第百六十七話 共生への模索 ―"Bridge"―
「そっ、それが、きっ君の、名前……?」
鉄格子の向こうにいる濃紺の髪の少女に、カナタは訊ねた。
彼女は小さく頷いて、もう一度繰り返した。
――9L。
人の名前にするには無機質すぎる英数字の組み合わせ。
困惑してしまうカナタの瞳には、少女の疑いを知らない真紅の瞳が映った。
少なくとも分かったことがある。理智ある【異形】は、彼女らに家族やペットに注ぐような愛情は抱いていなかった。
ただ道具のように、識別番号を振ったのみ。彼女らは『プラント』での作業に従事するだけの、奴隷としか見られていなかったのだろう。
「あっ、あの、9L、さん……!」
「――面会終了時間です。退出を」
が、しかし。地下牢の入口に佇んでいた看守が声を投じて、その初めての交流は強制終了させられた。
カナタには聞きたいことはまだまだあったが、軍に籍を置く以上はそのルールに従うしかなかった。レイやミコトたちと共に、後ろ髪を引かれる思いで地下牢を後にしていく。
感情の読めないあの赤い眼は、少年の網膜にこびり付いたように離れなかった。
*
その夜、カナタたちはミコトの居室――高級将校用の広めの個室だ――に招かれた。
彼ら『新人』に対してどう向き合っていくべきか、何を聞き出すか、何を語りかけるか、その指針を決めておく必要があると皇女は考えていた。
テーブルを挟むように用意された二つのソファにカナタとレイ、シバマルとユイが隣り合うように座る中、ミコトはその脇の上座に置かれた椅子に掛ける。
「楽にしてくださいな。お茶でも飲みながら、ゆっくり語りましょう」
皇女を前に緊張でガチガチになっているユイとシバマルに微笑みかけ、ミコトは温かいレモンティーを勧めた。
今は真夏とはいえ、夜はそれなりに冷える。【異形】を運んできた隕石『カラミティ・メテオ』の落下によって起こった気候変動で地球は寒冷化し、猛暑だの酷暑だのいう言葉は死語になった。『基地』シェルター内の温度はシステムが管理しているのだが、兵の体調を守るため外との寒暖差をなるべくなくすように調整されているのだ。
「いただきます」
「……あら、凄く美味しいですね!」
湯気の立つレモンティーを一口啜ったユイは、思わず声を高めた。
舌先を優しく刺激する酸味と甘味が、その温度と一緒に喉から身体へと染み渡っていくのを感じる。軍の糧食ではなかなか巡り会えないような味だ。
「少々わがままかもしれませんが、わたくしが都市から持ち込んできたものです。お口に合ったようでしたら幸いですわ」
「全然、わがままなんかじゃないっすよ。なんかすげー落ち着いたし、戦場ではこういうの、大事でしょ」
お茶がリラックスさせてくれたのだろう、シバマルはだいぶ砕けた口調でミコトに笑いかけた。
そうして弛緩した空気の中、ミコトは話を切り出す。
「今日聞き出せたのは一人の名前のみ……ですが、あの少女を皮切りに、少しずつ彼らの心を開かせることも不可能ではないでしょう。まずはやってみること……何かを成す上で肝要になるのは、それなのです」
カナタが目指す、【異形】との果て無き争いに終止符を打つための「対話」。
銀髪の彼の青い瞳を見据え、皇女は決然とした面持ちでそう口にする。
カナタは深く頷いて、それから今日のことについて皆の思うところを訊いた。
「どっ、どう思った? あ、あの人たちを見て」
「うーん……まあ、おれたちに攻撃する意思とかはなさそうだったな。かといって、友好的でもないって感じ」
「ええ……怯えて、どうしたら良いか分からないというような……」
シバマルとユイがまず感想を述べた。
