意思は、アキトの警戒とは真逆のものだった。
『こちら「レジスタンス」陸軍大佐、九重アスマ! こちらに貴官らと敵対する意思はない! 僕は「新人」たちを理知ある【異形】の元へ行かせるために来た!』
【七天使】の一人が力を貸してくれるという。
だとしても――『プルソン』の襲撃が既に始まってしまっているとすれば、もう無理だ。
今から全速力で向かったところで、着いた頃には都市は壊滅しているだろう。
『もう一度聞く。テナ……さっき言ったことは本当か』
事実だけを確かめようとしているアスマに、テナは戦慄く声で「はい」と答えた。
そうか、と応じ、【アザゼルΧ】のパイロットは静かに決断する。
『プルソンを止めるぞ。ニネル、テナ。それから【ドミニオン】のパイロット。お前たちは僕と共に、都市へ最大速力で向かうんだ』
有無を言わさぬ口調でアスマは四人にそう迫った。
速度を緩めることなく東方へと直進していく【アザゼルΧ】の背中を追いながら、アキトは力なく首を横に振る。
「駄目だ……俺たちが行ったところで、もうどうにも……」
『理知ある【異形】と対話するんだろ。お前たちのその理想に活路を見いだしたから、僕はお前たちに協力すると決めたんだ。『リジェネレーター』の一員なら、最後まで理想を貫いてみせろよ。あのお姫さんのように――』
ミコトたちは今この瞬間も『第一級』の軍勢と死闘を繰り広げている。
彼女らが命懸けで戦うのはひとえに、その先に理知ある【異形】との対話が果たされると信じているからだ。
全てはニネルとテナを理知ある【異形】の元へ届けるため。
ここで突き進むのを止めることは、ミコトたちの思いを踏みにじるのと同義だ。
『――戦え』
一言。
アスマはそれだけ言って、彼らに選択を委ねた。
彼らがどうしようがアスマの行動は変わらない。ニネルとテナを『プルソン』と引き合わせる。たとえ二人が泣き喚いて拒否しようとも、首根っこを掴んで無理矢理連れて行くまでだ。
「わたし……いくよ。わたしは『都市』を話でしか聞いたことないけど……そこがミコトにとって大事な場所なら、守りたいから」
「ぼくも行く。『プルソン』さんともう一度、お話ししたいから」
それぞれの意志を胸に、『新人』の二人は先を見据える。
その揺るぎない決意を前にしてアキトは、悲壮な現実から目を背けようとしていた己を呪った。
諦めるな。最後まで足掻け。理想も使命も自分にとっては些事だ。
ただ、生き残るために――この先の未来を掴み取るために、朽木アキトは過酷な運命に抗い続ける。
「わたしたちを進ませるために『第一級』と戦ってるハルのためにも……できることをしよう、アキト」
フユカもまた、覚悟を決めていた。
兄が託してくれたバトンを、最終走者まで繋ぐこと。
それが自分たちの役割なのだと彼女は見定めていた。
怖い。恐ろしい。本当は誰とも戦いたくなんかない。
それでもフユカはずっと昔から、誰かを守るのだと思えば力が湧いてくるのだ。
「お母さんのためじゃなくて、ハルやアキト、ニネル、テナ……みんなのために、わたしはわたしの力を使うよ」
「強いな……フユカは。俺はいつだって……臆病だ」
そう自嘲するアキトへ、にやりと笑みを向けたのはアスマだった。
「臆病でもあんたはそこにいる。だろ、朽木アキト先輩?」
「……違いない」
*
「くそッ……もう、マジで、魔力ねぇぞ……!」
「ミコトさんにこれ以上の負担は掛けさせられない……でもっ、ミコトさんの魔法がなかったら、私たちは――」
【ラジエル】と【ミカエル】は背中合わせで焦土の上に立っていた。
