第二百三十七話 救済 ―Disappointment and Hope―
『キマリス』、『レラジェ』、『ダンタリオン』、そして『アスタロト』。
出現した四体の第一級【異形】は、【機動天使】および【七天使】の決死の戦いによって討伐された。
魔力の尽くを使い果たす激闘を繰り広げた彼らに、もはや戦えるだけの余力は残っていない。
静寂が横たわる戦場の中、その気配を最初に捉えたのはテナとニネルであった。
「……プルソン、さん……!」
波紋が広がっていくように空中を伝播していく、黒き魔力。
その波は徐々に激しさを増し、押し寄せる間隔を縮めてきていた。
殺意が迫ってくる。
何もかもをここで潰さんという、闇より暗い絶望が。
「……総員、構えて」
【エクソドゥス】のCICからマトヴェイ・バザロヴァが指示を打つ。
彼の周囲には魔力欠乏によって意識を失っている士官たちが何人も倒れ伏していた。今も立ち続けられているのは、マトヴェイただ一人。
飛空艇は完全に機能不全に陥っていた。
「不味いわ、この状況では……っ」
【テュール】を統べる夜桜シズルはモニターに映る空を仰ぎ、顔を歪めた。
【エクソドゥス】よりマシとはいえ、こちらにも余裕はない。今このタイミングで攻められれば満足な抵抗も許されず、蹂躙されるのみだろう。
『それでも、足掻かなければ。足掻かなければ、死力を尽くして敵を討った彼らに、顔向け出来ませんわ』
通信で届けられるマトヴェイの声に、シズルは黙って首肯する。
軍人としての誇りを貫き、最後まで戦い抜く。諦めはここまで戦ってくれた仲間たちへの冒涜だ。
シズルはブリッジの一同を順に見渡し、それから命じる。
「……『プルソン』が現れるわ。『対異形ミサイル』及び【レーヴァテイン】、出現予測地点に照準。姿を見せ次第、撃って」
これを撃てばミサイルの残弾は尽き、【レーヴァテイン】や【グングニル】を撃てるだけの魔力も枯渇する。
失敗すれば敗北まで一直線だ。
砲手たちは手に汗を滲ませながら、魔力探知レーダーが示す空中の一点に狙いを定めていく。
鼓動が早鐘を打つ。コンマ一秒刻みで焦燥と緊迫感が膨れ上がっていく。
「…………来る」
辛うじて意識を保っているミコトやカオル、ユイ、シバマル、アスマたち少年少女は、力なく操縦席に身体を預けながら、高まり続ける魔力を肌で感じていた。
彼らは一様にニネルとテナを案じていた。
二人を守る【アザゼル】の『シールドビット』では『プルソン』の大魔法を防ぎきれない。かといって自分たちに助けられるだけの力は残っていない。
地上での死線を既に潜り抜けている少年たちには結末が見えている。
ここで終わりだ。『リジェネレーター』も『レジスタンス』も関係なく、最後は理知ある【異形】によって一纏めに潰される。
逆転などあり得ない。それこそ『第二次福岡プラント奪還作戦』での『バエル』戦のように、最強の助っ人が現れない限り。
「に、逃げてっ……逃げてくださいっ、ニネル、テナ……!」
『プルソン』にとって人類は内輪揉めを繰り広げるだけの醜い存在。
だが、『新人』については違う。
彼らは【異形】側が作り出した生命だ。『プルソン』に同じ血の通った仲間を思う気持ちがあるのなら、無慈悲に殺しはしないはず。
そう信じて、ミコトはニネルとテナを送り出さんとした。
しかし。
「いやっ、いやだよっ、ミコト!」
激しく首を横に振って、ニネルは拒んだ。
それはテナも同じだった。もはや動けないミコトたちの機体を見つめる彼の瞳には、大粒の涙が浮かび、雫が頬を伝って流れていく。
「ぼくたちは一緒だよ、ミコト! みんなも、一緒……だからっ」
「一緒などではありません! わたくしたちはもう、抗えない……ですが、貴方たちにはまだ未来がある! 『プルソン』さんは必ず、貴方たちを拾い上げてくれます」
嗚咽混じりに訴えるテナの背中を、ミコトは心を鬼にして突き飛ばした。
道連れになど出来ない。彼らと関わってきたのは、そんな結果を招くためなどではない。
ひとえに、幸せに生きてほしかったからだ。傷つかず、苦しまず、穏やかに暮らせる未来を歩んでほしかったからだ。
その安寧を掴み取れる可能性の星は、二人の見上げる彼方に輝いている。
それはきっと果てしなく遠い道のりだ。しかし、潰えぬ意志さえあれば少しずつでも近づいていける目標でもある。
「行きなさい。進みなさい。わたくしたちが与えた知識は、今後を生きるうえでの貴方たちの糧になります。どうか、それを――」
