第二百六話 少女の決意 ―I knew love.―
身体に密着する『アーマメントスーツ』には、驚くほど違和感を覚えなかった。
むしろフィットしすぎて自分が素っ裸なのではないかと思えるくらいであった。『プラント』で農奴をしていた頃は決して感じなかったであろう羞恥を、少女は初めて抱いた。
平気でミコトたち女性陣の前をスーツで歩くテナが信じられない、と彼女は思う。
あれはまだまだ子供なのだ。絵本は卒業して、レイたちから習った文字がたくさん詰まった本を読んではいるけれど、中身はお子様。
「これが、『恥ずかしい』……」
飛空艇を降りて初めて地上の土を踏んだニネルの第一声が、それであった。
*
SAMは『新人』たちにとって、恐怖の象徴であった。
自分たちと同じく青い肌の存在が、そう彼女らにすり込んだ。
ゆえに、それに乗ってくれないかとマトヴェイから頼み込まれた時、ニネルたちは第一声で拒否を突き返した。
しかしマトヴェイ・バザロヴァという指揮官は、心を鬼にして説得を続行した。
理智ある【異形】とのコンタクトを果たすには、広範囲に『交信』の魔力を飛ばせる『新人』の力が不可欠になる。
『アンタたちの力があれば、【異形】とヒトが争い合わずに共生できるようになるかもしれないの。SAMに乗って理智ある【異形】と接触するために戦場に出る――それはとっても恐ろしいことかもしれない』
努めて穏やかな口調で言ってくるマトヴェイの顔を、ニネルは見られなかった。
SAMは怖い。『ベリアル』のような理智ある【異形】も怖い。多くのヒトや【異形】が死んでしまう戦場は、もっと怖い。
それらを考えるだけでニネルの身体は震えてしまう。今すぐにこの部屋から飛び出して、何も言われなかったのだと自分に言い聞かせたくなる。
歯を食いしばり、ニネルは意を決して顔を上げようとした。
自分には無理だ、だからはっきりと断ろうというつもりで。
だが――彼女が行動に出る直前、口を開いたのはテナであった。
『僕、やる、です』
ニネルは耳を疑った。
けれども、おそるおそる横目でテナの面持ちを窺ってしまえば、最早それが聞き間違いだとは思えなくなった。
ライムグリーンの髪の少年の横顔は凛としていた。マトヴェイを見上げる瞳は真っ直ぐで、透き通るような輝きを宿していた。
『……戦場に出れば何が起こるかは分からないわ。そこでアンタ自身も命を落とすリスクがある。それでも、やれるのね?』
マトヴェイの確認にテナは躊躇いなく頷いた。
言葉を失うニネルの傍らで、彼は訥々(とつとつ)と自分の胸中を明かす。
『僕……ずっと、ミコトやカナタたちにお世話になってばっかりだった、です。だから、何かお返し、したくて……。僕がSAMに乗ることでミコトたちが喜ぶなら、それでいい、です』
テナの言葉を聞き届け、赤髪の将は厳然と頷いてみせる。
彼の肩にそっと手を置いたマトヴェイは「ありがとう」と一言いい、それからニネルに目を向けた。
『ニネルさん。テナくんが了承したからってアンタも同じ答えを出す必要はないわ。自分のやることは、自分の意志で決めなさい』
自分の意志。
そう言われてニネルは戸惑った。これまでニネルはほとんど、何かを自発的にやったことはなかった。ミコトやカナタたちとの交流の中でも、彼女は与えられたものを与えられるままに楽しんでいるに過ぎなかった。指示された通りに動く道具として作られた彼女に、自らの意思による選択など――。
『……わたし』
そこまで思考してニネルは気づいた。
いや、一度だけ彼女が自分だけの意思で起こした行動があったではないか。
戦場で懸命に叫んでいるミコトの力になりたくて、歌った。
初めて湧き上がったその思いこそが、彼女に芽生えた強烈な「自我」だ。
『……わたしも、ミコトと一緒に行きたい。ミコトと離れたくない。わたしは、ミコトが大好きだから』
