第二百七十九話 進撃 ―violation―
警告が全軍の兵たちに届いた時には既に、手遅れだった。
天に開きしは幾多もの漆黒の大穴。
解き放たれた圧倒的な魔力が呼び起こす爆発が周囲の雑兵を吹き飛ばし、薙ぎ払う。
爆煙の中で揺らめく影は巨大であり、それぞれに異なる形を有していた。
砲声と聞き違えるほどの雄叫びが響き渡る。
それは歓喜の声であり、人類への勝利を誓う鬨の声でもあった。
黒煙を切り裂いて、焦土を踏みならしながら大いなる【異形】たちは進撃を開始した。
「大丈夫っすか、みんな!?」
郷田コタロウ少佐の呼びかけに答える者は誰一人としていなかった。
脳内に響いた何者かからの警告――それに反射的に従って【破邪の防壁】を展開したことでコタロウの機体は立ち続けることが出来ていた。
だが、おそらく部下たちは間に合わなかったのだろう。
そう推測せざるを得ないほど、目の前に広がる光景は何処までも黒く燃え尽きて、他の生命の生存を一切許さない不毛の地へと変貌していた。
「……【異形】だ」
ヒトとは異なる形をした生命が、そこにいる。
破壊の限りを尽くし、なお次なる獲物を求めて突き進む悪魔がそこにいる。
消し炭と化した大地を呆然と見渡すしかない青年めがけて、奴らは容赦なく食らいつこうとしてくる。
『ヴウウウウウウウウウウウウウウウウウウッッ!!』
青い肌の男の顔をした雄牛の悪魔が、地の底から響き渡るような恐ろしい唸り声を上げて突進してきていた。
騎馬を鞭打ちそれを躱す【ゼラエルC】。
だがすぐさま地下より巨大な鰐の顎が開き、足下から彼を食らおうとした。
「くそッ――」
バキリ、と機械の馬が腹から咀嚼されるなか、コタロウは馬から飛び降りることでどうにか攻撃を回避する。
息つく間もなく雄牛の悪魔による再度の突進。
それを左手の盾で受け流し、そのまま左足を軸に回転しながら敵の背後に短槍の穂先を突き込む。
(さっさと倒さないと不味い――!)
焦燥感が膨れ上がる。
そうしている間にも大地をうねらせながら先ほどの鰐の顎が再出し、【ゼラエルC】の脚を噛み千切らんとする。
地面の動きを見切る一瞬。
その反応がコンマ一秒でも遅れていたら、【ゼラエルC】は二度と自立できなくなっていただろう。
『――グルオオオオオオッ!!』
獅子の雄叫びが耳朶を打つ。
二足で立つ獣人のごとき姿の悪魔がその爪を銀色に輝かせ、大地を跳ね飛ぶような俊敏なる動きで飛びかかってきていた。
さらに同時に反対方向から突っ込んでくる雄牛の悪魔。
槍を地面に突き、棒高跳びの要領で【ゼラエルC】が高く飛び上がった数瞬後――二体の【異形】が正面衝突を果たした。
(全部初めて見る【異形】だ。おそらくは第一級――そんな奴らが三体、いやもっと増えるとしたら……)
頭を振って悲観的な予測を振り払う。
自分は郷田コタロウだ。あの生駒センリの一番弟子だ。弟子というのは自称であろうがセンリの下で教育され、鍛錬を積んできたことには変わりない。
相手が【第一級】であろうが関係なしに、討つだけ――それが【ゼラエル】であり、『阿修羅』のあるべき姿だ。
「【アブソリュート・ゾーン】ッッ!!」
穴を穿つほどの勢いで槍を足下に叩き付け、魔法陣を展開する。
広がる青色の八芒星。その結界の範囲にいる者は一切の例外なく、魔法の使用が禁止される。
小細工なしの肉体の強さが勝敗を決定する、『阿修羅』の独壇場がここに演出された。
「うるああああああああああああッッ!!」
槍を手放し天空へ舞い上がり、抜刀。
腰から抜き放った白刃を、降下の勢いを上乗せして雄牛の悪魔の頸へと叩き込んだ。
断末魔の鈍い叫び。頸椎をへし折られた獣にもたらされるのは死だ。
「まずは一体――」
刀を軽く振って血糊を落としながら獅子の獣人のもとへと迫る。
雄牛の悪魔との衝突によって脳震盪でも起こしたのだろう、ろくに身動きも取れていない【異形】の頸へと刃を差し込み、仕留める。
「二体!」
コタロウの視線は既に獲物を離れ、別の得物へと向かっている。
先ほど一旦手放した槍――地下を潜行している鰐の【異形】を倒すには、リーチの長いあれが不可欠だ。
地面を蹴飛ばし、駆け寄る。