二機の体躯が帯びていた桃色の光輝が、霧散していく。
都合五回目の「時間切れ」であった。
「まだですっ……お二人とも、わたくしの魔法を……」
シバマルとユイを支援しようというミコトの声は掠れ、か弱く震えていた。
桃髪の皇女はコックピット内でがなり立て続けるアラートの音を聞かないふりをしつつ、譫言のように詠唱を続ける。
それでも、機体は応えなかった。
限界を認識したシステムが乗り手の意思を無情に拒絶する。
【ガブリエル】の眼に灯っていた赤い光が、消えた。
「ミコトさんをっ……守るよ、カツミ!」
「分かってる! 分かってるがよぉ、これじゃあ……!」
銅像のごとく動きを停止させた【ガブリエル】を背後に庇いながら、カオルはカツミに発破を掛ける。
けれどもカツミは顔を歪め、胃から込み上げてきた血反吐を吐きつつ首を横に振った。
【エクソドゥス】は墜落した。【ラジエル】も【ミカエル】もほどなくして【ガブリエル】と同じ運命を辿る。そして自分たち二機も、そう長くない時間を経て戦う力を失う。
――終わりだ。
周囲には第一級【異形】を除いて敵も味方も存在しない、孤立無援だ。
血と硝煙の臭いが濃く立ちこめる戦場。
これまでに倒してきた『第一級』の数はもはや覚えていない。
たった五機にしてはよくやった、と自分では思う。
骨格が剥き出しになった右拳も、潰れた左拳も、中央からへし折れた『テールブレード』も立派な勲章だ。
誇り高く戦って、そして死ぬ。魔力欠乏によって朦朧とする意識の中で、それでもいいじゃないかとカツミは力なく笑っていた。
「見ろよ、カオル……たぶん、あとは、あの二体だけだ……」
「そう、だね……あいつら倒せば、終わんのかな、この戦い……」
燃え盛る巨人の『オセ』と、美男子の悪魔『セーレ』。
地響きを鳴らして進撃する『オセ』に対してはカツミの【ラグエル】が、軽やかな足取りで音もなく肉薄する『セーレ』にはカオルの【ウリエル】がそれぞれ相対した。
『オオオオオオオオオオオオオオオッッ――!』
【ラグエル】は咆吼する。
燃え盛る拳を振り下ろさんとしていた『オセ』は、その爆音波に怯んだのか僅かに動きを鈍らせた。
その隙へとカツミは自身の『テールブレード』先端の刃をもぎ取り、投擲。
片目を突き刺され緑色の血液を飛散させる巨人は絶叫し、怒りに任せて地面を踏み鳴らす。
『アアアアアアアアッ――――!!』
「いいさ、吠えやがれ……どれだけ吼えようが、叫ぼうが、俺と【ラグエル】は止められねぇがな……!」
刃を使い捨てた『テールブレード』はもう使い物にならない。
指がぐちゃぐちゃに潰れ、爪が根元から折れた拳は屑鉄と化した。
それでも――まだ脚は動く。腕も、心臓も、まだ戦えると訴えかけてきている。
ならばカツミは最後まで足掻く。
先に行かせたテナとニネルへ『第一級』の魔の手が及ばないよう、一体でも多くの敵を討ち果たすのが自分たちの使命だ。
「食らい尽くすッ!」
禍々しい顎を開き、並べた牙を炎の魔人の喉へ突き立てる。
間欠泉のごとき勢いで緑色の血液が噴出し、そして。
『オセ』の巨大な体躯が大地に崩れ落ちた。
同時に――巨人の鎧のごとき分厚い肌を食い千切った牙が、ぼろりと砕け散る。
「チッ……!」
武器をまた一つ失ったカツミは眉間に深く皺を刻み、戦闘音のする方向へ首を回した。
【ウリエル】と『セーレ』の戦い。
こちらもまた、早くも決着を迎えようとしていた。
魔法で浮かべた岩石を次々と射出し、【ウリエル】の防壁に亀裂を刻んでいく『セーレ』。
