第百六十九話 何者 ―interact―
気づけば、それは当たり前の日課になっていた。
復興作業や訓練、リハビリ、皇女としての公務……それぞれが為すべきことをした後、夕刻になると彼らは集まって、『新人』のもとを訪れた。
コミュニケーションが著しく苦手な彼らに対し、どう触れ合うか。その問題にミコトが出した答えは、「彼らを『言葉』に慣れさせること」であった。
決められた仕事をやらされるだけだった『新人』たちが言語に触れた機会は、『ベリアル』ら【異形】が指示を出す時くらいだっただろう。
彼らはそもそも、人の会話に慣れていないのだ。
赤子が親や周囲の人が話すのを耳にして言語を獲得していくように、彼らに話を聞かせればいずれコミュニケーションが取れるようになるだろう、とミコトとレイは考えた。
「昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが……」
ある日は日本の昔話を。
また次の日は、レイの知っているドイツの童話を。
『プラント』の中でしか生きたことのない彼らに、外の世界――人の物語を聞かせる。
「きょ、今日のお昼はね、とっ特別にカツ丼が出たんだ。あっあと一週間を切ったから、残りの日も勝って乗り切れるようにって。か、海軍のミラー大将が、に、人数分の冷凍肉を艦に積んでおいてくれたんだって。すっ、凄く美味しかったんだよ。にっ、肉汁がじゅわーっって出てきて、だっ出汁の味が染み込んでて……」
その日食べたものの話。
畑に新しく小麦を植えたのだという話。
男女のちょっとした痴話喧嘩のような話。
他愛のない話の数々を、カナタたちは『新人』たちに語った。
反応があまりなくとも、それで構わないのだと彼らは受け入れた。多少時間がかかろうが、いつか交流できるようになればいい。
「♪ さあ飛び立とう、僕らの蒼穹へと 二人一緒なら きっと怖くない」
そして、日々の話の最後には歌があった。
ミコトの美しい歌声は『新人』たちを惹きつけ、癒した。彼らは歌詞の全てを理解できているわけではなかったが、単純にその旋律に聞き入っていた。
自分の歌声がヒトと、『新人』との架け橋になるかもしれない。そのことがミコトには嬉しく、また誇らしかった。
彼らはミコトを皇女として見ない。皇女という付加価値抜きに自分の歌が好きだと、心地よいと、瞳で表してくれることに何より喜びを抱いた。
復興作業が残り三日となった日。
ミコトやカナタたちにとって嬉しい変化が起こった。
「ミコト、レイ、カナタ、ユイ、シバマル……」
濃紺の髪の少女、9Lがミコトたちの顔をそれぞれ指差して、名前を呼んだのだ。
確かめるように何度も、何度も。
「覚えてくれたんですね、良かった……!」
「9Lちゃん、シバマルお兄さんでちゅよ~。もっと名前呼んでごらん~」
ユイが感激する隣でシバマルは物凄くデレデレしていた。
元々子供好きな彼はあどけない9Lに猫なで声をかけるが、その媚びた声に少女はぷいと顔を背ける。
「あらら、振られちゃいましたね」
「……っ、ふ、振られるのは慣れてるぞ。なんたっておれは一番好きな女の子に、真っ向から他に好きなイケメンがいるって断られたことがあるからな」
「んー、それ誰のことでしょうか?」
「いっ、言わせんなよ恥ずかしい……」
カップルがイチャイチャしているのを他所に、ミコトやカナタたちもまた喜びを露にする。
ミコトが鉄格子越しに9Lへと手を伸ばすと、濃紺の髪の少女はおずおずとだが指先を握ってくれた。
「触れ合っていると、温かくなるでしょう? 心も、身体も」
「あたたかい?」
「この感覚が、『温かい』ですよ」
感覚に紐づく言葉を教える。そうすると9Lは何度かそれを繰り返し発音して、「覚えた」と呟いた。
顔つきや体つきは中学生くらいに見えるが、感情の出し方を知らないその顔は幼子のように無垢だった。
『プラント』での任務で溜まった疲れも、彼女の表情を見ていると何故だか気にならなくなる。
(肌は青く、【異形】の血を引いてはいますが……彼女もまた、人の子と変わらない)
そう再確認させられるミコトは9Lの手を握ったまま、他の『新人』たちにも目を向けた。
首を回して振り向くと、すぐに一人の『新人』と視線がぶつかる。
9Lの独房から通路を挟んで真ん前の牢にいる、十四、五歳程度に見えるライムグリーンの髪の子供。
