第二百四十話 過ち ―We can find hope by facing our grief.―
【ラファエル】と【メタトロン】が、『フェネクス』の発生させた竜巻に呑み込まれた。
その直後、真下から撃ち込まれた数多の魔力弾が二機を守る『アイギスシールド』に炸裂。
大爆発が巻き起こった。
「……そんな」
マトヴェイ・バザロヴァの時は止まっていた。
何かの間違いだと思いたかった。これまで多くの『第一級』や理知ある【異形】との戦いを乗り越えてきた月居カナタと早乙女・アレックス・レイが、こんなところで散るはずがないと。
だが、事実は残酷だった。
目の前のモニターに拡大されるのは、黒煙を巻き込んで成長し続ける竜巻。そこに先程まで見えたSAMの影はない。
「信号……完全に、ロストしました」
重苦しい口調でもたらされる報告に、マトヴェイは頷きすら返せなかった。
俯いたまま押し寄せる後悔に苛まれている総指揮官に、CICの士官たちもかける言葉を見失う。
痛ましい沈黙が降りる中、ほどなくしてそれを破る声が【エーギル】より届いた。
『マトヴェイの坊主! このまま船を先へ進めるぞ! あいつらが稼いでくれた時間、無駄にするわけにはいかん!』
ミラー大将やグローリア中佐たちも、その光景を確認していた。
マトヴェイの悲しみは彼らも推して知るところだ。妻と息子を【異形】に奪われた過去を持つミラーには、彼の気持ちが痛いほど分かる。
しかし、それでも心を鬼にして叱咤せねばならない時がある。
『我々を生かすため、無事に帰港させるために、月居くんと早乙女くんは戦ってくれました。彼らの思いに報いるためにも、ここは最後まで進み抜かねばなりません』
胸に手を当て、グローリア中佐は顔見知りの少年二人を哀悼する。
交流はさほどなかったが、同じ志を抱いて戦った同士。彼らの功績を称え、敬意を抱いているからこそ、前に進まねばならないのだとグローリアは訴えた。
その台詞は同胞を失った軍人の常套かもしれない。
だが、だからこそ軍人として兵の上に立ち続けたマトヴェイに突き刺さった。
「カナタくん。レイくん。マオさん、マナカさん……ごめんなさいね、アタシ、総指揮官失格だわ」
頭を振り、赤髪の将は面を上げる。
追跡してくる『フェネクス』との距離は、カナタたちが交戦していた間にかなり離れていた。ここで敵に追いつかれてしまえば、懸命にその距離を延ばしてくれた彼らへの裏切りになる。
「――【エクソドゥス】、全速前進! このまま小田原港までノンストップで走り抜けなさい!」
「「「はっ!!!」」」
精彩を取り戻したマトヴェイの号令に、士官たちは気炎を吐いた。
士気を再燃させる彼らは背後の『フェネクス』を意識しつつ、一直線に小田原港へと向かっていく。
ただ、懸念されるのは――避けては通れない、ミコトたちへの事実の通告だった。
*
「なん、で……なんで、なんでなんだよマトヴェイさん!? そんなっ、そんなの……嘘だって言ってくれよっ、なあ!?」
マトヴェイの胸を何度も、何度も叩いてシバマルは慟哭した。
涙でぐしゃぐしゃになった少年の顔を見下ろして、マトヴェイは紅の落ちた唇を静かに噛む。
彼らがいるのは『レジスタンス』の小田原基地内の一室だ。
カナタたちと『フェネクス』との交戦からおよそ二十分後、【エーギル】と【エクソドゥス】は小田原港へと無事、帰港を果たしていた。
「シバマルくん。……ごめんなさい。全てはアタシの責任です。アタシが出撃許可さえ出さなければ、こんな事態にはならなかった……」
今のマトヴェイに出来るのは、ただ謝ることだけ。
それで何かが変わるわけでもない。散っていった者は帰ってこない。自分の指示で人を死なせてしまった罪は、この先も消えることなく彼の中に刻まれ続ける。
「どうしてっ……どうしてあいつらを行かせちゃったんだよ、マトヴェイさん!?」
