第二百十四話 捕食者の網 ―It's on!―
肉薄した光の刃に目を細め、女は仕留めんとしていた弟の機体より飛び退く。
即座に展開する『アイギスシールド』。
その虹色の壁越しに敵機を仰ぎ、シオンは盛大に舌打ちした。
「ちぃッ! 邪魔するんじゃないよ!」
旋回しながら一瞬にして飛行形態から通常形態への変身を遂げる、黄色い体躯の【機動天使】。
腰から抜き放った白き棒状の武器を振り、その先端より一条の光を剣のごとく伸ばす。
【マーシー・ソード】――【ラファエル】の十八番である光属性の攻撃魔法だ。
「銃剣じゃなくて『ビームサーベル』に変えたってわけ? 面白いじゃん」
鮮やかな紅を差した唇を弓なりに曲げ、シオンは八重歯を覗かせる。
不意の一撃に腕の二本を刈り取られてしまったが、【マトリエル】が攻撃に使える腕はまだ残っている。
敵が敢えて接近戦を仕掛けてくる意図はいまいち分からないが、シオンにはそんなことはどうでも良かった。
【機動天使】の中でも最高峰の実力を有する月居カナタと、ここで戦える。彼ら『リジェネレーター』の精神的支柱であり、ミコトと並んで『対話』の象徴である彼をここで下せば、毒島シオンという戦士の実力を証明できると同時に、この醜い戦いに終止符を打つことができる。
「さぁ来なカナタきゅん! アンタのことは嫌いじゃなかったけど、ここでお別れだよ!」
翼の推進機に魔力を燃やし、一気に加速する【ラファエル】。
残影を宙に焼き付けて急迫する天使は光の剣を振りかぶり、降下の勢いに任せて斬り下ろした。
「うはっ! すっごい威力ッ……!」
左の脇の下から生える腕に『アイギスシールド』を纏わせ、シオンは一撃を受け止める。
たちまち神経を震わせる衝撃。軋む左腕に目を眇めた彼女は、仰向けに倒れている【ラグエル】を一瞥し、それから頭を振って地面を蹴った。
もはや弟のことを気にしていられる余裕はない。
あれは放っておけば死ぬ。今シオンが取るべき行動は、敵との戦いをなるべく長引かせることだ。
彼ら【機動天使】を蜘蛛の糸で絡め取ってしまえれば、『リジェネレーター』に勝ち目はなくなる。
「――ッ!」
一撃を受け流されてもなお、【ラファエル】の攻勢は緩まなかった。
短期決戦に持ち込まねば勝てないと敵は理解している。故に、すかさず抜いたもう一本の『ビームサーベル』を叩き込んでくる。
初撃との間隔はコンマ数秒にも満たない。
攻撃こそ最大の防御という言葉を体現するかのような連撃が、【マトリエル】から反撃の隙を奪っていく。
「くっ、はッ――! 押し負けるわけにはッ、いかないっての!!」
二刀の嵐が虹色の防壁を削ぐ、殺ぐ。
光の火花が視界を埋め、高まる熱と打ち付ける衝撃が女の頬に汗を垂らさせる。
それでも女は焼けた大地を踏みしめて、叫んだ。
地上は己の戦場だ。陸軍中佐として、大地での一対一に負けるわけにはいかない。
「アンタらの理想なんか、知ったこっちゃない! アタシはただ、アタシの戦いをやるだけ!」
シオンは盾を支える腕と肩にあらん限りの力を乗せ、四つの膝をバネのように跳ねさせて押し返した。
戦士としての矜持にかけて、ここで【ラファエル】を討つ。
敵が一歩後退せざるを得なくなった間隙を縫い、【マトリエル】は盾を持たないもう一つの腕を突き出した。
「――アンタの技、初めて受けたけど気持ちよかったよ。『マオ』!」
開いた掌より粘性の糸を解き放ち、そしてシオンは敵機を操る少女の名を呼んでみせた。
網のごとく広がった蜘蛛の糸が正面から【ラファエル】へ覆いかぶさり、その動きを封じんとする。
動きさえ殺せれば勝機はこちらのものだ。
――勝った。
