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暁の機動天使《プシュコマキア》  作者: 憂木 ヒロ
第八章 転換の刻

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第百八十六話 カナタ脱走 ―"Through you"―

 皇ミコトは人類にとっての裏切り者。

 彼女は月居カナタ、早乙女・アレックス・レイ、刘雨萓リウ・ユィシュエン、犬塚シバマルと共謀し、捕虜となった理智ある【異形】と通じていた。

 マトヴェイ・バザロヴァをはじめとする『レジスタンス』幹部もまた、捕虜の【異形】十五体を匿った罪人である。

 ――それが、蓮見タカネが演説で明らかにした事柄であった。


 無論、それは真実ではない。

 だが、全くの出鱈目でもなかった。ミコトらの『新人』らとの交流は紛れもない事実であり、その映像は証拠として残っている。あとはその音声を都合よく編集してしまえば、タカネの思い通りだ。

 

 演説の中で流された皇女らと青い肌の理智ある【異形】とが会話する光景は、その日のうちに都市中の人々が目にした。

 何が嘘で、何が真実か――人々は惑い、その真偽を問わねばならないはずだった。

 しかしタカネの演説によって【異形】への憎悪を再び沸き立たせた大人たちは、疑いもせずにその嘘を信じた。

【異形】は敵であり、その【異形】と接触していた彼女らもまた敵に違いない、と。



『待って、信じられない』

『だが、ミコトさまが青い肌のバケモンと会ってたのは事実なんだろ?』

『あれもフェイクニュースなんじゃねえの』

『レイくんたちが嘘を言うとは思えないんだけど』

『でもあいつらもミコトと一緒に【異形】と関わってたじゃん』

『やっぱ裏切り者なんじゃね?』


 幅広い年齢層の混ざり合うネットの世界では、意見は二分していた。

【異形】の脅威を直接は知らず、政治にも関心の薄い若者世代にはレイの語ったミコトの思いを信じてみようという人も少なくない。

 だが、悲しいかな――世界の中心は大人たち、とりわけ老人たちだ。彼らが【異形】を憎み続ける限り、皇ミコトは都市に住まう人類の敵とみなされる。



「どっ、どどっ、どうすれば……こっ、こ、このままじゃ、僕たち……」


 パソコンを前に焦燥の言葉を口走るカナタ。

 この状況だからこそ冷静でいなければいけない――昼間レイにそう語ってみせたにも拘らず、カナタは席を立って部屋中をぐるぐると歩き回っていた。

 ニュースサイトのコメント欄は非難轟々だ。首謀者死亡で幕を閉じた『狂乱事変』以降、発散できずに溜め込まれた鬱憤が一気にミコトへと降り注いでいる。とてもではないがミコトには見せられない悪罵の言葉が、そこには連ねられていた。


「ぼっ、ぼ、僕たちが人類の敵だなんて……ぼっ、僕たちはただっ、こ、ここ言葉が通じる誰かと、わっ分かり合いたかっただけなのに……」


 都市の大多数に敵扱いされた自分たちは、これからどうなるか。

『学園』は果たして、この状況下でミコトやカナタらを守ってくれるのか。

 レイたちはまだ帰って来ていない。時刻は既に九時を回っており、もう戻っていなければおかしい時間だ。

 何か事件に巻き込まれてしまったのではないか――イオリの誘拐や『尊皇派』を狙ったテロを皮切りに不安定になりつつある治安を鑑みるに、最悪の事態が起こっている可能性はゼロではない。

 電話を掛けてもメールを送っても出ない相棒への心配は、募る一方だ。


(……無事だよね。無事だよね、皆……!)