濡れた顔を押し付けながら、少年は上官の胸を叩く力を一層強めた。
ぐらり、と体勢を崩してしまうマトヴェイは、シバマルに押し倒されるように床に尻をつく。
受け身すら取らずに無抵抗なマトヴェイを真っ赤な目で睨み、シバマルはその胸倉を掴み上げた。
「謝ってもしょうがないんだよ! あんたの指示でツッキーとレイ先生は死んじまった! あんたが殺したようなもんだ……あんたが!」
「やめてシバマルさん! マトヴェイさんを責めたって、どうにもならない……」
シバマルの手を横から引き剥がし、震える声でユイが言う。
遣り切れない思いを抱えているのは彼女も同じだ。だが、自分の過ちを認め、深い悔悟の念を露にしているマトヴェイをこれ以上責めるのも酷だと思われた。
「作戦行動中に誰かが死ぬなんて、そんなの当たり前のこと。結果としてアタシたちが全員生きて戻れたんだから、作戦は成功でしょ。二人の犠牲で千を超える人員を救えたのなら上出来だと思うけど」
そう淡々と言い放ったのはカオルだった。
その言葉を聞いたシバマルは啞然とするが、すぐに声を取り戻してカオルに詰め寄る。
「姉御……っ! 確かにそうかもしれねえ。けど、ツッキーとレイ先生がいなくなっちまったんだぞ!? 仲間があんなことになって、どうしてそんなふうに言えるんだよ……!」
白髪の少女の小さな肩に爪を食い込ませ、シバマルは真っ赤な目で彼女を見下ろす。
怒りに任せて揺さぶってくる彼に対し、カオルは無表情だった。
「人も、SAMも、替えが利く。それだけ」
パイロットが死んでも代わりがいる。SAMが壊れたのなら新しく作ればいい。
軍の現実なんてそんなもの。
カオルの肩を掴んでいたシバマルの手から、力が抜けていく。
彼女に背を向けた少年は、嗚咽を堪え、言葉を絞りだした。
「……お前が、そんなに薄情者だったなんて……思いたく、なかったのに」
それだけ言って、シバマルは逃げるように部屋を出ていった。
ユイはマトヴェイの様子を気にかける素振りを見せつつも、シバマルを追いかけていった。
青髪の少女を見送って、壁際に身を預けていたカツミは溜息を吐く。
「損な役回りだったな、カオル」
「……かっちゃん」
カツミは見抜いていた。部下や仲間を大切にする風縫カオルが、カナタとレイの行く末に心を痛めていないわけがないと。
彼女だって泣きたいはずだ。それでも現実を受け止め、前へ進む準備が出来るように、敢えてシバマルにああ言ったのだ。
カオルが失ったのはカナタたちだけではない。兄であるソラも、【メタトロン】との戦いで命を落とした。
「カオルさん。泣いて、良いのですよ。己の悲しみにも向き合わなければ、わたくしたちは、歩みだせないのですから」
ここまで沈黙を貫いてきたミコトが、ようやく口を開く。
胸が引き裂かれ、心にぽっかりと穴が開いたような感覚。
彼女もまた、それを覚えている。
「絶望と、希望。それは相反するものでありながら、同居しないわけではないのです。この悲しみはきっと消えないでしょう。それでも、わたくしたちは少しずつ、その悲しみと向き合う中で希望を見出していける。記憶の中の彼らが、それを教えてくれるのです」
『新人』たちを失った直後から現在まで、ミコトは彼らのことを何度も思い出し、一人の時間に何度も涙を流した。
喪失の傷は完治しない。全てを忘却しない限り、それは不可能に近い。
しかし記憶の世界で笑っている彼ら彼女らを思うと、一筋の光が見えてくるのだ。
「カナタとレイ、二人と共に目指した理想を貫く。それがわたくしたちに出来る、彼らへの恩返しです」
「……アンタは大人だね、ミコトさん」
静かに雫を頬に垂らしながら、カオルはくしゃっと笑う。
作り笑いしている彼女に歩み寄って、ミコトはその小さな身体を抱き締めた。
「大人などでは、ありません……わたくしもっ、わたくしも……ほんとうは、思いっきり、泣きたい……っ」