しかし【異形】もそう甘くはない。鋼鉄の戦士が移動する度に起こる振動、それを感知することで奴は敵の位置を正確に把握し――そして。
【ゼルエルC】が槍へと手を伸ばしたそのタイミングを狙い澄まし、顔を出した。
バキリ、と。
その指先が槍の柄に届く一瞬を前にして、鰐の大顎が鋼の腕を噛み千切った。
*
「艇の体勢を立て直すわ! 面舵いっぱい!!」
「『対異形ミサイル』および【レーヴァテイン】撃ぇッ! 敵を少しでも牽制する!!」
マトヴェイ総指揮官とミラー大将の指揮下にて、【エクソドゥス】の士官たちは左に大きく傾いている飛空艇の体勢を安定させんとしていた。
爆煙を引き裂いて迫り来る有翼の悪魔たちへと火器をぶっ放すが、目覚ましい効果は見られない。
羽ばたき一つで突風を巻き起こす巨鳥の【異形】らは翼に砲を直撃させられるも、そのダメージに構うことなく突き進んできていた。
「【ドミニオン】隊――ニネルさんとテナくんの保護を最優先に! 【異形】との戦闘は可能な限り避け、二人に『交信』を続行させて!」
『『『了解!』』』
グローリア中佐の命に従い、魔力爆発から見事に『新人』の二機を守り抜いていた元『使徒』の三名が役目を継続する。
彼らに負担をかけさせまいと出撃するのは湊アオイの【ガギエル】である。
『敵の数が多い――僕があの奴らを一体でも多く艇から引き離します!』
「坊主――頼んだぞ! この船の命運、お前に預ける!」
「整備班は左翼の修復急いで! このままじゃ墜落は免れないわ!」
引っ切りなしに指示が飛び交うブリッジ内にはもはや、戦場に出るパイロットの武運を祈る余裕など微塵もなかった。
「【機動天使】は!?」
『わたくしたちは無事です、マトヴェイ総指揮官! しかし鹵獲した【レリエル】を抱えていてはまともに戦闘できません! この機体の処遇はどうすれば――!?』
「鹵獲を? ――ミコトさん、そいつを連れて戻りなさい! 早く!」
左翼の一部が爆発の衝撃に破壊され、発火もしている状況。
艇が傾き高度を維持できずに落下する最中である最悪の事態。
それでもマトヴェイ・バザロヴァは【レリエル】という戦力をふいにすべきではないと決断した。
できるなら認めたくはないこの悪夢が現実であるのなら――彼の推測が事実であるのなら、戦力はいくつあっても足りないのだから。
「やってくれたわね、『プルソン』……!」
獅子面の理知ある【異形】が奏でた、殺戮のオーケストラ。
『プルソン事変』で四体の『第一級』が呼び出されたのとは桁違いの規模の、大召喚。
魔力探知機が捉えたワームホールの反応は五十にものぼる。
そこから降り立った【異形】の全てが『第一級』であるとしたら――。
「魔導書に記されし七十二の【異形】のうち、未確認の種すべてが集結している。……そう考えるほかないわね」
叫喚の交錯するブリッジの中でマトヴェイの呟きを捉えることが出来たのは、ほど近い席に座しているミラー大将とグローリア中佐のみであった。
乾ききった声で言葉に変換されたその推測に、二人の海軍の将は押し黙る。
第一級が五十体。先の戦いでは【機動天使】と【七天使】が二、三機がかりで一体を倒すのがやっとだったというのに、それが五十体。
――敗北。
その二文字が二名の将の脳裏に過った。
仮に飛空艇の体勢を立て直し、墜落を回避できたとしても、『フェネクス』や『マルファス』をはじめとする有翼の悪魔どもを討伐できなければ地獄は終わらない。
「【グングニル】照準! どでかいのぶっ放すわよ、風穴開けてやりなさい!!」
「はっ!」
グローリアにはマトヴェイの声が遠くから聞こえてきているようだった。
無理だ。『第一級』五十体を各個撃破していくならともかく、同時に出現し一斉に襲い来る彼らすべてを相手取るなど、あの『阿修羅』であっても不可能だ。
希望が絶たれる。絶望に項垂れる。そんな彼女の肩を叩き、力強い声で活を入れたのは敬愛する上官にして最高の盟友、イーサン・トマス・ミラーであった。
「あの小生意気なナルシスト坊主でも命を張ったのだ! 坊主より倍以上年上のお前が、ここで諦めてどうする!」