そこまで口にしたその時、空に現れたのは黒い裂け目。
炎のごとく揺らめく漆黒のオーラをたなびかせ、『プルソン』は遂にその姿を露にした。
『――ヒトよ、試練を越えたか』
腕組みしながら戦場を見下ろし、獅子面の【異形】は宣う。
その表情は遠目にも薄らと笑っているように見えた。自分たち人類の戦いを、この【異形】は認めた――そういうことなのか、とシバマルたちは彼を見上げて思う。
『しかし』
と、『プルソン』は笑みを消し、否定した。
人間たちが抱いた一抹の希望を、踏み躙るように。
『これで終わりだと、誰が言った?』
発射された『対異形ミサイル』と赤く走る【レーヴァテイン】を、彼は腕の一振りで出現させた【絶対障壁】をもって完封する。
【テュール】の最後の足掻きは儚く崩れ去った。
これでもう、人類側が抵抗する手段は一切ない。
『驕るなよ、人間。お前たちに課せられた試練はまだ、終わってなどいない』
初めから筋書は決まっていた。
『レジスタンス』と『リジェネレーター』、二つの組織が都市内で反目する状況を『プルソン』が知り得た時点から、この運命は定められていた。
【異形】たちの命を刈り取るのみならず、同胞間で醜く争う人間たちをここで滅ぼさんと。
『これが救済だ。愚かな者ども――』
「ま、待つ、ですっ!!」
『プルソン』が掌に蒼き炎を灯したその時、声を上げたのはテナであった。
自身を守る『シールドビット』を押しのけ、彼は『プルソン』の見下ろす先へと躍り出る。
「し、死なせないでほしい、です! あなたにとって、ヒトは大嫌いな生き物なのかもしれない。でも、ぼくにとっては大好きなそんざい、です! ぜったいに失いたくない、たいせつな人たち、です……!」
圧倒的な魔力に肌を焼かれるような感覚を味わいながらも、テナは恐れずに訴えた。
自分の中にある、混じり気のない純粋な思いを。
平穏を望む悲痛な願いを。
『……少年よ。私にもかつて、多くの大切な同胞がいたよ。だが彼らは利己主義に呑まれた人間たちによって、住処もろとも奪われた。文明を発展させるため、人間は我々の領域を侵害し、邪魔になる我々を殺戮したのだ。平和のために危険を排除する、それが奴らの免罪符だった』
そんなテナに『プルソン』は語った。
遥か彼方の宇宙、遠い昔に起こった悲劇を。
平穏を奪われた消えない怒りを。
『この星に落ち、それから私は知った。星は違えど知的生命体はその歴史を繰り返すものなのだと。醜く争い、殺し、奪い合う。自分たちさえ良ければそれでいい、そんな主張がまかり通っている社会を「新東京市」に住まう者たちは構築していた。故に「狂乱事変」なる凶行が起こってしまった。あの事変はヒトの世界の歪みそのものなのだ』
月居カグヤが起こした事変を引き合いに、『プルソン』は人類が如何に愚かしいかを突きつける。
悩み苦しむ者に誰も手を差し伸べない社会の歪み。誰か一人でもカグヤにきちんと寄り添えていれば、その思いに耳を傾けていれば、『狂乱事変』は防げたかもしれなかった。
『プルソン』の指摘にミコトたち人類側は反論の余地もなかった。
それは彼女たち『新東京市』に生きる民全てが背負う、罪だ。
そして、その罰を与えんと現れた存在こそが獅子面の【異形】なのだろう。
「ヒトのせかいの、ゆがみ……」
小さく繰り返すニネルに、『プルソン』が言う。
『君もその歪みの影響を受けてきているのだよ。「丹沢基地」でヒトが十三名の『新人』たちを銃殺したあの事件……『交信』の最中、私は君たちの悲痛な声を聞いた。あの痛み、苦しみ、悲しみは、未知や異分子を恐れるヒトの弱さが生んだものだ』
暴れまわる【異形】たちの悲鳴は、ニネルたちに辛い記憶のフラッシュバックを強制した。
仲間たちが胸に弾丸を撃ち込まれた時の声にならぬ叫びを思い出すニネルは、片手で頭を押さえ、歯を食い縛る。
『無垢な君たちに教えよう。いま湧き上がったその感情こそが、憎しみ、恨み、それから憤怒だ。君たちは改めるべきなのだよ。庇護者というだけで無条件に信用していた人類への見方を。そして知るべきなのだよ。大多数が君たちを敵視し厭う、人類の社会に身を置くことの危険性を』
ニネルとテナは言葉を失った。
人類は危険な存在。憎み、怒るべき敵。
本当にそうなのか――湧出するその思いに、脳裏に過ぎる声なき悲鳴が回答する。
基地では兵士たちが上官に言われるまま仲間たちを撃った。地上に出たら今度は『レジスタンス』が奇襲をかけてきた。いつ殺されるか分からない状況は、今後も続いていくかもしれない。