レイはあの『新人』たちの様子を思い返しながら、二人の印象もフィードバックしつつ分析する。
「シバマルくんが戦いの際に見たように、彼らは『プラント』で農奴として使われていた存在なのでしょう。名前の概念についてボクが説明したのを理解し、ボクらと同じ言葉を発話出来たのを鑑みるに、知性はヒトと変わらない水準にある。ですが……著しく、攻撃性と社交性に欠ける」
発見されてからこれまで、彼らが暴れたり魔法を使ったりという報告はなかった。
それに加え、彼らが仲間内で会話する場面も一度たりとも確認されなかった。地下牢には定点カメラが置かれており、その観測でも彼らのコミュニケーションは見られなかった。
「社交性に欠けるって、ざっくり言うとコミュ障ってこと?」
「まあ、大雑把に言えばそうでしょうね。しかし……そんなに軽く片付けられる問題ではないかもしれませんよ」
「……どゆこと?」
シバマルやユイが首を傾げる。コミュ障、という単語に敏感に反応したカナタを一瞥し、レイは言った。
「単に会話が苦手というわけではなく、生物としての種の単位で社交性が低くなるように遺伝子操作されている可能性があるということです。理智ある【異形】たちにとって、自分たちと同じ知性を持つ存在に結託され、反乱を起こされるのは避けたいことでしょう。そのリスクを解消するために、彼らは遺伝子レベルでそうさせられているかもしれない。攻撃性が異様に低いのも同じ理由でしょう」
奪還して間もないこの基地には、【異形】の遺伝子に詳しい学者やその研究設備はない。
ゆえにこれは根拠のない推測でしかないが、敵が高度な知性を持つ以上はありえなくはない話だとレイは語った。
「じゃ、じゃあ……あっ、あの人たちとのお話は、むっ難しい、ってこと?」
「はい。ボクの推測が正しければ、ですが」
もちろん、仮説が間違いで彼らは単に恐れから話せなかった可能性も十分にある。
どちらにせよ、これから観察と交流、検証を重ねていくしかない。
「言葉は通じるのです。そして彼女は、9Lという名前を教えてくれました。わたくしたちの思いも……きっと、分かってもらえるはずです」
少なくとも9Lという少女とはコミュニケーションが一度だが成立したのだ。
継続的に交流していけば、いずれは相互理解を実現できるだろうとミコトは力強く言う。
「バザロヴァ大将にはわたくしから、今後の面会についても申請しておきます。カナタ、そして皆さん。これからも共に、努力していきましょうね」
全てはこれからだ。
そう総括するミコトに、四人は頷きを返すのだった。
*
「ああ、こちらは特に問題ない。【異形】の襲撃はちらほらあるが、理智ある者どもの指揮がないためか連携も何もないのでな。駆逐する分には余裕だ」
ミコトたちが『新人』との初面会を果たした翌日。
この日、海軍のミラー大将とグローリア中佐は通信で『基地』のマトヴェイへの定期報告を行っていた。
『プラント』奪還後、海軍の多くの兵士は復興作業に従事するため陸に駐在しているが、彼女ら高級将校は艦隊を守るために海に残留している。
『しかし、油断は禁物ですわよ。海棲の【第一級異形】が出現してもおかしくはないのですから』
「分かっている。それについては、グローリア中佐が兵たちに耳にタコが出来るほど言い聞かせているからな」
『だったら安心ですわね。中佐、いつもありがとう』
労わってくれるマトヴェイにグローリアは一礼で応じた。
海も陸も、作業自体は順調。何ら問題はない。
だが、しかし――
「バザロヴァ大将。その……例の、『新人』とやらの件については?」
口火を切ったのはグローリア中佐だった。