肩口まで伸びた髪に目の大きなあどけない顔立ちのため一見女の子っぽく思えるが、肩幅を見るに少年だと分かった。
「あなたのお名前は?」
「……10A」
やはり9Lと同じく英数字が割り振られただけの名前だった。
10番のA。番号一つにつきアルファベット26個とすると、既に約260人ほどの『新人』が生み出されていたことになる。発見された『新人』はここにいる十五名が全てだ。残りはおそらく、既に死亡している。
(……彼ら彼女らが、生き残ったたった十五人の『新人』……)
10Aという少年の青白い手を握りながら、ミコトは彼らのこれからを思う。
僅か十五名の新たな種族。倫理を超えて誕生した、ヒトと【異形】の間の子。科学者たちは彼らを調べたがるだろう。その肉体や脳の機能の人間との差異を明らかにするために、人権を無視した実験も推し進めるかもしれない。
そして、その行為を咎められた時に科学者たちは言うのだ。
「彼らは【異形】なのだから」と。
「10Aに、9L……やはり少々、呼びにくい名前ですわね。どうでしょう、もし彼らが良かったらですが、わたくしたちのほうで名前を付けるというのは」
「お、それいいじゃん。番号とかで呼ぶのもあれだし……それに、【異形】の奴らにこき使われてた頃の呼び名なんて捨てちゃったほうが……」
シバマルが賛同するなか、ユイは彼らの前にしゃがみこんで「新しいお名前、欲しいですか」と訊ねた。
名前は自己の確立に必要不可欠な要素である。『新人』たちが【異形】のコミュニティを離れ、ミコトたちと同じ場所で過ごしていくなら、そこでの「自分自身」を確かなものにするためにも新たな名は要るだろう。
「……分からない」
9Lはそれだけ答えた。10Aも何も言わなかった。
名前にまつわる概念も文化も、彼らは知らなかったから。
「でっ、でも、9Lさんも10Aくんも、じっ自分はそう呼ばれるものだって、ず、ずっと思ってきたわけなんでしょ? だっ、だったら、わざわざ変えなくても……」
「確かにそうですね。でしたら…折衷案にはなりますが、ニックネームを付けてみてはどうですか。それなら彼らも受け入れやすいし、ボクらからも呼びやすいでしょう」
カナタが異論を唱え、レイが新しく具体案を出す。
黙って話を聞いている9Lと10Aをそれぞれ見つめ、ミコトたちは彼らに訊いた。
「どうでしょうか、お二人とも」
「ニックネームというのは、本名とは別に付けられる呼び名のことです。たとえば……」
「おれが『月居カナタ』をツッキーって呼んだりするようなやつだな」
「多くは親愛の気持ちが込められた名前です」
レイ、シバマル、ユイが教える「ニックネーム」の意味を二人が飲み込めたかは分からない。
が、濃紺の髪の少女が興味を示すワードは、ユイの台詞の中に入っていた。
「気持ち……『しんあい』の気持ちって、何?」
「誰かをお友達だと、大切な人だと思う気持ちですわ。とても『温かい』気持ちです」
「あたたかい……ニックネーム、ほしい」
9Lは鉄格子越しにミコトへ手を伸ばし、彼女の指に触れて言った。
少女の口調は初めて対面した頃の無機質なものから、幾分か柔らかいものに変わっていた。
「ニックネーム……お二人の名前から外れすぎないような名前にしなければなりませんね」
うーん、とミコトたちはしばし黙考する。
面会制限時間が迫るなか、まず案を出したのはレイであった。
「9Lさんは『ニネル』、10Aくんは『テナ』というのはどうでしょう? ナインとテンをローマ字読みして、そこにL、Aを付け足したネーミングです。これなら呼びやすいのでは?」
「おっ、いいじゃんそれ! 一気に名前っぽくなったな!」
「素敵な響きですねー。いいと思います!」
シバマルとユイがレイの案に一票入れ、カナタも納得したように頷く。
それが良さげですね、と呟いたミコトは二人の顔を順に見て確かめた。
「9L、あなたが『ニネル』。そして10A、あなたは『テナ』。これからわたくしたちは、あなた方をそう呼びます。よろしいでしょうか」
二人の『新人』はその新たな名前を繰り返し声に出す。
やがてその名が気に入ったのか、9L改めニネルはミコトへ「名前、呼んで」とせがんできた。
10A改めテナは先程まで固まっていた体勢を崩し、身体を微妙に揺らしていた。穏やかな表情である彼のその動作は、まるで歌のリズムに乗っているようにも見えた。どうやら彼なりの喜びの表現らしい。
