第二百九話 勝利の美酒を ―The memory which is to the extent I get tired―
『リジェネレーター』による旧東京駅周辺の探索。その一日目は、特に損害を負うことなく済ませられた。
経験の足りぬ者ばかりの烏合の衆、という下馬評を覆す快挙である。
兵たちの練度が足りないぶん、ユイたちは東京で出現が予測される【異形】に対策範囲を絞っての訓練を行った。
カナタやレイといった実力者や元『レジスタンス』のベテランが班長となり、兵たちを的確に運用することが出来たのも要因の一つだろう。
「ま、日程はまだ二日残ってるけど……とりあえず、初船出の一日目を終えられたことは両手を上げて喜んでいいでしょう。お酒の一杯でもやりたいとこだけど、都市に帰るまではお水で我慢して頂戴ね」
片手に水の注がれたステンレス製のコップを持ち、言うのはマトヴェイだ。
【エクソドゥス】ブリッジに集った部下たちを見渡して、彼は音頭を取る。
「んじゃ、無事に夜を迎えられたことを祝って! 乾杯!」
「「「乾杯っ!」」」
各々が水の入ったコップや水筒を掲げ、酒に代えてぐいっと飲み干す。
マトヴェイや彼の直属の部下である鳥海大尉らが豪快な飲みっぷりをみせ、その側で咽せたカナタの背をレイがさすり、ミコトやユイといった女性陣は控えめに一口。
彼らはその日の疲労を冷たい水で流し込み、労わりと喜びの情に変えていった。
「ぷはぁっ! ただの水とは思えないくらいうめえ!」
「ええ、本当に。貴重な水を一気飲みなんて贅沢ですけど、こうしたひと時もまた、貴重ですから。美味しさもひとしおです」
感情のままに叫ぶシバマルに微笑みかけるユイ。
彼女が視線をカナタたちの方へ移すと、ちょうど彼らもこちらを見たところだった。目が合って何だか照れくさくなり、お互いくすりと笑う。
「……遠征という非日常だからこそ、こういう瞬間がありがたく思える。でしょう、お二人とも」
「う、うん」
「え、ええ……」
頷くカナタの隣で、レイは目線を虚空へ彷徨わせていた。
彼の挙動にユイが言及することはなかった。それが戦いを経験した者にとって野暮な行為だと、彼女は知っていた。
「改めて、みんな今日はお疲れ様。夜の当番がある者を除き、二〇三〇(ふたまるさんまる)より就寝すること。いいわね」
マトヴェイに命じられ、士官たちは一斉に敬礼を返した。
部隊の成功は指揮官の奮励があってこそだということも、皆が知っている。
*
『な、なんとか、生き残れたね……』
『ああ……すっげえ快挙じゃないか、こりゃあ? なんたって、俺たちだけで「ミノタウロス型」に勝っちまったんだぜ?』
ログハウス風の小屋の前、焚き火を囲んで集う若き兵士たち。
皆が汗だくで、皆が泥まみれで、そして皆が同じ戦いを乗り越えた達成感を共有していて。
それが本格的な任務の初成功であったレイにとって、大好きな仲間が誰一人欠けずに戦場から帰れたことは至上の喜びにも等しかった。
『いやー、これもアスカの姉御のおかげっしょ。姉御がいなかったら俺ら、たぶん今ごろ最後の審判を待つことになってたぞ』
『……うん』
『もぉ、何言ってんのよディルク、ローベルト。これはあたしだけの勝利なんかじゃないわ。みんなで掴んだ勝利よ』
艶めく金髪を一つ結びにし、左肩の前にその束を流している年上のお姉さんは、早乙女・ラングレー・アスカ。
レイの実姉であり、誰よりも憧れた人だった。
『マルガも、エッボも、ディルクも、ローベルトも、そしてレイも。全員があたしと一つになって戦い抜いたことで、生き残れた。誰も謙遜する必要はないわ』
凛とした横顔に微笑みを湛え、アスカは皆の顔を順に見つめた。
姉の澄んだ青の瞳がレイを捉える。
戦闘中、レイは三度もアスカに庇われた。彼女はレイがミスするのを想定した上で敵の動きを予測し、的確に反撃を見舞った。
それがレイには悔しくて仕方がなかった。