その抱擁は泣き顔を隠すため。
互いの体温を共有しながら、少女二人はしばらくの間、声を上げて泣きじゃくり続けた。
*
意識がぼんやりしている。
視界は霞んでいる。
どこかから風が吹き抜けるような音が聞こえる。
寒い。冷たい。
身体を動かそうとしても、鉛の塊がのしかかっているかのようだ。
瞬きを繰り返す。目がごろごろとする不快な感触。
「……ぅ」
喉を震わせようにも声が出ない。
言葉になり損ねた吐息だけが、唇の隙間から漏れていく。
瞬きを繰り返す。視野の焦点が少しずつ定まっていく。
「……ぁ」
真っ黒い何かが目の前にあった。
四角い縁取り。真下にはボタンとレバーとキーボード。
これはモニターと、操縦用のコンソールだ。
自分はこれを知っている。忘れるわけがない。血潮に染みついている記憶。そう、これは――。
「s……ぁ」
やはり言葉にならない。
それでも意識は鮮明さを取り戻してきている。
これはSAMのコックピット内部の操作機構だ。自分は今、SAMの中にいる。
真っ暗な液晶に映っているのは、操縦席に身を預けている薄い髪色の少年。
やつれた眼が見つめ返してくる。眼は虚ろに問うてくる。
何故。何故、自分は生きているのかと。生きてしまっているのかと。
「……ッ、ぁ……!」
思い出す。思い出す。
不死鳥を前にして飛び出し、命に換えてでも仲間を守ろうとした。
時間稼ぎを名目にした戦い。しかし少年にとって、それは自殺にほかならなかった。
部下を無残に死なせた自責の念。
自分がもっとしっかりしていれば。正しい指揮が出来ていれば。魔力を少しでも味方に分けてあげられていれば。
何か一つ、間違いを打ち消すことさえ叶っていれば、もしかしたら命を繋げられたかもしれない。
指揮官として月居カナタは過った。作戦のために人を使い潰した。部下に己の命を差し出させた。
「な……な、んで……」
一緒に戦ってくれるはずだった彼らはもういない。
紡げるはずだった絆の糸は、断ち切れて永遠に戻らない。
どうして守ってくれなかった。どうして救ってくれなかった。戦いの中で皆を導ける英雄が、月居カナタという男ではなかったか。
裏切られた信奉者の怨嗟の声が、少年の脳内でリフレインする。
自己否定が生み出す幻聴が彼を苛み、蝕み、心の芯までを絶望に染め上げた。
「ごっ、ごっ、ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん、なさい……」
赤い涙を流しながら、少年は這うように操縦席を抜け出ようとした。
ほとんど力の残っていない身体は、死という罰を求めて活力を取り戻す。
【ラファエル】が爆風に飛ばされて墜落したなら、コックピットを出ればそこは極寒の地上だ。
ハッチを力任せに押し開け、転がり込むように外へ。
頭から下に落ちていったカナタは背中を冷たい土に打ち付けて、空を見上げる。
自然と受け身を取ってしまった己が嘆かわしい。だが、ここでじっとしていればいずれ凍死するだろう。或いは【異形】に食われて死ぬ。いや、むしろそちらのほうが良い。班の皆はそうやって逝ってしまったのだから。
「…………」
ぽつ、と水滴が頬を打った。
仰ぐ先は曇天だ。にわかに勢いを増していく雨が、少年の身体を無情に殴りつけてゆく。
意識は徐々に薄らいでいく。指先から段階的に体温が奪われていく。雨音が緩やかに遠のいていく。
嗚呼、これで終わる。楽になれる。最後にそう思ったその時、彼は何者かの足音を聞いた。
【異形】だろうか。人間という獲物を見つけ、食いに来てくれたのだろうか。ならば良い。だが、それにしては土を踏みしめる音が軽いような――。
「このッ、馬鹿カナタ!!」
鼓膜を震わせる大音声に、彼ははっと目を見開いた。
金色の髪を雨に濡らし、瞳を真っ赤に腫らした早乙女・アレックス・レイがそこにいた。