面倒事を避けたがる気質のミラー大将に代わって訊ねた彼女に、マトヴェイは深い憂慮を纏った表情で答える。
『昨晩、月居カナタ少佐らが彼らと面会したわ。聞き出せたのは一人の名前のみ……けれど、ミコトさまは機会を重ねればいずれ彼らが心を開いてくれるのでは、とおっしゃられていたわ』
「そう、でしたか。仔細が判明し次第、こちらに資料を求めます」
『ええ、承知したわ』
「それと……」
事務的なやり取りを簡潔に済ませたグローリアは、少々言葉に迷いながらも問題の本質に触れる。
「……その者たちの存在は、やはり兵たちの間に知れ渡っているものと存じます。人の口に戸は立てられませんから。……その者たちが【異形】の血を引いているならば、兵たちの中にも反発する者は多いと思われます。その……ミコトさまのお気持ちも理解できますが……」
『兵たちの感情を考慮して、ミコトさまに『新人』との対面を止めていただくようお願いするべきではないか……そういうこと?』
言いたいことを継いでくれたマトヴェイに、グローリアは首肯した。
彼女の憂いは間違っていない。ミコトの存在は兵たちの士気に直結しているのだ。彼らがミコトを仰ぐ目が曇ってしまえば、作戦の継続に支障をきたす恐れもある。元々、都市の惨劇のショックを彼女の言葉で無理やり緩和しているだけの状況だ。兵たちの心の支えが揺らいでしまうのは避けたい。
『言ったわよ、アタシも。彼女に面会許可を出す前に、考え直してはどうかってね。けれど……あの方は、断固として譲らなかった。ヒトと【異形】との架け橋にわたくしがなりたいのですと言って。敵との架け橋だなんて……アタシ、考えたこともなかったわ』
マトヴェイに訴えたミコトの眼差しはどこまでも真っ直ぐで、真摯で、そして愛に溢れていた。
彼女は慈しむ心が世界を平和にするのですと、胸に手を当てて語った。
その姿はまるで敬虔なる信徒のようで、マトヴェイから反駁の言葉を奪った。
『彼女の愛はとてつもなく大きい……止めるなんて罰当たりだと思えるくらい、あの方の平和への願いは一途だったわ。生きるために殺しを散々やって来たアタシに果たして止める資格なんてあるのかしらって思うと……何も、言えなかった』
『カラミティ・メテオ』が地球に飛来したその年、マトヴェイ少年は十四歳であった。
両親を失った彼は混沌の中、妹と共に生き延びるために足掻いた。しかし、ただでさえ【異形】襲来前から経済が低迷していたロシアに孤児がありつける仕事はなく、殺しと盗みを繰り返すしかなかった。
金を奪い、食料を奪い、誰かに奪われないよう必死に駆けずり回る日々。
だが、その三年後の冬――彼が日銭を盗って隠れ家に戻ると、そこには血まみれになった妹の骸があった。
悪事に手を染めてまで生きようと頑張ってきたのに、側にあった最も大切なものは無残に奪われた。幸い金品は奪われていなかったものの、妹の女性としての尊厳がズタズタにされた形跡があった。
残ったのは怒りと、激しい自己嫌悪。
自分が許せなかった。あの日、妹は風邪を引いて寝込んでいた。そんな時くらい自分が側にいて、彼女を守ってやれば良かった。自分がいない間妹がどれほど恐ろしい思いをしたのか考えると、自分の首を切り落としてしまいたくなった。
だが、彼にはそうする勇気もなかった。それでも憤怒と憎悪だけは止めどなく溢れ、彼の心を黒く焦がした。
――何でッ、何でッ、何でッ……俺は、あいつを守ってやれなかった!?
懐には銃があった。その日暮らしには十分な金もあった。
彼は人を撃った。生きるためではなくただ衝動をぶつけるためだけに、通りすがりの他人を夜道で襲った。
――いい腕だな、君は。どうだい、軍に入らないか?