 連絡がついたのは寮に居るミコトだけだった。彼女はカナタに「迂闊に動かぬよう」とだけ指示を出し、彼はこうして部屋で待機している。

 その言葉がなければおそらく今頃、カナタは一人で外に飛び出していただろう。

 少年は、レイたちを探しに行きたい衝動とミコトの厳命との狭間で葛藤していた。

 と、その時――コンコン、と部屋のドアが控えめにノックされる。


「……どっ、どなた、ですか」


 足音一つ立てずに彼はドアのそばまで歩み寄り、覗き穴を覗きながら訊ねた。

 そこにいたのは黒髪で糸目の少年。白い制服からして三年生だ。確かミユキと同じクラスの生徒だったが、カナタは話したこともないし名前も知らない。


たちばなヤイチ、といいます。僕はあなたたちの味方です。……ミユキさんから伝言を預かっています」


 垂らされた救済の糸に少年は迷わず飛びついた。

 静かにドアを開け、そこに佇んでいる一つ上の先輩を迎え入れる。

 後ろ手に扉を閉めたヤイチは細い目を弓なりに曲げ、訊いてきた。


「早乙女くんは?」

「……まっ、まだです。れっ、連絡取れなくて……犬塚くんやユイさんとも、まだ」

「そうでしたか。……しかし、君たちの部屋は広いんですね。そこそこのホテル並みだ」


 廊下を歩きながらバスルームへと繋がるドアを一瞥し、ヤイチは穏やかな口調で言った。

 状況にそぐわない緊張感に欠ける声に、カナタは呆気にとられる。


「何かお茶でも……コーヒーでも飲みたい気分ですね。あっ、そこの机にほとんど飲んでなさそうなのがちょうど……もう冷めてはいそうですが、頂いても?」


 正直カナタは、自分がレイのために淹れたコーヒーを勝手に飲んで貰いたくはなかった。

 だがヤイチが自分たちにとっての助けになってくれるなら、機嫌を損なわせるわけにもいかない。

 小さく頷くカナタに笑みを向け、椅子に掛けたヤイチはそばのパソコンを見やりながらブラジル豆の風味をしばらく楽しんでいた。

 

「…………」


 二人の間に降りた沈黙をかき消したのは、窓の外から聞こえてくる風雨の音だ。

 ガタガタとガラス窓を唸らせる強風に、ヤイチは「参りましたね」と呟く。


「急に降ってきましたね。少々面倒になりますが……嫌なのは嗅ぎまわっている連中も同じことでしょう」

「……あっ、あの、ミユキさんからの伝言って何なんですか」


 カップを揺らして黒い水面を見つめるヤイチに、カナタは我慢しきれず問うた。

 糸目の少年はその眼をゆっくりと開き、黒い瞳でカナタを射抜く。


「『橘ヤイチと共に「学園」を脱出し、『レジスタンス』本部へ向かえ』……それがあの人からの指令ですよ、月居カナタくん」


 ヤイチはそう伝えながら床に下ろしていたリュックを漁り、中からフード付きのケープ一着と太いロープを取り出した。

 二段ベッドの柱にロープの片側をくくり始める彼に、カナタは声を震わせる。


「あっ、あの……脱出って、まさか、窓から?」

「そうですよ。『学園』内に敵がいないとお思いなら、その認識は改めたほうがいい。ここは『レジスタンス』の下にあるとはいえ、組織系統自体は別物ですから。……先生方は今、君たちの対応について会議中です。あの情報の真偽も含め、どう判断するべきか彼らはかなり迷っているようでしたね。学園には生徒を守る義務がある、彼らがそれをどれだけ重く取るか……」


『学園』がカナタらを反逆者として警察に突き出す恐れがあるのなら、タカネの手が及ばない唯一の安全圏である『レジスタンス』へ彼らを逃がすしかない。

 時間的な猶予は殆どない。もう会議が始まって二時間あまり経っており、時刻からしてもそろそろ切り上げる頃だろう。そこで結論が出たならば、彼らがこちらへ向かってきてもおかしくはない。