全員の勝利などではないのだ。レイは足を引っ張っただけだった。
それなのに――。
『あなたたち全員が、今日のヒーローよ』
レイには聞き入れることさえできなかった。
皆が笑っているのに一人だけ俯くしかなかった。
マルガは敵の脚を負傷させた。エッボは腕を、ローベルトは眼を撃ち抜いて動きを止めた。ディルクは急所にこそ命中させられなかったものの、一番多く弾を当ててミノタウロスを着実に弱らせる働きをみせた。アスカは最後に心臓を貫き、とどめを刺した。
レイだけが、何の貢献もできなかった。
『レイ、落ち込むことはないのよ。無事に生きて帰れただけでも幸運。少なくともあたしはそう思うし、あんたがいてくれたおかげで全力を出せた。皆もそうでしょ?』
レイの肩を力強く抱くアスカに訊かれ、仲間たちが頷いてくれる。
人員が不足し、訓練兵の彼らまでも参加を要請された過酷な戦場の中、自分たちはよくやったのだとアスカは言った。
『でも、ボクは……』
『もう、元気出しなよっ。せっかく生きて帰れたんだから、笑顔でいなきゃ』
栗色のショートヘアにアーモンド型の青い目をしたそばかすの少女、マルガはレイの頬を指先で突っつく。
えいっえいっ、とちょっかいをかけてくる彼女に、レイは思わず口を尖らせた。
『ちょっと、何ですか!』
『あは、怒った〜。それでこそいつものレイだよ』
『おちょくられてプンスカしてる顔も可愛いぞ、レイちゃん!』
『ディルクまで……ボクをからかわないでくださいっ』
仲間たちの輪にたちまち温かい笑いが伝播していく。
マルガは肩を揺らしながら、ディルクはくつくつと喉を鳴らすように、エッボやローベルトは声を上げて、そしてアスカはレイの背中を軽く叩きつつ豪快に。
気づけば、レイも釣られて笑っていた。
この仲間たちと一緒にいると、いつもそうだった。
辛いことも悲しいことも、仲間たちと共有すればこんなふうに、自然と薄らいでいった。
『んじゃ、レイも元気になったことだし乾杯しますか!』
そう言ったのはアスカだった。
ぽかんとする一同に彼女は懐から取り出した水筒を振ってみせ、ウインクする。
『お酒なんてないけど……っていうかあたしたち未成年だから飲めないけど、お水で乾杯しましょ。あたしたちの、初めての勝利を祝って』
そこが自分の居場所だとレイは思っていた。
かけがえのない仲間たちといれば、自分は大丈夫だと安心していた。
ずっとこの時間が続くと信じていた。戦いと休息を繰り返す中で、共に強くなりたいと願っていた。
『そりゃあいいな。なんたって俺らチームでの勝利なんだからな』
『さんせーい! ねえ、私が音頭取ってもいい?』
『……いいんじゃないかな』
『マルガちゃんは目立ちたがりだからなー』
『うっさい! ディルクはいつも一言多いんだから』
『まぁまぁ、喧嘩しないの』
これが夢だとは分かっている。
もう何度も、倦むほどに見ている。
それなのに覚めたくないと求めてしまう。いつまでも記憶の中の彼らといたいと、ここから離れたくないと叫んでしまう。
『それじゃあ、今日の私たちの勝利を祝して! ――乾杯っ!』
それが、夢の終わりを告げる合図だった。
繭の中で丸くなる幼い少年は、その白い頬に透明な雫をきらめかせていた。
寝返りを打ち、背中側で寝ている無二の相棒を彼は思う。
もし、別れが来るとしたならば。もし、あの悲痛を再び味わうとしたならば。
早乙女・アレックス・レイという人間は、今度こそ永遠に自分を許せなくなるだろう。
贖罪とは何か。戦い続けることなのか。いなくなった者たちは生き残った者へ何を望むのか。死ぬのは罰か、それともただの逃げか。
「……わからない」
きっと神はそのためにいるのだろう、とレイは胸中で呟いた。
人が与えられるほど、罪への罰も、許しも軽くない。
