第百八十三話 無血の戦い ―Appropriate for a person, you can laugh―
「ニネルたちを、守る……でも、どうやって?」
ミコトは自分に正直に、やりたいことを見定めた。
タカネや家族と対面したその日の夜、彼女は寮の自室にレイたちを呼び、その胸のうちを明かした。
もし蓮見タカネが『レジスタンス』司令選挙に出馬し、その座に就いたならば『新人』たちは間違いなく始末されてしまうだろう。
「司令選挙の開票日がタイムリミットです。彼らの管理権がマトヴェイ元帥のもとにあるうちに、安全な場所へと逃がしてやらねばなりません」
訊ねてくるレイにミコトは早口に答えた。
選挙が終わるのは約二週間後なのだ。もたついている時間はない。
「ミコトさん、あなたの気持ちはよく分かります。わたしも、ニネルたちには無事でいてほしい。ですが……『安全な場所』を見つけるのは、この世界では難しいことです」
地下都市はタカネの手中にある。どこに『新人』らを隠そうが、マスコミや警察、彼と繋がりのあるあらゆる者たちのネットワークがその居場所を暴くだろう。
そうなると、安全圏は地上に限られてくる。
だが、地上は知ってのとおり【異形】の住処だ。基地や『プラント』もタカネが司令に就く可能性がある限り、セーフティネットとはいえない。
「じゃあ、どうすんだよ。テナやエイトンたちを見殺しにするなんて、おれは嫌だぞ」
「そのために今、考えてるんですよ。何か……何か良い手は……」
シバマルが歯ぎしりし、レイは思考を巡らせながら唸る。
これまで多くの戦場で知識と閃きをもって対処してきたレイだったが、ヒトの小さな世界で隠しものをするという難題には苦戦せざるをえなかった。
「……っ、ダメです。何をしようにも、蓮見タカネの力が大きすぎる。政界やマスコミのみならず、彼の影響力が警察にまでも及んでいるというミコトさんの推察が正しいなら……正直、正攻法ではどうにもなりません」
お手上げ。それが、レイの捻り出した結論だった。
蓮見タカネは人心掌握の達人だ。彼は人の中に眠る欲求を見出すのが上手い。七瀬イオリからは「正義感」、九重アスマからは「承認欲求」をそれぞれ引き出し、それらを満たせるアプローチをかけることで彼らを「狗」へと仕立て上げた。
彼の「狗」はどこにでもいる。自らの息のかかった者を要所に置くことで、タカネはその立場以上の影響力を持っているのだ。
持ち前の才覚と皇女の許嫁であるという箔を以て、政治家になって十年にも満たない貴公子はそこまでのし上がってきた。
「あ、あのっ、ミコトさん……は、蓮見さんが選挙で負ければ、『新人』の皆は助かるんですよね……?」
「それは、そうですが……現状では、政界に彼の対抗馬となりうる人物はおりません。現実的ではないかと思われます」
カナタからの確認に頷きつつも、ミコトは硬い声音で現実を語る。
が、言ってから彼女は思い至った。
彼が首相になるのは間違いないだろうが、司令選挙で勝てるかはまだ分からない。司令選挙に票を投じられるのは500名の議員と『レジスタンス』の士官のみ。ミコトの記憶が確かなら、現在投票権を持つ士官は尉官である彼女ら自身も含め502名だ。
『レジスタンス』側の全員を味方に付けることが出来たなら、タカネから司令の席を守れる。
「バザロヴァ元帥は出馬すると仰られていましたよね。彼が勝てるように働きかける……難しいかもしれませんが、それならば」
一筋の希望が見えてきた。
マトヴェイはミコトを信じ、『新人』や【異形】への対話を認める姿勢を取っている。彼が司令選挙で勝利すれば、ニネルたちは現状の平穏を維持できるだろう。
険しい面持ちだったレイたちの顔に光が戻る。
彼らは顔を見合わせ、新たな決意を胸に頷き合った。
「では、わたくしは明日にでもバザロヴァ元帥とコンタクトを取ってみます。レイたちはSNS等、ネットを使って発信してください。投票人たちは世間の声も判断材料にします」
