第百五十九話 終結 ―"Only you is seen."―
「……まさか、あなたの機体に命を拾われるとは思ってもみませんでしたよ、司令」
飛空艇の司令室に戻っていた夜桜シズルは、愛する人のSAMを脳裏に蘇らせながら微笑した。
自ら戦場に出た彼女は敵側の【イェーガー・空戦型】と会戦。似鳥アキラが搭乗する機体に討たれる寸前まで追い込まれるも、そこに舞い降りた【輝夜】に助けられたのだ。
「た、大佐……休まれなくてもよろしいのですか?」
「そうしたいのは山々なんだけれど、生憎やらなきゃいけないことは山積みなのよ。これからのこと、マトヴェイ大将や生駒少将と話し合わなきゃ」
新暦21年8月3日。この日の夕刻、『福岡プラント』での戦いは決着した。
第一、第二、第三師団はそれぞれ『プラント』周辺の『第二級』以下の【異形】らを殲滅。絶え間なく続いた波状攻撃に全軍は限界ぎりぎりまで消耗させられたものの、辛くも勝利を掴んだ。
懸念されていた『第一級』以上の出現は幸いにもなく、作戦継続不可能なほどの痛手を被ることは回避できた。
そして、『プラント』内部の戦いも同じく幕を下ろした。
出現した理智ある【異形】、『ベリアル』と『パイモン』は討伐。『バエル』は眠らされた状態のまま、現在『基地』内に厳重な監視のもと拘束されている。
月居カナタの乗る【輝夜】の力で『プラント奪還』という目的は果たされた。だが、そのために費やした犠牲は決して少なくはなかった。
宇多田カノン少佐は『バエル』の光の槍に貫かれて即死。御門ミツヒロ中佐、織部ナツキ少尉の両名は、『コア』との『同化現象』を起こして擬似的な脳死状態となった。
「ふ、ふ……あそこを死に場所にしたつもりだったのに、どうしてか、生き残ってしまいましたね……」
飛空艇内の『メディカルルーム』にて。
刘雨萓はベッドに横たわりながら、隣で寝かされている犬塚シバマルに横目を送る。
群がる蝿たちの溶解液に機体を蝕まれていた彼女らは、装甲の全てをどろどろにされて骨組みが露になったところで死の覚悟を決めた。
しかしコックピットへと蝿たちが集まったその時、銀色の暖かな光が降り注いで彼らを霧散させたのだ。
カナタの魔法、【ドーン・オブ・フェイス】――少年の戦いを調停する意志が蝿たちのヒトへの殺意を鎮め、彼らは何処かへ飛び去っていった。
「やべーよな……ほんとにやべー。なんで生きてんだろ、おれ。やべーなマジで」
「語彙力のほうは死んでますね、シバマルさん……」
ぼうっと天井を見つめつつ譫言のように呟くシバマルに、ユイは呆れ半分の声音で返した。
魔力の大量消費で脳は疲弊し、魔力補給の点滴を受ける羽目にはなったが、二人に命の別状はない。
誰がいつ死んでもおかしくなかった状況で生き残れたのは間違いなく奇跡だ、とユイは思う。あと一分でもカナタがあの魔法を発動するのが遅かったら、ユイたちは今頃ここにはいなかったはずだ。
「ツッキーに、ありがと……言わなきゃ、だな」
「ええ……」
頭を動かすのも億劫になる倦怠感に苛まれながらも、ユイは力強く頷くのだった。
早乙女・アレックス・レイは愛機【メタトロンmark.Ⅱ】を自爆攻撃で失った。
だが、射出されたコックピットブロックの中にいた彼は、打撲を幾つか負ったものの生存できていた。
自爆でなかったらコックピットを分離する余裕もなかっただろう。自分自身の選択が、レイにどうにか命綱を握らせたのだ。
他の生存者と同じく『メディカルルーム』で安静にしている彼は、薄らと漂う薬品っぽい匂いをすんと嗅ぎ、少し顔を顰める。
(ああ……帰りたい)
入学以来カナタと共に過ごしてきた寮の部屋の匂いが、出立から三日しか経っていないのに物凄く懐かしく感じられた。
洗いたてのシーツの匂いや風呂上がりのシャンプーの匂いを思い返し、レイの胸はきゅうっと締め付けられる。
姉と仲間を失ったあの頃は、どこにも自分の居場所などないと頑なに思っていたのに――今はこれほどまで郷愁に駆られるほど「あの部屋」を求めてしまっている。
昔の自分だったら「甘いですね」と一喝するに違いない。マナカと仲良しこよしでやっていたカナタを見下していた頃のレイなら、未来の自分がこうなるとは信じすらしなかっただろう。
「……Es ist nicht schlecht. Soetwas.」
*
「よく戦われましたね、月居カナタ」
車椅子に乗せられて飛空艇の司令室へ運ばれてきたカナタにそう声をかけたのは、皇ミコトだった。
桃髪の少女は【ガブリエル】での支援に徹した後、現れた敵軍を自らの力で各個撃破していった。そして魔力を全て使い切った彼女は墜落していったが、地上で待ち構えていた【マトリエル】にキャッチされて命拾いしたのだ。
魔力回復の措置を済ませた彼女は残る敵を掃討するまで再び支援に務め、全軍の『プラント』到達の最大の貢献者となった。
「あっ、あなたは……?」
「皇ミコトですわ。我が国の皇女として、そして【機動天使】パイロットの一人として戦っている者です」