記憶が確かならマトヴェイはその夜、六人を殺した。七人目になるはずだった男はどこからか彼の凶行を目にしていたのか、拍手をしながら笑っていた。
マトヴェイの弾丸は全て、一発で相手を仕留めていた。彼には銃撃の才能があるのだと、軍服姿のその男は告げた。
軍は食い扶持のない若者たちのセーフティネットになっている――マトヴェイがそう知ったのは、男の手引きで軍に入ってからだった。彼の住んでいた田舎は政府にも軍にも見捨てられたような辺境で、そういう情報すら入ってこなかったのだ。
男はその村の出身で、その日は故郷がどうなっているか確かめるために休暇を取っていた最中だったという。マトヴェイと会ったのは偶然だった。
その偶然という運命が、マトヴェイの人生を変えた。
彼は【異形】に復讐を果たすという目的を得、その才能をさっそく発揮していった。SAMも配備されていなかった当時は対【異形】の戦績は著しく低かったが、彼は持ち前の狙撃の腕で敵の急所を確実に射抜き、葬っていった。
しかし、どれだけ敵を討ってもマトヴェイの怒りと自己嫌悪は収まらなかった。
だがある休暇中、軍の同期におふざけで女装させられたことがあった。
その時、彼は不思議な感覚を抱いた。鏡に映っているのは大嫌いで仕方なかった自分とまるで別人の、化粧をした美しい女。この姿なら自分を好きになれるかもしれない、と彼は直感的に確信した。
それ以来、マトヴェイは女装して生きるようになった。憎むほど嫌いだった過去の自分に別れを告げた彼は、それから破竹の勢いでの出世を果たしていった。
当初は軍内でもその女装を咎める声があったが、マトヴェイは実力で彼らを黙らせた。
やがてSAMがロシアにも輸入され、その製造ノウハウが確立された頃には、マトヴェイは早くも露軍最強のパイロットとして名を馳せることになった。
『共に生きるために、殺し合いよりも平和的解決を願う。何かを傷つけたら自分たちの大切なものが失われてしまうのだと、ミコトさまは分かっているんだわ。それについてはアタシも思うところがある。……アタシは、ミコトさまを信じるわ』
マトヴェイ・バザロヴァという男の過去を知るのは、彼自身のみ。彼を軍に誘った男にすら、マトヴェイは妹を失った経緯を話してはいなかった。
だが、彼の言葉にある含みをグローリアもミラーも薄らと察していた。
「そうか……難しい問題だな、これは。私のような年寄りならまだしも、若い兵士たちがどれだけ先にあるか分からぬ平和への道のりを展望できるかどうか……」
「それを教え、諭すのが年長者の役割でしょう。バザロヴァ大将殿、ミラー大将殿、私もミコトさまを支持します」
ミラーの言葉にグローリアが続き、自身の立場を表明する。
黒い肌の大将も概ね同意するところだったが、やはりやり切れない思いもあった。
「敵を全て滅ぼすまで戦い続けることなど、現実的に考えて不可能だろうということは理屈では分かっている。どこかでピリオドを打つためにも、理智ある【異形】と対話し『休戦』を取り付けねばならないこともな。だが……私も妻や息子を失った身だ。奴らに対する憎しみは、あの日からずっと燃え続けている」
人の感情は決して無視できるものではない。そこをどうしていくかが、今後の彼らの最大の課題になるだろう。
煙草を吸い、溜息と一緒にその紫煙を吐き出してマトヴェイは呟く。
『ともかく……この件については慎重に頼みますわ、ミラー大将。ミコトさまが大きく動かれるまでは、静観の構えを取っていただけますこと?』
「ああ。その『新人』の扱いについては、後ほどまだ協議させてもらおう」
ビデオ通話を終え、ミラーは肩の荷が下りたように背もたれに身体を預けた。
額の汗をハンカチで拭いつつ、禿頭の彼はぼやく。
「時代の転換点が来る頃には私はもう引退しているものと思っていたが……全く、ちと早すぎやしないかね?」
「文句を言っても仕方ありませんよ。そのとき当事者になれたことを、むしろ幸運だと思いましょう」
「ううむ……そう言うのは簡単なんだがな……」
言うなら誰だって出来る。問題は実行に移せるかどうか。何だってそうだ。
窓の外に映る凍てついた海を眺め、二人の将校はそこに棲むものたちを思った。
これまで散々殺し合いをしてきた彼らと、共生する道を探る時がいよいよ来たのか、と。