怖いものはたくさんある。しかし、秤に乗せたそれらが跳ね上がるほど、ニネルがミコトへ傾ける想いは重かった。
自分たちは救われたのだと思う。その優しさに報いたいと思う。そして可能であるならば――彼女に、自分に寄り添ってほしいと思う。
『分かったわ、ニネルさん。テナくんと共に、精一杯ミコトさんたちを支えてあげなさい』
『――はい』
『新人』たちの成長は著しかった。農奴として使われていた間に止まっていた時間がミコトたちとの出会いをきっかけに動き出し、今や中学生程度の外見に相応しい精神へと変わっていた。
ニネルはもう、幼い女の子ではない。
思春期を迎えた、一人の少女なのだ。
『……恋を知った人間は強いわよ。その好きな人のためなら、なんだって出来ちゃうんだから』
別れ際、いたずらっぽくマトヴェイが言ってきた。
首を傾げるテナの隣で顔を真っ赤にしてしまうニネルは、何も言えず、足早にその場を去ることしか出来ないのであった。
*
「お疲れさまですわ、ニネル、テナ。長い間、よく『交信』してくれました。これからは実地調査に入りますから、あなたたちは少し休んでいてください」
寒冷地に生きられる植物は数少ない。【異形】と交配した種を除き、生き残れたのは一部のコケ植物や丈の低い木や草くらいだ。
その貴重なサバイバーが無人のビル街を覆い尽くしている光景を見つめていたニネルは、背後からの声に振り返る。
「ミコト!」
思わず声の調子を高めるニネルにミコトは微笑んだ。
桃髪の皇女は両手に握っていたボトルをそれぞれニネルたちに手渡し、言う。
「魔力回復効能のある経口補水液ですわ。しっかりと全部飲むようにと、軍医さんから」
軍医と聞いてテナが顔を引きつらせる。考えが顔に出やすい少年に苦笑して、ミコトは彼の質問に先んじて答えた。
「大丈夫ですよ、苦くはありませんわ。これはお薬ではありませんから」
「よかった……。ね、ニネル」
「テナと一緒にしないで。ミコト、わたしは別に苦いお薬だったとしても、飲めた」
「うふふっ、ニネルは偉いですわね」
むっとしたかと思えば顔を綻ばせたりと、ニネルもニネルで表情に反映されやすい人種だった。
出会った当初の感情を全く表に出さなかった頃と比べれば、見違えるほどの変化である。
今は一つ結びにしている髪を揺らしながら、ミコトは二人の側を過ぎて前へ進み、数歩行ったところで立ち止まった。
そして振り返ることなく、胸に手を当てて囁くようにこぼす。
「……本当は、あなたたちをこの場に連れて行きたくはなかったのです。それがわたくしの心の弱さだとは、分かっています。けれど、それでも……人と関わって生きる喜びを知ったあなたたちを、過酷な世界に引き戻したくはなかった……」
それは違う、と反射的にニネルは叫びそうになった。
だが、言葉が喉につかえて乾いた息だけが漏れていった。
「いま言ったことは、忘れてください。わたくしはあなたたちの覚悟を信じていますわ。恐怖を退け、使命の為に戦うあなたたちに深謝しています」
深々と頭を下げた後、上げられたミコトの顔にはいつもの穏やかな笑みがあった。
ニネルはその大きな愛を湛えた微笑みと、澄んだ青色の瞳に惹かれていた。
「ミコト……」
「ニネル、テナ。わたくしは『対異隊』の方々と共に、都市内の調査任務にあたります。その間、あなたたちは【エクソドゥス】内で待機していてください。良いですね?」
そう真面目に言い渡されては、返せる言葉がなかった。
自分たちはヒトの遺伝子を半分持ちながら、しかしヒトとも異なる存在。ミコトたちにとっては【異形】とヒトとの架橋であり、友でもあるが――結局は、『新人』とは庇護対象でしかないのだ。
対等ではない。
「……ニネル、戻ろ?」
テナに呼びかけられ、ニネルは思考を現実へと戻した。
今はとにかくやるべきことをやるのみだ。ミコトやマトヴェイから言われたことを守るのが、ニネルに課せられた役割。
「……うん」