「――――失礼な。私はまだアラフォーです、閣下! 倍以上、と言われるのは心外ですね!」
「吠える気力はあるようだな。ならば結構、我々もここで命を懸けてやろうじゃないか! 人類の希望を未来に託すためにな!」
思わず顔を赤くしてしまうグローリアに、ミラー大将は豪快に笑ってみせた。
その表情を見て思い出す。大将はいつもそうだった。どんなに荒れ模様の航海であっても、どんなに大量の海の【異形】を敵にしても、ここ一番というときは笑っていた。
そんな大将の姿にグローリアは勇気を貰ってきた。今日、この地獄を前にしても――。
「ふ、ふ……海軍の誇りと意地を、彼らに見せつけてやりましょう、皆さん!!」
にかっ、と。
薄幸そうな顔には似合わぬ笑みを浮かべ、グローリア・ルイスは戦士たちを鼓舞した。
焦燥と絶望感に染まり始めていた士官たちの目が、その声を受けて光を取り戻していく。
マトヴェイも彼女と視線を交わし、死地を共にする覚悟を改めて共有した。
「人類の、希望――何としてでも『新人』の二人を、理知ある【異形】のもとへと届けるのよ!」
『プルソン』との話し合いは先の事変で決裂した。これほどの大軍勢を用意してまで人類を潰そうとしている彼を説得するのは、もはや不可能とみて良いだろう。
だが理知ある【異形】は彼だけではない。『魔導書』には彼の他にも、知性ある「王」の序列を持つ【異形】の名が連ねられている。
彼らに働きかけ、『プルソン』との戦いを終結させる仲介役になってもらう――成功するかは分の悪い賭けだが、やってみるしかない。
「総指揮官! 左翼の鎮火、難航しております! このままでは整備も不可能かと……!」
「そう……分かったわ。整備班の撤収後、左舷Cブロック、Dブロックの第一隔壁を下ろして! それが済み次第、格納庫の全SAMおよびパイロットは離脱、各整備班も脱出ポッドで逃げなさい! 鹵獲した【レリエル】とパイロットも連れて行くのよ!」
現場からの報告に士官の一人が悲鳴を上げる。
その声を聞いている間にも【グングニル】によって吹き飛ばされた不死鳥の頭部が復活を遂げ、羽ばたきが生む竜巻が飛空艇を呑み込もうとしていた。
「『アイギスシールド』展開! ハルくん、アキトくん、サポートして!」
『んな無茶ぶり……!』『やるしかないだろ、ハル!』
左翼から煙を上げ、バランスを保てずに揺れ動く飛空艇を背後に、ハルとアキトの【ドミニオン】が防壁の張れない左舷側を穴埋めする。
直後、壁越しにもたらされる衝撃。
ブリッジ内の士官らがそれぞれの席から投げ出されまいと必死にしがみついているなか、艇の外では【機動天使】たちが有翼の【異形】たちを引き離す囮となっていた。
「こっち来やがれ、デカブツ!」
「お前の相手はこのおれだ!」
「飛空艇には近づかせないよ!」
「わたしたちの希望を、何としても守ります!」
「未来のために、わたくしたちは歌い続けるのです!」
ゴイサギの悪魔『マルファス』をカツミが、烏の頭を持つ悪魔『アンドラス』をシバマルが、天使の姿をした悪魔の『クロセル』をカオルが、グリフォンに乗る悪魔『ムルムル』をユイが、不死鳥の悪魔『フェネクス』をミコトが、たった一機でそれぞれ相手取る。
彼らが帯びているのは桃色の光輝だ。
第五世代機を六世代へ、第六世代機を七世代へ。世代を一つ更新するのに等しい【ガブリエル】の加護を得て、四機の【機動天使】は飛翔する。
強い魔力に惹かれる【異形】らは狙い通り、落ち行く運命の飛空艇を離れて彼らを追跡していった。
それでも――【機動天使】すら意に介さず、のたうつ竜の【異形】・『ブネ』が飛空艇の進行方向に立ちはだかる。
「ここは僕が――生徒たちの道を拓く!」
その長髪を振り乱し、竜の前に身をなげうったのは湊アオイであった。
ミコトの加護を得た【機動天使】ですら注意を引けないのなら、【ガギエル】一体では到底不可能。
「引き離すのが無理なら、倒すまでだ!」
他の有翼の【異形】たちは【機動天使】が引き受けてくれている。地上の『第一級』たちは『レジスタンス』のSAMたちに群がるばかりでこちらに興味を示してはいない。
こいつさえ――『ブネ』さえ倒せば、一筋の道筋を作ることができる!