 急がねばならない状況だと分かっていながらコーヒーを暢気に飲んでいたヤイチを、カナタは睨みつけた。

 本当にこの人は信ずるに値するのか――そんな疑念が込み上げてくるなか、ヤイチは笑って言ってくる。


「大事な任務ミッションの前だからこそ、リラックスが必要なんですよ。これでも僕、めちゃくちゃ緊張してまして。あのお姉さん、怒ると怖いですからね」


 そう冗談めかし、ヤイチはケープをカナタの肩に被せた。それから彼はロープの固定具合を手早く確かめる。


「十分ですね。……さあ、早く」


 開いた窓から差し込む突風に髪を乱されるヤイチは、振り返ってカナタへ手を差し伸べた。

 と、その瞬間。

 ドンドンッ、とドアを乱雑に叩く音が鳴り、野太い声が響いた。


「二年A組、月居カナタ! そこにいるのなら、何も持たずに手を上げろ!」

「っ――急いで、降りてッ」


 小声で鋭く叫んだヤイチに頷き、四階の窓から真っ暗な中庭を見下ろすカナタ。

 ここで捕まるなんて御免だ――意を決してロープを掴んだ彼は、垂らしたそれを頼りに窓の外へ身を乗り出した。


「いないのか、月居!? ……寮母さん、マスターキーを」

「中庭の脇、駐車場まで走って。僕は残って教官を足止めします」

 

 そのヤイチの言葉を最後に、カナタは振り返らず壁を下りていった。

 激しい風雨に揉まれ、濡れて手が滑りそうになる。

 それでも絶対に仲間たちと再会するのだと念じ、冷静であろうと努めた。

 

「ぐっ――!?」


 暴風に吹かれて体制が崩れ、連鎖するようにロープを掴んでいた手が宙を掻いた。

 胃がひゅんと浮き上がるように感じた刹那、眼下を睨んだ少年は歯を食いしばる。

 

 ――こんなもの、地上での戦いに比べれば!


 どうってことない、と彼は胸中で叫んだ。

 二階の高さからの落下。きちんと受身を取れば着地できる距離だ。

 

「づっ――!」


 柔らかい芝生の上に転がり落ち、背中を地面に打ち付けたカナタ。

 身体を丸めて頭への衝撃を回避した彼は、神経が訴える痛みを無視して起き上がる。

 背中の様子を見るのは後でいい。今はとにかく、ヤイチに言われた通りに動くだけだ。

 荒々しい風雨の音以外には何の気配も感じない中庭を突っ走っていく。


「はっ、はぁっ……!」


 植木が築く自然のフェンスをすり抜け、駐車場へ。

 そこにざっと目を走らせ、車内ランプの点いている一台へと一直線に駆け出す。

 開いた後部座席に飛び込んだカナタは顔を上げ、運転席にいる何者かを見つめた。


「月居くん、ケープと靴を脱いだら座席の後ろのトランクに入って」


 正面の鏡越しに彼へ視線を返したのは、養護教諭の沢咲アズサであった。

 ライトの消灯した車内でカナタが装備を脱いでいる間、後部座席に座っていたもう一人の人物が笑いかける。


「月居くん……まさか、このようなことになるとは思ってもみませんでしたわね」


 暗がりの中で薄らと見えるのは、縦ロールが特徴的なツインテールのシルエット。

 神崎リサ――彼の一年次からのクラスメイトである、神崎財閥の跡取り娘である。


「か、神崎さんっ? ど、どうして……」

「事情の説明はっ、後ですわ。沢崎先生、お出しになって……」


 彼女の声は苦しそうに歪んでいた。カナタがトランクに入るのを確認したアズサはハンドルを握り、発進させる。

 狭いスペースの中で蹲ろうとしたカナタは、少しずつ目が慣れてきて見えたものに思わず声を上げそうになった。


「っ、ミコ――」

「お静かに。わたくしたちは密輸される荷物でありますので」


 目の前にあったのは、カナタと向かい合うように膝を抱えて座っていたミコトの顔だった。

 肩をはね上げさせる彼に少女は囁きかけ、トランクに積まれていた黒いビニール袋を手渡す。


「この中に入って、ゴミ袋のフリをしてください。それで誤魔化せるかは分かりませんが……急病患者を乗せた車を長々と足止めする不届き者は、この学園にはいないはずです」

 