ニネルとテナにとって、人類側に身を置くことが危険なのは確かだ。
――だが。
「……でも。わたしは」
「ぼくたちは、ミコトたちといっしょにいたい」
それだけは変わらぬ意志だ。
出会ってから結んだ絆は決して解けない。家族同然の関係となったミコトたちをも敵に回すことなど、したくない。
人間の中にはミコトたちのような友好的な者たちもいるのだ。たとえ大多数が『新人』を憎もうと、ニネルたちを信じてくれるミコトたちがいる限り、人間の全てを敵だとは思いたくない。
「……ミコト。わたしたちは『プルソン』さんにはついていかない。だから、いっしょだよ」
踵を返し、ニネルは地面に膝を突く【ガブリエル】のもとまで歩み寄った。
テナは『プルソン』と相対したまま、静かに彼の次の言葉を待っていた。
獅子面の【異形】はその赤い瞳を閉じ、深々と溜息を吐いてから言う。
『……それが君たちの選択なのだな。人間どもと共に行く、その意志は揺るがぬというのだな。……ならば仕方あるまい』
鋭利な爪先に緋色の炎が宿る。
相容れないならば殺す他ない。『ベリアル』の置土産に手をかけるのは心苦しいが、やむを得ない。
『――無に還れ』
宣告と同時に、膨れ上がる魔力。
一瞬にして高まる熱と、視界を焦がす赤き閃光。
無慈悲に下される悪魔の裁きに対し、誰もがその瞬間、己の死を覚悟した。
恐怖に駆られ叫ぶ者、諦念を宿し瞑目する者、最後まで抗う意思を捨てずに睥睨し続ける者。
それぞれが迎える終焉に直面するなか、プルソンは――
『ッ――!』
迫る気配に空を蹴り、後退するとともに防衛魔法を展開した。
コンマ数秒後、ミコトたちの後方より放たれる青い魔力弾。
炸裂したそれがばら撒く青の粒子たちが『プルソン』の赤き閃光と混じり合い、その魔力を掻き消していく。
「……これは、一体……!?」
何が起こったのかは分からない。分かるのは自分たちがここで命拾いしたこと、その一点。
呆然とするミコトの隣、どうにか首を持ち上げて空を仰ぐカオルは、それを見た。
「あの船は……!」
雲を切り裂いて姿を現したのは、巨大な飛空艇。
その艦首から連続して撃ち出される魔力弾の爆発が、球状のバリアで身を包む『プルソン』を巻き込んでいく。
【テュール】や【エクソドゥス】より一回り大きいその艦体をカオルたちはよく知っていた。
【エーギル】。『レジスタンス』海軍が誇る、空母を兼ねた超大型の飛空艇である。
『……どうやら、辛うじて間に合ったようだな』
『ええ。ですが、まだ油断は出来ませんよ』
飛空艇のCICにて、モニターを見据えながら二人の将官は呟く。
黒い肌で禿頭の大男、イーサン・トマス・ミラー大将。銀髪を流す抜けるように白い肌の美女、グローリア・ルイス中佐。
救難信号を受け、最大船速で同志たちの救援に駆け付けた海軍の戦士たちは、最悪の事態をすんでのところで回避できたことにひとまず安堵する。
だがグローリア中佐の言う通り、戦いはまだ終結したわけではない。
『敵の動きを止める! 撃ち続けよ!!』
ミラー大将の号令で間断なく解き放たれる、青き魔力弾。
放散される粒子に視界を遮られる『プルソン』は、防壁越しに外気の温度が急速に低下していくのを感じた。
水属性の魔法。おそらくはこちらを凍てつかせ、動きを鈍らせるためだけの比較的低燃費の技――。
そう推測した彼は小さく舌打ちし、それから己の足元にワームホールを出現させた。
大量の【異形】の運搬や彼らの狂暴化、【第一級異形】の強化など、人類側のみならず『プルソン』側も相当の魔力を消費している。
魔力を蓄えた新手とやり合えるだけの余力は、『プルソン』には既にない。
『……ここまでか。だが、これで終わりではないぞ、人間ども……!』
捨て台詞を吐き、彼は足元の黒い穴へ身体を沈めていく。
理知ある【異形】はその姿を消し、その後には煌めく青の粒子だけが漂う沈黙が残された。
「……たす、かったのか? おれ、たち……」
しばらくの静寂を経て、最初に声を発したのはシバマルだった。
彼はすぐ近くで停止している【ミカエル】に視線をやり、口角を微かに上げる。
生きている。【機動天使】も、ニネルとテナも、みんな生きてここにいる。
今はそれだけを喜ぼう、とシバマルは手放しかけた意識の中で思った。
自分たちの想いは、希望は、絶えずに少し先の未来へと繋ぐことが叶った。喪った同志たちが懸命に守ろうとしたものは、確かに自分たちの胸の中で輝き続けている。