「分かりました。これで少しでも元帥の票が増えれば……最悪、勝てなくともバザロヴァ派の数が無視できない割合まで達せば、ニネルたちを救う手立てはありますからね」
少年少女のSAMを使わない戦いは、こうして始まった。
だが――彼らはまだ、知らなかった。
蓮見タカネのプロパガンダはまだ、序の口であるということを。
敵を作り出すことで味方の結束を強める彼のやり口に、一切の容赦などないことを。
*
テレビで、ネットで、ラジオで、街頭のポスターで。
十一月に入ってからというもの、人々が蓮見タカネを見ない日は一日たりともなかった。
マトヴェイ・バザロヴァは『レジスタンス』本部の廊下を歩きながら、前からやって来た士官の会話に耳を傾けようとした。
しかし彼らはマトヴェイとの距離が縮まると口を噤み、敬礼すると足早に去っていってしまった。
(……聞かれたくない話でもしてた? あの子たちはアタシの味方、しないつもりなのかしら)
どうにも自分は疑心暗鬼になりつつあるようだと、マトヴェイは額に手を当て俯く。
今の士官たちも、単に俗な話を上官に聞かれたくなかっただけかもしれない。しっかり敬礼もしていたのだし、杞憂だろう。
(……これが、月居司令の抱えていた重圧? いえ、違うわ……司令に敵なんていなかった。強すぎる対抗馬と司令の座をかけて戦うのは、アタシが初めて……)
プレッシャーに苛まれる女装の麗人は頭を振り、舌打ちした。
弱気になってはおしまいだ。月居司令の理念を継承し、彼女の過ちを認め体制を変えていく存在は、これまでの軍を知るマトヴェイでなくてはならない。
「……お疲れ様です、元帥」
曲がり角で鉢合わせたのは生駒センリ中将であった。
剛毅木訥な青年は敬礼し、一言挨拶してすれ違おうとする。
が、その間際、彼は足を止めて淡々とマトヴェイへ告げてきた。
「士官たちが話していましたよ。元帥は衰えていると。【異形】の血を引く者どもをいつまでも基地に置いておくなど、耄碌の極みであると」
「……彼らは貴重な研究対象よ。保護し、観察することで得られるものも多い」
生駒センリは【異形】を誰よりも憎悪し、奴らを狩り続けてきた男だ。その姿勢は彼が『修羅』と呼ばれるようになってからずっと、変わっていない。
マトヴェイは理屈を説いた。だが、それで納得するほど彼らの憎しみが生温いものではないと、分かってもいた。
「生駒中将……アンタ、休んでる?」
「は?」
虚を突かれて間の抜けた声を漏らすセンリ。
鋭い眼光で見据えてくるマトヴェイに、青年は正直に答えた。
「いいえ」
「でしょうね。……生駒中将、いきなりにはなるけどアンタに二週間の休暇を命じるわ。アタシの下で働くのはこれが最後になるかもしれないけれど……ま、ゆっくりして頂戴」
戦いから少しでも離れれば、彼の黒い炎は勢いを弱めるかもしれない。怒りを鎮めるのは何も、果ての見えない復讐だけではないのだ。時間が苦しみを和らげてくれる。
マトヴェイもそうだった。妹を失った頃の彼は世界を、【異形】を、そして人を呪った。だが十年以上経った今では、当時のように周りの全てを敵視することはなくなった。今のマトヴェイはあの頃と比べれば別人のように穏やかになったと、彼自身思っている。
「何故です、元帥。俺はまだ【ゼルエル】に乗れます。【七天使】に欠員が出ている今、俺が離れては……」
「その点については問題ないわ。理智ある【異形】及びそれに準ずる力を有すると判断される【異形】が出現した場合、代わりに【機動天使】や【ドミニオン】を招集するから」
センリは唇を噛み、冷厳とした眼差しで見つめてくる上官へ反駁しようとする。
が、マトヴェイは来るだろう彼の発言に対しすぐさま先手を打った。
「これは司令の命令よ」
「……っ」
『学園』に在籍していた頃から、自分が軍人であることを忘れた日はセンリには一日たりともなかった。
上官の命令は絶対――その不可侵の規則を前に、彼は渋々だが従わざるを得なくなる。
「アンタの休暇に合わせて、麻木中佐にも休みを取るよう言ってあるわ。せっかくの長期休暇なんだし、彼女と少し出かけてみたらどうかしら?」