飛来する大岩の衝撃にカオルは顔を歪め、歯を食い縛った。
大抵の魔法攻撃は【ウリエル】ならば殆どのダメージを軽減できる。
しかし物理攻撃については別だ。『ナノ魔力装甲』があるとはいえ、【ウリエル】は【ラグエル】ほど打たれ強くはない。
「ちくしょう、一発食らうごとに骨まで痛むし! けどッ、そんなの――」
地面に墜落して即死した兄の痛みに比べれば、屁でもない。
身体を苛む痛苦は彼女の戦意を限界を超えて高める燃料だ。
「見えてきたよ。アンタの岩の軌道!」
防壁を展開した数十秒間は、彼女が敵の攻撃に目を慣らすための時間。
パターンも癖も脳内に焼き付けた。あとは全部躱して、近づいたところに一撃を叩き込むだけ。
「いくよ、イケメンの悪魔さん!」
隕石のごとく降り注ぐ大岩。
大地を震撼させる衝撃の数々を軽快に飛び跳ねるような動きで回避しながら、カオルは『セーレ』との距離を一気に詰めていった。
百、七十五、五十、二十五――あと少し。
抉られたクレーターを足跡に幾つも残す【ウリエル】は美男子の悪魔の顔を睨み据え、全神経を右肩から右手の指先にかけて集中させた。
抜刀の動作は決して気取られてはいけない。一撃の居合い、それで決める。
意識を研ぎ澄ませ。殺意も戦意も今は捨てろ。考えるべきはただ一つ、敵の首を刈り取るイメージだけだ。
『――!』
カオルの纏う気配の変化に『セーレ』も感づいたのだろう。
大岩の投擲を止めて即座に防壁魔法の展開へと戦術を切り替えてきた。
陽炎にも似た揺らめく魔力が悪魔の身体を包む。
初めて見る防御魔法だ。だが、関係ない。刹那の間に刃へ魔力を込め、膂力の限りを刀に乗せて陽炎ごと切り裂くのみだ。
「はあああああああああああああああッッッ!!」
この一瞬に全てを賭す。
瞬く間に【ウリエル】の右手は腰に佩いた刀の柄を握り――抜刀した。
視認できぬほどの流麗なる所作で、白刃が閃く。
だが『セーレ』の防壁に刃が触れた、その時。
カオルの視界は反転した。
「なっ――!?」
『セーレ』の能力は「物質の移動」。
大岩を砲弾のように飛ばすのみならず、彼はあらゆる物を自在に動かせる。
サイコキネシスによって空中に弾き飛ばされたカオルは、己の手から刀が分離していくのを視野の端に認めた。
「くっ――」
引き裂かれた陽炎の隙間から『セーレ』が美麗なる顔を覗かせていた。
防御の一部は破れた。しかし敵本体を倒すまでには至っていない。
体勢を立て直す余裕は皆無。魔力も今のでほぼ全部使い切った。
一撃で仕留めきれなかった。これが意味するところは一つ――風縫カオルの敗北である。
(ごめん、カツミ――)
屈辱的な浮遊感を味わいながらカオルは最後にカツミを想った。
月居カグヤの手先でしかなかった頃の自分が、都合のいい駒として選定したのが毒島カツミという人間だった。
しかしいつしか、彼に対して特別な感情を抱き始めている自分に気が付いた。
粗暴でぶっきらぼうですぐ悪口を言って偉そうにする彼の中に秘められた、勝利への貪欲なる執着に気が付いたとき――カオルは、惚れた。
こいつと一緒に勝ちたい。こいつと一緒にどこまでも上を目指したい。
優秀な兄や姉の下に見劣る弟妹同士という共通項など関係ない。一人のパイロット同士として、カオルはカツミと高め合いたい。
(ちくしょう……ちくしょうッ……!)
まだ道の半ばだった。まだ上の存在がたくさん残っていた。カナタにもレイにも、ミコトにも、兄にすらまだ追いつけていなかったのに――。
ここで、終わるのか?