シオンは汗ばむ手で操縦桿を握りしめながら、胸中で呟きをこぼす。
モニター上に映るアバターの瀬那マオは瞠目し、そして笑った。
流石は毒島シオンというべきか。戦いの中で相手の正体を看破できないほど、彼女は甘い戦士ではなかった。
カナタは同じ人類に襲われているという事実を受け止めきれず、憔悴しきった様子でいる。彼がまともに戦える状態にないと判断したマオは、【エクソドゥス】のブリッジへ一方的に自分が操縦して出ると告げ――【エクソドゥス】内での通信は機能している――、カナタを操縦席に乗せた状態で戦場へと駆け付けたのだ。
「それはどうも、毒島シオン! でも勝負はこっから!」
こちらを捕えんと開く、蜘蛛糸のネット。
それを前にしてマオは口角を上げ、腹の底から声を張り上げた。
「カナタッッ――!!」
瞬間――少年は、面を上げる。
瞳に宿るは赤き炎。少女の呼び声に沸騰した闘志が彼を突き動かし、その力を覚醒させた。
「ぼっ、僕は――たっ、戦う!!」
かつて共に罪を背負って生きようと誓ったマオ。
カナタとぶつかって、己の過ちに気づいて、そしてカナタの為に戦ってくれるようになったマオ。
人と戦うのは悲しい。苦しい。叶うことならカナタは、そんなことはやりたくない。
だが、呼ばれたなら。瀬那マオという一人の少女の叫びを聞いたならば、カナタは立ち上がれる。戦える。
「ああああああああああああああああああああッッ!!」
意志を振り絞れ。
勝つことだけを考えろ。
大切な人たちを守るため――その力を、統べてみせろ。
脳がショートしてしまうのではないかというほど湧き出でる、魔力の奔流。
眦を吊り上げ、青き瞳をかっ開いたカナタは、己の内の暴れ馬を制さんと意志の手綱を握りしめた。
少年の雄叫びに呼応するように【ラファエル】の顎が開放される。
目の前に広がる蜘蛛の糸を睨み据えた禍々しき天使は、慈悲なき牙でその糸を喰らってのけた。
『なっ――!?』
シオンの驚愕の声が漏れ出る。
赤き光粒を纏う【ラファエル】の牙は粘り気を帯びた蜘蛛糸の分泌液をものともせず、一口に食い破った。
「こっこれで――!」
「この魔法は、カナタのもの!」
瞬間、少年少女の声が重なる。
予想だにしない反撃にシオンが確かに気圧されたその時――【ラファエル】は右の掌を開き、喰らった魔法を持ち主へと返した。
『そんなものッ!!』
シオンはすぐさま『アイギスシールド』を展開し、自らの身を守らんとした。
虹の防壁はもちろん飛ばされたネットを一切通さない。
『獣の力』で糸に対処したはいいものの、所詮その場しのぎだ。
そう、シオンが胸中で敵を嘲った直後。
『――しまった』
彼女は己の間違いに気がついた。
攻撃されたら即座に回避するか、防御魔法を行使する。
数え切れぬほどの戦いの中で、身体に染みついた反射行動。シオンはその二択のうち、彼我の距離を鑑みて回避が間に合わないと判断して後者を選択した。
しかし、糸の使い手である彼女は熟知している。
【マトリエル】の糸は獲物を捕えた際、そいつが放つ魔力をも封じ込めることができる。言い換えてしまえば、魔力の流れを阻害してその場に固着させる。
即ち、『アイギスシールド』ごと【マトリエル・ウェブ】に絡め取られたが最後、内側からの防壁解除は不可能になるのだ。
『くそぉぉおおおおおおおッ!!』
これまでシオンは己の魔法を自ら受けたことなどなかった。
また、カナタが『獣の力』によって【異形】のみならずSAMからも魔法を獲得できることも知らなかった。
分かってさえいれば、【ラファエル】がわざわざ接近戦を仕掛けてきた時点でそれが蜘蛛の糸を引き出すためのトラップだったと感づけたであろう。