それでも神は人に直接何かをしてくれるわけではない。不信心だと思われるかもしれないが、神は精神の拠り所に過ぎない。理想とも異なる。規範とも違う。ただ信じるべき存在――それが神だ。
つまるところ、結局は自らの精神次第。
自らの過ちを見つめ、過去と向き合い、なお未来へ突き進むのだという強い信念がなくては、罰も許しも手に入らない。
がさ、と背中側で物音がした。
寝袋を抜け出す気配がする。同室の相方を起こさないように細心の注意を払ったような忍び足で、カナタが部屋を出ていこうとしていた。
――待って。
レイは一人になるのが怖かった。
だが、飛び起きて声を上げることは出来なかった。
絆も、情も、自分に縋る資格はない。仲間を見殺しにして逃げた自分には――。
「……レイ」
カナタが名を呼んでくる声がした。
おそらく獣のように鋭い勘が、レイの気配の変化を嗅ぎ取ったのだろう。
彼に対し、レイは狸寝入りを決め込もうとした。しかし、相棒の優れた感覚に誤魔化しは通用しなかった。
「お、起きてるんでしょ。なっ、何で、息殺してるの」
「……お見通しでしたか。やっぱり君には、敵いませんね」
溜息を吐きながら、観念する。
上体を起こし、大げさに両手を上げて苦笑してみせるレイに、カナタは憂いを宿したし静かな視線を返してきた。
「……ど、どうしたの、レイ? なっ、何か悩みとかあるの……?」
「ええ、まあ……少し、昔のことを夢に見てしまって」
レイはそれ以上は何も言わなかった。あの記憶は可能な限り、外に晒したくはなかった。そうすることで、思い出を一切混じりけのない綺麗なものに保っておける気がした。
カナタもレイの心情を察したのか、何も追及しなかった。
「今日の君の部隊の働き、カオルさんから聞きましたよ。新種の『狼人型』亜種を討伐し、血液を採取できた功績は見事だと思います。よく頑張りましたね」
「うっ、うん。あ、ありがとう」
「班の仲間との関係はどうですか? 上手く、いってますか」
「そっ、そのことでカオルさんに言われたんだ。ぼっ、僕の班の皆は僕を一方的に信じてるだけで、それは盲信でしかないんだって」
課題に直面し、俯くカナタ。
それはレイが決して抱えたことのない問題だった。大切なものを失った以後の彼は、常に独りで戦い抜こうとしていた。だから、同僚からどう思われようがどうでも良かった。
今だってそうだ。レイは人事部に頼み、自分と【機動天使】パイロットは同じ班にしないよう頼み込んでいた。作戦上戦力を集中させ過ぎてはいけないと尤もらしいことを言いはしたが、単に自らの過失で仲間を失うのが怖かっただけだ。
「部下に信用されないよりずっとマシ……そう考え方を変えてみてはどうですか? 優秀な指揮官の下に忠実な駒があれば、戦場で生き残れる可能性は格段に上がります。君たちはその条件を満たしているんです。何も、悩むことはありませんよ」
突き放すような口調でレイは言った。
カナタが口を閉ざしてしまっても構わなかった。
「君は優れたパイロットです。部下をどれだけ効率的に運用するか――どのように動かしたら死なせずに済むか、それだけを考えていればいい」
上官にとって部下とはそういうものだ。
必要なのは絆でも情でもなく、リスクを負わずに勝ち抜こうという意志のみ。
「れ、レイっ……そ、そうやって割り切るのが大事だってことは、僕も分かるよ。でっ、でも、カオルさんやマトヴェイさんが言うことも一理ある。だっ、だから、僕は……」
二つの意見の間で銀髪の少年は揺れていた。
葛藤する彼を見つめていたレイだったが、暫しの沈黙の後、再び寝袋へと引きこもる。
言うべきことはこれで良かったのだと、レイは思う。
傷つきやすい相棒の心を守るには、そう勧めるのが一番いい。
「……おやすみなさい」
「お、おやすみ」
そう呟き、レイはこのやり取りにピリオドを打った。
元々用を足すために起きたカナタが部屋を出ていった後も、彼は、胸中でこれで良かったのだと言い聞かせ続けるのだった。