「……何故、そのようなことを」
センリの副官である女性士官、麻木ミオ中佐が彼に気があることをマトヴェイは見抜いていた。
お節介を焼く女装の彼に、センリは素朴な雰囲気を醸す顔をぽかんとさせる。
その表情にマトヴェイは目を弓なりに細め、くすっと笑い声をこぼした。
「少しは人間味のある顔、できるじゃないの」
*
選挙を前に報道は加熱していく。
国民たちは既に結果の見えている国政選挙よりも『レジスタンス』司令選挙に注目し、その議論を白熱させた。
今、多くのマスメディアはタカネのイメージアップ戦略とマトヴェイのネガティブキャンペーンに努めている。
だがテレビの国営放送局や『レジスタンス』に近しい一部の新聞は、『プラント』奪還作戦の陣頭に立って指揮した英雄としてマトヴェイを報じ、彼の支持率向上のため動いてくれたていた。
「蓮見タカネが『腐敗』と呼んだ政府と我々の癒着……味方してくれる国営放送局や『レジスター』紙との関係も、それがあってのこと。こんなのに縋らないといけないなんて癪だけど……」
『それでも、使えるものは使わねばなりませんわ。国営放送も『レジスター』紙も、外部との癒着なきクリアな報道方針を掲げ、組織改革に努めています。国民に対して誠実に訴えていけば、きっと信じてもらえるはずですわ』
選挙まで一週間を切ったこの夜、マトヴェイとビデオ通話しているのはミコトだ。
タカネと決別した彼女はマトヴェイを勝たせるため、自らのSNSアカウントや動画サイトのチャンネルで「お気持ち」を表明していた。
政治への不干渉が法で定められている皇族である彼女は、選挙にまつわる具体的な言葉を避けながら、『レジスタンス』を束ねるのは彼らの実態をよく知る者が相応しいと訴えたのである。
「ええ、そうね。アタシとしてもそう思わなきゃ、やってけないわ。ミコトさん……貴女の勇気ある発言は、無駄にはさせない」
『勇気だなんて……わたくしは、抜け穴を探してこそこそと我が儘に動いているだけですわ。皆が崇める皇女としての誇りは、このエゴのために捨てた……』
吹っ切れたと言って二度と後悔しないほど、ミコトは割り切りの良い人間ではなかった。
未来は定めた。だが、過去を顧みると本当にこれで良かったのだろうかと思わずにはいられなくなる。
「迷わないで、ミコトさん。前にも言ったけれど『新人』との関わりを投げ出すことは、アタシたちへの裏切りになるわ。貴女の道はあの時……【異形】との対話を打ち出した時点で、決まったものなのよ」
ミコトが掲げたのは不確定な希望だ。どちらに転ぶかはまだ分からないそれに、マトヴェイやミラー大将らは賭けた。
その先に戦いのない、平和な世界が待っていると信じて。
「まあ、人間なんだからやる前に迷ったりすることは当然あるわよ。けれど、そういう不安なんかは案外行動に移せばなくなるもの。『まずはやってみること』……アンタの言葉よ、ミコトさん」
『そう、ですわね。ありがとう、元帥。わたくし……誰か、背中を押してくれる大人の方がほしかったのかもしれません。未熟な子供の思い上がりなのではないかと、心配でしたの』
「また何か悩むようなことがあったら、いつでも連絡して。アタシでよければ、相談乗るから」
子供を導くのが大人の責務だ。それを弁えているマトヴェイは煙草の紫煙を吐き出しながら、ミコトをある少女に重ねる。
『人も、【異形】も、殺し合わずに生きてけたらいいのにね』
いつか、橋の下の隠れ家の中で妹はそう言っていた。
当時のマトヴェイはそれを絵空事だと笑い、まともに取り合わなかった。だが、今なら分かる――戦いが奪う命の尊さと、戦いによって磨り減る心の痛みが。
『バザロヴァ元帥……あなたの勝利を、願っております』
胸の前で指を組み、敬虔なる信徒のようにミコトは祈った。
マトヴェイは口元を僅かに綻ばせ、「ありがとう」と改めて彼女に感謝を伝える。
月夜の窓辺に彷徨う紫煙から、目を逸らしながら。