敵の能力を完全に見通せなかったが故の、敗北。
認めざるを得なかった。毒島シオンは戦士として、「未知」に対応しきれない未熟者であるということを。
*
カナタは肩で息をしながら、四角いバリアごと網にかけられた【マトリエル】を見下ろしていた。
もはや【マトリエル】は仲間の助けを借りない限り、そこから出られはしない。
自分たちは勝ったのだ。あの【七天使】の、毒島シオンに。
「はぁ、はぁっ……ぼっ、僕、やっ、たよ……」
鼓動の激しい胸に手を当て、カナタは操縦席に体重を預ける。
勝利の余韻に浸っていられる暇がないことはマオも分かってはいたが、それでも彼を称えたくて彼女は口を開いた。
「頑張ったね、カナタ。やっぱ、マナカが気に入った男ってだけのことはある」
生身の肉体さえあれば、マオはカナタを抱きしめてあげたかった。
涙を堪えて叫んでくれた彼を、これ以上過酷な戦場へ放り込みたくなどなかった。
しかし、まだ戦いは終わってはいない。現れた【ラミエル】や【マトリエル】はいわば先遣隊に過ぎず、これから本隊である『レジスタンス』の軍勢がここまで押し寄せてくるだろう。『リジェネレーター』をここで確実に潰そうという彼らを退け、小田原港までの撤退を果たす――何としてもそれをやり遂げるのだ。
「戻るよ、カナタ! マトヴェイが言ってた猶予の三分まで、もう時間がない!」
「まっ、待って……! かっカツミくんを置いてはいけないよ!」
マオの言葉を無視して、時間のロスは承知でカナタはカツミの救助に向かった。
仰向けに倒れた【ラグエル】に動きはない。【マトリエル】の猛毒が『魔力液チューブ』を通して機体全体に巡り、その機能を停止させてしまっている。
カナタは【ラグエル】の重い身体を抱き起こし、SAMの無骨な指先でその機体の項にあるコックピットハッチを抉じ開けた。
「わりぃ、コネ野郎……無様なとこ見られちまったな」
「の、乗って!」
顔を歪めるカツミにそう促して、彼が掌に飛び乗ったのを確認。すぐさま彼を肩に移し、足場伝いにコックピットに乗り込んできたのを尻目に、カナタは操縦桿を握る手に力を込めた。
自らの防壁に囚われたままの【マトリエル】をそこに残し、【ラファエル】は飛び立っていく。
「し、シオン、さん……」
『第一次福岡プラント奪還作戦』の際、カナタはシオンと顔を合わせ、少しだが話していた。
快活で優しいお姉さんという印象だった。やんちゃそうな容貌はカナタからしたら少々怖かったが、それでも彼女の言葉からは後輩を思いやる温かみが確かに感じられた。
そんな人と戦って、仲間が来るまで戦場に独り佇むという仕打ちをしてしまった。そのことに罪悪感がないと言えば、嘘になる。
けれどもその嘘を吐かなければ自身の心が持たないことも、カナタは分かっていた。
「しっ、仕方ない、じゃないか……戦わなければ、生き残れないんだから……!」
ぎゅっと目を閉じて頭を振り、カナタは唸るように声を発する。
カツミも、マオも、何も言わなかった。
*
(あの人よりも、速く――ここで潰えるわけには、いきません!)
刘雨萱は胸中で叫び、背中の翼へと意識を集中させた。
先には魔力光線の乱射を地上へ無作為に放つ【サハクィエル】がいる。対するユイの【ミカエル】は、大空を統べるあの機体に追い付けていないのが現状だ。
身体を打つ風が冷たい。限界近くまで魔力を燃やしている推進機が、悲鳴を上げている。
少女一人の脳が負担するにはあまりに過大な魔力量。
鼓動が暴れ狂い、呼吸が乱れる。
それでも、止まれない。止まるわけにはいかない。
(あの人を止めなくては――人が人をSAMで殺す戦場なんて、そんなのあっていいわけがない!)