「いくよ――カノン……ナギ」
涎を垂らしながら大口を開く竜と対峙して、深呼吸する。
最初に呟くのは亡くした恋人の名前。戦う勇気をくれた大切な人の名前。
次に呟くのは一番の絆で結ばれた後輩の名前。戦士としての自分を再び燃え上がらせてくれた火種の名前。
「僕に力を、貸してくれ」
呼びかけたその時、『アーマメントスーツ』胸元のオーブが青く輝きだした。
同じ光芒を【ガギエル】自身も纏い始める。
激しく脈打つ光――SAMとパイロットの鼓動が重なり、魔力が共鳴していく。
「荒れ狂え、押し流せ――【タイダルフォース】ッッ!!」
魔法名を叫んだ瞬間、アオイは肩に誰かの温度と重みを感じた。
その温かさに彼は微笑む。
かけがえのない弟同然の存在に力をもらい、アオイは掌に溜め込んだ魔力を一気に解放した。
渦を巻き怒濤の勢いでせり上がる潮流。
それは奇しくも『ブネ』と同じく竜の姿を形作り、その大顎を開きながら敵へと急迫する。
『キシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!』
同族の出現をそこに認めた『ブネ』は威圧の砲声を上げ、身体をうねらせて牙を剥いた。
闘争本能を曝け出し、向かってくる水竜の喉笛めがけて食らいつかんとする。
本物の竜と、紛い物の魔力の竜。
どちらが強いかは明白だ。それでもアオイは絶対に負けられないという信念を以て、水竜にさらなる魔力を込める。
激しく飛沫を上げながら水竜は長大な体躯を波打たせる。もはやアオイの手に負えぬほど暴れ狂う竜は『ブネ』と真正面から激突し――そして。
大瀑布が滝壺を打つかのごとき轟音を響かせて、形を失った。
その光景を目にしていた【エクソドゥス】の乗員たちは項垂れる。
左翼の修復は絶望的。体勢を立て直すのも限りなく不可能に近い。あとは墜落を待つのみ――そんな状況に追い打ちをかける水竜の敗北に、極限まで追い込まれた彼らの心はへし折られようとしていた。
「……神様」
コンソールにしがみついてユリーカ・クインシー大尉が最後に神に祈りを捧げようとした、その時。
二人の海軍将校と『リジェネレーター』の最高指揮官だけが、そこにまだ希望を見いだしていた。
「……坊主」
「アオイくん……!」
視界を塗り潰す真っ白い水蒸気の中に、動く影が一つ。
魁偉の竜ではない。あれは――SAMだ。
直後、打ち上がったのは耳を聾する断末魔の絶叫であった。
『ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ――!!』
遅れて届くのは墜ちた巨体が大地を揺るがす衝撃であった。
ほどなくして横殴りの強風が水蒸気を吹き飛ばし、そこに一機のSAMの姿を浮かび上がらせる。
コバルトブルーのボディに蒼の輝きを宿し、その全身に濃緑の血液を被っているSAM――湊アオイの【ガギエル】である。
「よくやったわ、アオイくん! 今よニネルさん、テナくん――拓かれた道を、突き進みなさい!!」
指揮棒のように腕を揮い、マトヴェイは『新人』の二機に全速前進を命じた。
行き先は何処か、それは指示する彼にも分からない。
道標は彼ら自身の胸の内にある。理知ある【異形】と出逢いたいという純粋なる想い、それだけが彼らを導いてくれると信じて、マトヴェイは最後に二人の背中を押した。
「総指揮官! 整備班と残存パイロット及びSAMの脱出が完了しました! 現在、【ドミニオン】二機が護衛しています!」
「よくやったわ。アンタたちも急いで離脱して! 『第一級』が艇を離れた今しかない!」
そう言い渡してくるマトヴェイに対し、CICの士官たちは一様に首を横に振った。