「テナくんは言葉よりも身体での表現のほうが向いているのかもしれませんね」
「ニネルさんは一番お喋りで、他の『新人』さんたちは全然喋らなくて……『新人』もわたしたちと同じく、人それぞれってわけですね」
レイの言葉にユイが続き、彼らのコミュニケーションについて語る。
こうして、この日の「対話」は幕を閉じた。
普段ならばそのまま地下牢を後にして宿舎へ戻るところだったが、しかしミコトは足を止めて看守の兵士へあることを申し出る。
「看守さん。基地の大浴場を『新人』さんたちのために使わせていただくことはできませんこと? 彼らにも身体を清める権利はあるはずですわ」
『新人』たちは牢に入れられてから満足な食事と寝床を与えられてはいたが、入浴については別だった。理智ある【異形】は彼らに入浴の習慣を身に付けさせておらず、牢に併設された浴場に連れて行っても水を怖がってしまったのだ。
だがミコトは、彼らがある程度自分たちに心を開いてきたのを鑑みて、そろそろ一緒ならば入れるのではないかと判断した。
「確かに、正直ちょっと臭ってたもんな。あいつらの前では言いづらかったけど」
シバマルが率直な感想を口にする。
看守は少し考えてから、若干の困り顔で言った。
「……しかし、ミコトさま。浴場ならこの牢にも併設されております。わざわざ兵たちも利用する大浴場に足を運ぶ必要はないのでは……?」
「彼ら彼女らにとって、初めてのお風呂ですから。彼らに少しでも良い体験をさせてあげたいのです。無理は承知のことですが……どうか、上の方に話を通してはくれませんか」
面会の制限時間を毎度きっちり告げてくる生真面目な看守であっても、流石にミコトの要望を突っぱねることは出来なかった。
分かりました、と恭しく一礼し、彼は持ち場へと戻っていく。
階段を上って牢を後にするミコトはレイたちと談笑しながら、皇女の立場をかさに着た自分の傲慢さに内心で自嘲の笑みを浮かべていた。
――わたくしが皇女でなかったら、果たして今のお願いを聞き入れてもらえたでしょうか?
否だろうとミコトには断言できる。
この権力はミコト自身で勝ち取ったものではない。これは血筋だ。生まれた時から当然のように、彼女に付加されていた属性だ。彼女がどんな性格で、どんな育ち方をしたとしても変わらない価値を持つもの。
仮に、その「価値」が自分から失われたとして。
残された『皇ミコト』が一体何者になるのか、彼女には分からなかった。
皇ミコトは望む全てを与えられて育った。
彼女の全ては誰かから授けられたものに過ぎない。
そこに彼女のオリジナルなどない。
皇ミコトは、大人の意思に沿って作られた存在でしかない。
幼い頃はそのことに気づきすらしていなかった。父の――陛下の言うことさえ聞いていれば褒められ、認められていたから。子供の彼女にはそれで十分だった。
だが、今は異なる。
皇ミコトはSAMを知り、パイロットたちの生き様を知り、軍の戦いを知り、地上で生存競争を繰り広げるヒトと【異形】たちを知った。
それらを実際に目にした時、彼女はこれまでの自分は「都市の統治に都合の良いように育てられた人間」に過ぎなかったのだと痛感させられた。
箱庭の少女は破瓜した。それでも、都市を飛び出した皇女は普通の少女にも成りきれなかった。
*
「わたくしは、何者なのですか。わたくしは、どこにいるのですか」
桃髪の少女は独り、ベッドに横たわる。
いつものように下着以外の衣服を脱ぎ捨てた姿で、ともすれば誰かに乱暴されたようにも見える痴態を晒す。
彼女は胸元を弄り、たった一人愛した少年から贈られたいつかのキスを思い出していた。
じんわりと背徳的な快感が滲み出す。身体が熱を帯びる。指先が彼の幻影を追いかけて、粘っこい沼へと入り込む。
いけない、と思いながらも少女は止められなかった。
彼には他に大切な人がいるのに、決して割って入れぬ絆があるのに、それを分かっていて身を引いたのに――不安定な自己から目を背けるためだけに、ありもしない愛を夢想する。
「ああっ……!」
――わたくしは何者なの。
高潮が引ききった後に訪れるのは、もう何度目とも知れない問いかけ。
微睡みの中で最後に見たのは、幼き日に兄と慕ったもう一人の少年の微笑みであった。