 喘ぐようなリサの声からして、彼女は本当に体調がかなり悪かったのだろう。

 ミユキとの繋がりがあったアズサは彼女からの指示を受け、ミコトらを学園外へ運び出す口実としてリサを利用したのだ。

 何も見えない袋の中、車に揺られて数分。

 止まったそこでアズサは事務員に話を付け、すぐさま出発していった。


「……私の日頃の行いが良くて助かったわ。矢神先生みたいなちゃらんぽらんだったら、こうはいかなかったでしょうね」


 急患だと訴え、個人情報が刻まれた市民証を読み取り機にかざしただけでアズサの車は通してもらえた。

 ほとんど車通りのない学園近くの国道で飛ばしていきながら、アズサは落ち着き払った口調で言う。


「月居くん、ミコトさん。あなたたちはまだ袋に入ったままでいて。途中で呼び止められたり、外から車の中を覗かれたりしたら不味いから」


 行き先は『レジスタンス』本部のある中央区画だ。アズサの顔は一般に割れておらず、怪しまれることもそうないだろうが――用心に越したことはない。

 ミコトとカナタが「裏切り者」として捕らえられてしまったら、せっかく開けた【異形】との対話の道が閉ざされてしまう。彼らが捕まっても誰かが後に続けばまだ良いのだが、そのような者がどれだけいるか。

 

「神崎さん……巻き込んでしまってごめんなさいね」

「い、いえ……。わたくしにはまだ、にわかに信じられないことなのですが……月居くんたちはこれまで、教室や『第二の世界』で共に過ごした仲間です。私は、あの情報だけで、彼らを一方的に否定したくありませんわ」


 熱に頬を紅潮させるリサは、痛む頭を抑えながら首を横に振った。

 彼女はまだカナタたちから何も聞いていないのだ。彼らに対してどう向き合うかは、話し合ってから決めてもいい。


「私は、周りよりも自分第一に生きる女ですから……自分の意見は、自分で決めます」


 自分か、それ以外か。その「それ以外」が何を喚こうが、そんなものはリサにとって取るに足らないヤジに過ぎない。


「自分」を貫くリサの台詞に、アズサは返す言葉を迷った。

 アズサがカナタたちを助けようと思ったのは、ひとえに矢神キョウジならばそうするだろうと思ったからだ。明坂ミユキを月居司令と「対話」させるために命を賭した彼なら、【異形】らとの架け橋になろうとしているカナタたちに助け舟を出すはずだと。

 沢崎アズサは矢神キョウジの亡霊に、流されている。

 彼が死んでからのほうが彼のことを意識している気がするのだ。その思いを拒む者はおらず、彼を横取りする女も他にいないが、いつもの煙草の匂いだってどこにもない。


「……死んだ誰かのために生きている私を、あなたのような人は軽蔑するのかしら」


 車は信号で止まった。水筒の蓋を開け、立ち上るコーヒーの香りを吸い込みながら三十路過ぎの女は訊ねる。


「あなたがその生き方に納得できているのでしたら……私は、軽蔑などいたしませんわ」


 神崎リサは誇りと驕りを履き違えない少女だった。真っ直ぐ前を見据えている彼女に対し、アズサは俯いて水筒の中の黒い水面を見つめる。

 矢神キョウジは死んだ。彼の葬式に出席し、別れは済ませた。それなのにアズサは心のどこかで納得できずにいる。何かの間違いだと思っている。納得できない何かに引っ張られて、ここまで来ている。


「……分からない……分からないの。両親も妹も、みんな奇跡的にあの災厄をくぐり抜けてきたから……大切な誰かがいなくなるって、こんなにも……」


 アズサには自分が分からない。常に自分が夢遊病者なのではないかという気がしている。

 水を掻いてもこぼれ落ちるだけ。空を見上げても太陽は見えない。身体は歩いていても、精神は澱んだ闇の底から這い上がれずにいた。

 咳を何度か繰り返すリサをちらりと振り返り、アズサは思考を打ち切った。

 自分は元軍医であり、養護教諭だ。己の悩みよりも苦しむ他者のために動かねばならない――そう意識を引き締め直す。


 

 数十分後、車は『レジスタンス』本部内の地下駐車場前に到着した。

 入口前に佇んでいたのは、ダウンジャケットを着込んだ明坂ミユキである。

 アズサが車内の灯りを付けるとミユキはそちらへ手を振った。改めて「明坂」として生きると決めた彼女は、不破時代の眼鏡を外した目を柔らかく細める。


「来てくれたわね。ありがとう、沢崎さん」

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