彼らはここで敬愛する赤髪の上官と運命を共にしようと覚悟していた。
が、マトヴェイ・バザロヴァは未来のために彼らを突き放す。
「行きなさい! ここでアンタたちが死ねば『リジェネレーター』という組織の支柱がなくなる! そうなればアタシらの理想の実現は限りなく遠くなるわ! ……頼むわよ、アンタたち……アタシの願いを、叶えて頂戴」
マトヴェイが部下に対して行う、最初で最後の哀願。
それを聞き届けたユリーカ大尉や鳥海大尉といった元空軍の士官たちは、赤髪の将へ最敬礼を送り、それから足早にブリッジを退出していった。
「……坊主。私はお前の永遠の友であろう」
「あら、おじさま。友を名乗るならアタシの思いを汲んでくれてもよくって?」
隣に佇み続けるミラー大将を横目に、マトヴェイが拗ねたような口ぶりで言う。
そんな彼に苦笑を返し、黒い肌の大男は年下の最高指揮官の肩に手を置いた。
「……そうだな。マトヴェイ・バザロヴァ……お前の雄姿はこの私が、未来の子供たちへ語り継ごう」
ごつごつとした手の重みと食い込む指の力を感じながら、マトヴェイは静かに頷いた。
艇左翼側から響く爆発音、足下を揺さぶる衝撃。
「閣下! 急ぎましょう!」
「……ああ」
鋭く叫ぶグローリア中佐に従い、ミラー大将はマトヴェイのもとを離れる。
女の細腕が男の背中を押す。二人は振り返ることなくCICを後にし――最後にはマトヴェイ一人きりとなった。
「さぁ――最後の仕事をするわよ、マトヴェイ」
そう自分に言い聞かせ、マトヴェイは艇の操舵輪を握った。
その感触に彼は軍に入って間もなかった青年時代を思い出す。
【異形】を憎み、世界を憎み、妹の復讐と己の贖罪のために命を燃やしていたかつての自分が現在のマトヴェイを見たら、何と思うだろう。
「愚かだと笑うかしら。理解できないと蔑むかしら。それでも、いいの――アタシはアタシの思うままに夢を見られたのだから」
三機の護衛を伴って『新人』二人の機体は北西の方角へ駆けていく。
迷いなく進むその姿を見送って、マトヴェイは口角をぴくりと上げた。
探り当てたのだ。ニネルとテナが、理知ある【異形】の所在を。
ならばもう憂いはない。彼らの優しさが、純粋さが、心ある【異形】を動かしてくれるのだとマトヴェイは信じている。
「まだ生き残りの『レジスタンス』兵も、【七天使】もいる……彼らの上に墜落するわけにはいかないわ」
呟き、舵輪を右手に勢いよく回す。目指すは炎上を終え、焦土と化した大地だ。そこなら誰も巻き込むことなく【エクソドゥス】は命を終えられる。
左翼の付け根から黒煙をなびかせながら、飛空艇は高度を落としゆく。
が――そこでマトヴェイは目にした。翼の生えたライオンの悪魔『ヴァプラ』が、地面を蹴り上げて【ガブリエル】へと飛び立とうとしているところを。
「取り舵いっぱい! 推力最大ッ! ミコトさんだけは、絶対に傷つけさせない!」
傾いている艇体をさらに左へと倒し、残された魔力の全てを費やしてマトヴェイは『ヴァプラ』へ特攻を果たさんとした。
加速度的に勢いを増していく希望の船に対し、『ヴァプラ』は天を仰ぎ飛び退く。
しかしマトヴェイの眼はその動きを逃さず捉えていた。
「撃ぇッ!!」
船首から放たれるは三本の光の槍。
『ヴァプラ』の右翼、左翼、そして右前足が射貫かれる。
魔力が足りず通常の【グングニル】よりも細く威力の落ちた光線となったが、敵の動きを封じるには十分だった。
「――心臓を捧げよ、マトヴェイ・バザロヴァ!!」
恐れはない。あるのは未来への希望に対する執念じみた願いだけだ。
黒い地表が肉薄する。
マトヴェイは静かに瞳を閉じ、最後に守り切れなかった大切な人たちの顔を思い浮かべ――そして。