タラップを登り、ニネルとテナは飛空艇内の廊下を早足に歩いていく。
二人が角を曲がろうとしたその時、そこで鉢合わせたのはボサッとした黒髪の青年であった。
「おお、二人ともちょうど良かった」
クールな印象を与える切れ長の目をした、その実熱い心を秘めている青年の名は矢神キョウヘイ。
『丹沢基地』から命を賭してニネルたちを救出した彼は、その後も度々二人と会って交流を深めていた。
「キョウヘイ、どうしたの?」
「お前たちの機体をさっそくメンテしてたんだが少々興味深いデータが見られてな。ちょっと付き合ってくれるか?」
ニネルに訊かれたキョウヘイは早口に答えた。
その口調から確かな手応えを感じ取ったニネルは、テナと顔を見合わせ、それから頷く。
自分たちでも気づくことのできなかった何かが、データとして反映されているかもしれない――そういった期待を胸に、彼女たちはキョウヘイの後に続いて艇後部にあるSAM格納庫へと急いだ。
「早かったですね、キョウヘイさん! テナくんはこっちへ!」
【イェーガー・空戦型】のコックピットハッチを開け、その背から顔を出している小太りの青年は宮島タイチである。
『リジェネレーター』の主力メカニックの一人として活躍する彼は、レイの専属メカニックを務めるほか、メカニックチームのまとめ役を任されている。
パイロットでありながら叔父同様にメカニックとしての勉強もしてきたキョウヘイと協力し、タイチは都市に残ったミユキの分まで全力でサポートに徹する気概でいた。
「ニネルはこっちだ」
キョウヘイに手を引かれ、濃紺の髪の少女はメンテ中の自分の機体へと乗り込んだ。
訓練を繰り返して見慣れたはずのコックピットは、それでも未だ窮屈な感じがする。胸を押さえながら操縦席に着き、ニネルはグラフが幾つか表示されているモニターを覗き込んだ。
「これ、何?」
「『魔力探知レーダー』のデータだ。この波線グラフは一定間隔で波が上がっているが、これは『飛行型』等の【異形】群との遭遇ペースに照応している。しかし……」
グラフには『魔力ゼロ』を示す中央の線を区切りとして、二本の波が走っている。上半分に走る波は『正の魔力』――主に攻撃に使われる魔力――を表しており、下半分の波は『負の魔力』――回復や『交信』といった攻撃以外に使われる魔力――が発されていることを意味する。
戦闘中に活発化している『正の魔力』の反応に混じって見られる『負の魔力』は、ミコトが発動した回復魔法によるものだろう。
「ここを見てくれ。戦闘終了後、魔力反応の波が途絶えたかのように見えたが……ほんの僅か、たった一秒にも満たない瞬間に『負の魔力』が微かに強まった。そういったタイミングが三度、確認されている」
戦闘終了後もカナタ、ニネル、テナが『交信』を行っていたために、『負の魔力』の反応は常に一定の値が示されている。
だが、二度目の『飛行型』群との戦闘後十五分目に一回、三回目の【異形】群との交戦後七分目に一回、四度目の【異形】群交戦後十二分目に一回と、計三回にわたって『負の魔力』が0.5パーセントにも満たない数値だが増加したのだ。
「これが何を意味しているか、今のところ断定は出来ない。しかし、もし理智ある【異形】や『新人』による『交信』への反応だとしたら……」
「ミコトたちが会いたがってたひとたちに、会えるかもしれない……?」
「その通りだ」
振り返って見上げてくるニネルに、キョウヘイは力強く首肯する。
無反応だと思って肩を落としていたが、データ上では確かに魔力の痕跡が確認された。これが希望の光か絶望の予兆かはまだ不明だが、期待してもいいところだろう。
「お前たちが魔力を費やしたことにも、ちゃんと意味があったというわけだ。ご苦労だったな」
「うん」
胸に湧き上がる喜びをニネルは噛み締めた。
自分が誰かのために何かをして、それを褒められる。少女はこの時、初めて仕事で得られる喜びを知った。