今は亡き故郷の戦友も、散ってしまった『レジスタンス』での部下たちも、こんな結果を望んでいたわけではなかった。
彼らは皆、人が【異形】を恐れて生きずに済む世界を目指していた。平和な未来を希求していた。断じて、人同士が考えの違いから争う現実などではない。
(持って、わたしの身体……! あの人に追い付き、追い越すまでは――!!)
歯が軋むほど強く食いしばり、滝のような汗を流すユイはただ前だけを睨み据える。
【ミカエル】は三対六枚の翼の全てを展開し、限界を超えた加速を果たさんとしているが――それをせせら笑うかのごとく、【サハクィエル】は容赦なく先へ先へと驀進していった。
手足を折りたたんで『飛行形態』へと変形している空色のSAMが行く先は、【エクソドゥス】。
風縫ソラは『リジェネレーター』の飛空艇に真っ向から攻撃を仕掛け、打撃を与えるつもりなのだ。無論、SAM一機で飛空艇一つを沈めることなど不可能に近いが、誰の支援も得られない【エクソドゥス】にとっては風穴一つ穿たれるだけでも致命傷だ。そして、ソラにはそれをやれるだけの力が備わっている。
(たとえわたしがどうなっても構わないっ、でも、【エクソドゥス】だけはやらせません!)
柳眉を吊り上げたユイは心で叫んだ。
あそこにはユイの大切な仲間たちが乗っている。ユイたち【機動天使】や『対異隊』の兵士たちの帰還を待つ、かけがえのない戦友たちが。
マトヴェイやレイ、ミコト、ニネルとテナ、キョウヘイらメカニック、そして残してきた直属の部下たち――彼らの顔を脳裏に浮かべたユイは、腹の奥底から声を振り絞り、己を奮い立たせる。
「うあああああああああああああああああああッッ!!」
手を伸ばしても届かない。機体スペックでは同等であっても、パイロットとしての実力がかけ離れすぎている。
飛行速度において風縫ソラを超えるパイロットなどいない。あの御門ミツヒロや似鳥アキラでも、前線を退く以前の空軍最高のパイロットと称されたマトヴェイ・バザロヴァでさえも、今のソラの領域には達していないのだ。
一瞬が永遠にも感じる。少しでも緊張の糸を緩めれば全てが瓦解すると、本能が警鐘を鳴らす。
魔力も精神力も残滓すら残さず費やしている極限状態の中、ユイが引き出した策は――
「炎よッ、咲き誇れ!! 【紅蓮華舞】!!」
体勢は崩さず右腕だけを後ろへ突き出し、掌を開いた一瞬でそこから魔法を解き放つことだった。
灼熱の花弁が渦を巻き、乱舞する。
生み出された火焔の粒は小さいが、その一つひとつには圧倒的な熱と魔力が凝縮されている。
「イグニッション!!」
咆哮。
少女の号令に呼応して舞い踊る花弁たちが互いに衝突し合い、爆ぜた。
起爆と同時に膨れ上がったエネルギーが【ミカエル】の背中を突き飛ばし、猛烈な加速を実現していく。
その様は天を翔る彗星のごとし。
軽量化した装甲が衝撃に歪む中、ユイは握った操縦桿に爪を食い込ませながら薄青い魔力のベールを機体に纏わせる。
防御魔法【エンジェリック・ローブ】。『アイギスシールド』より耐久性では劣るが使用魔力が少なく、また衝撃に強いという特性を持つ新たな魔法である。
「わたしはっ! 絶対にあなたを止めます!!」
追いつけ、追い越せ!
裂帛の気合を放ち、ユイは【エクソドゥス】へと今にも迫ろうとしている【サハクィエル】へ手を伸ばす。
魔力残量が僅かであると告げてくるアラートが煩い。
それでもユイは構うことなく右腕を思い切り前へと突き出し、掌を開いた。
「焼き尽くせ、龍よ! 【紅蓮華龍】!!」
【サハクィエル】が折りたたんでいた手足を再展開し、腰に佩いていた長剣を抜き放った。
魔法攻撃にめっぽう強い『アイギスシールド』を突破するならば、物理攻撃が望ましい。そのセオリー通りの攻撃。
が、その刃が虹の防壁に達する寸前――火焔の顎が、それを喰らった。