『セーレ』の眼が赤く輝き、殺意の炎を激しく滾らせている。
これで終わりだ。ミコトは動けない。ユイにもシバマルにも余力はない。カツミだってきっと、『オセ』との戦いで満身創痍だ。救援などありはしない。
絶望に支配される。
「――まだ、終わりじゃなくってよ」
銃声が、一発。
カオルがその音を聞いた直後――反転した視界の中に見えたのは、陽炎の向こうに『セーレ』が上体を仰け反らせて倒れゆく光景であった。
落下の衝撃にコックピットから投げ出され、『神経接続』を強制解除されたカオルは床から操縦席へと力なく這い上がる。
まだ機能しているカメラアイがモニターに映し出していたのは、対異形ライフルを構えたままこちらへ駆け寄ってくる一機の【イェーガー】であった。
『カオルさん! 無事ですの!?』
「その声――リサリサ? マジ、生きてたの、あんた……」
『そうですわ! 脱出ポッドで【エクソドゥス】から離脱した全員、無事でしてよ!』
力強いリサの声に、カオルは思わず口元を緩めた。
リサ機の後方より他の【イェーガー】兵も集まってくる中、そこに一機混じっているセピア色の機体からパイロットが声を投じる。
『凄いんだね、このSAM。「第一級」にカテゴライズされるような【異形】の魔法も防いじゃうなんて……僕が眠っていた間にSAM理論は飛躍的に発展していたようだ』
その少年のような中性的な声は、カオルには聞き覚えがなかった。
無言でいる彼女に対し、彼のほうから穏やかに名乗り出てくる。
『僕は香椎マシロだ。月居司令の下でSAMと【異形】について研究していた科学者であり……どうやら【異形】の力を宿してしまったらしい、死にぞこないのパイロットさ』
【七天使】のマシロを知る者が聞けば別人だと驚くほどの落ち着いた口調で、彼は語った。
本来の彼は冷静沈着で聡明な人間だった。脱出ポッドの中でミラー大将とグローリア中佐から状況を聞かされた彼は、【レリエルN】に最も適合した人間として戦う道を選んだのである。
『僕がどうして理知ある【異形】に操られ、人類の裏切り者に成り下がり、そして見捨てられたのか……きっと戦うことでそれが分かるんだろう。【ぷしゅこまきあ】……だったかな。ここからは僕が戦おう。君たちはゆっくり、休んでいるんだ』
そう【機動天使】たちへ呼びかけて、香椎マシロは空を仰ぐ。
東方より最前線へと急いでいた飛空艇【フレイヤ】が、すぐそこまでやって来ていた。
「『レジスタンス』の補給艇……! 良かった、あれなら……!」
すぐに【機動天使】全員分の魔力をフル回復できると、カオルは歓喜の声を上げた。
何度も終わったと思った。第一級を倒すごとにがりがりと削られていく魔力残量を気にする度に、迫り来る死を否応なしに意識させられた。だがそれも、補給さえ叶えば考えずに済む。
死が遠ざかる。楽になれる。
しかし――震える指で操縦桿を握り締めた、その瞬間だった。
閃光が迸り、爆風と衝撃が彼女らの這いつくばる大地をも揺さぶった。
石礫の雨のごとく、飛空艇の残骸が硝煙の尾を引いて降り注ぐ。
何が起こったのかカオルには理解できなかった。
救いの手が差し伸べられる直前、無情にもそれを奪われた残酷な運命を認めたくはなかった。
「……嘘だろ」
カツミの起き上がりかけていた身体が崩れ落ちた。
シバマルとユイは寄り添い合い、互いの手を機体越しに固く握り合った。
カオルは思考を放棄してただ、虚ろな目でモニターを見つめていた。
そしてミコトは胸の前で指を組み、最後まで祈り続けていた。
『……誰か来る。僕はこの感覚を……この匂いを、知っている』
香椎マシロは天を仰ぐ。
爆発と同時に濃く匂い出した気配をマシロは覚えている。
忘れるなどあり得ない。何故ならその匂いをマシロ自身、十五年以上にもわたって纏い続けていたのだから――。
『理知ある【異形】だ』
魔法陣の中から現れ出るのは、三つの首を持つ悪魔。
牡牛、人間、山羊の頭部に、燃え盛る炎のごとき赤の瞳。左の腕に載せたオオタカを右手で撫でながら笑う人間の顔は、過日の香椎マシロと同一の無邪気さを宿していた。
序列五十一番の王。
その名を『バラム』といった。