「知らないなど失礼極まりない」と何人かの士官が思わず声を荒らげるも、ミコトは彼らを制してカナタに微笑みかけた。
『アーマメントスーツ』が浮き立たせる極度にやせ細った体つきを前に、痛ましさに少し睫毛を伏せる。
「本当に……よく、頑張られましたね。国民と、そして兵たちの代弁者として言います――心から、感謝しておりますわ」
「い、いえ……ぼっ僕は、やるべきことを、果たしただけです」
ミコトは少年のサファイアの瞳を真っ直ぐ見つめ、柔らかい口調で噛み締めるように言った。
彼の手をそっと取り、いっぱいの慈愛を込めて握り込む。
謙遜する少年に「もっと誇っても良いのですよ」と微笑んだ彼女は、それから視線を三人の将へと移した。
「バザロヴァ大将、生駒少将、夜桜大佐。カナタも私たち全軍も、大変疲弊しておりますわ。まずは今夜、ゆっくりと休んで……これからのことは、翌日に回しましょう」
疲労に凝り固まった脳では正しい判断も下しにくいだろう。皇女の提言に異論を唱える者は誰もおらず、司令室の将校たちは簡単に今夜の動きを決めた後、解散した。
『プラント』内部は散々な様相を呈してはいるが、隣接する『基地』は無事であった。三個師団はその基地を拠点とし、入りきらなかった人員は野営という形で今後を過ごすこととなる。
「夜桜大佐、ちょっといいですこと?」
飛空艇の廊下を歩くシズルの背中に声を投じたのは、マトヴェイだった。
青い瞳に憂いの澱を立てる女装の麗人は、立ち止まったシズルの肩に手を置く。
「どうだったんですの、アキラくん」
「……ごめんなさいね。あたしの声は、彼には届かなかった。彼の精神は完全に【異形】に乗っ取られているようだったわ」
「そう……」
【異形】とヒトとの戦いがこれで決したわけではないのだ。
似鳥アキラは【異形】と手を組み、依然として人類側に戻る気配を見せない。ひとまず基地と『プラント』に辿り着けはしたものの、いつまた敵が襲撃してきてもおかしくない。
肩の荷が下りたと言えるのは、任務を完遂して都市に帰還した暁だ。
しかし、その都市も――。
「都市の状況も気がかりですわね。ま、任務中のアタシたちが知ったところで、無用な心配が増えるだけなんでしょうけれど」
「……任務の全てが片付くまでは兵士たちに漏らしちゃダメよ。食糧には限りがあるわ、作業の手を滞らせちゃいけない」
「あらまあ、シズルお姉さま。確かにアタシはお喋りかもしれませんけれど、分別は付けてるつもりですわ」
念押ししてくる年上の大佐に、口調に反して真顔で言うマトヴェイ。
彼の長い赤髪を見つめたシズルは、それから自分の脂ぎった黒髪と見比べて苦笑した。
「……お互い、まずはシャワーでも浴びなきゃいけないかもね」
「ふふ、同感ですわ」
*
「……すまない、ミツヒロ。お前をアキラと対面させてやれなくて」
ミツヒロとナツキの肉体は飛空艇内『メディカルルーム』の一つに運び込まれた。
幾つものチューブに繋がれてベッドに横たえられた青年の前で項垂れるのは、生駒センリ少将である。
センリとミツヒロ、そしてアキラとの間には『学園』時代から交流があった。普段感情を表に出さないセンリが自然に笑みを浮かべられる僅かな相手が、彼らだった。
叶うならば、もう一度三人で顔を合わせて話したい。他には何も必要ない。彼らとの時間を取り戻せるならば、センリは何だって差し出せる。
「ミツヒロ……俺は、必ずアキラを連れ戻す。それだけは、俺が……!」
拳を固く握り締め、センリはひび割れた声を震わせる。
『阿修羅』と恐れられた男の胸の奥底には、ただ煮え滾る【異形】への憎悪があった。
自分たちの全てを引き裂いた奴らを必ず討ち果たすと、彼は少年期の自分たちへ誓う。
「理智ある【異形】……奴らの息の根、その尽くを止めるまでは……!」
修羅の道を突き進み続ける、と。
鉄血の戦場に魅入られた男は、黒い獄炎を瞳に燃やした。
*
「……は?」
満身創痍の身体で飛空艇に帰投した風縫ソラは、士官用の個室のドアを開けようとしたところで同僚に呼び止められた。
嗚咽混じりの声でもたらされた報告に、小柄な青年は掠れた呟きのみを返した。
「コックピットは木っ端微塵にされたみたいで、遺品も何も、残らなかったそうです。『コア』すらも、砕け散ってしまって……」
「鋼鉄の歌姫」の遺体も、形見も、彼女を象徴する純白の機体も、全てが失われた。
彼女はソラに戦場の苛烈さを教えてくれた。
同い年なのにずっと大人びていて、いつだって一歩先にいた。
折れそうな時には寄り添って支えてくれた。
素直になれないソラをからかうように、よく笑っていた。
「あのッ、馬鹿女……! なんで、先に逝きやがるんだ」
きつく歯を食い縛り、白髪赤目の青年は喉の奥から唸り声を絞り出す。
戦場は弱肉強食の世界だと教えてくれたのは、ほかならない彼女自身だった。
彼女はその世界で、自らより強い敵に撃たれた。その死を嘆いて涙を流すことは、彼女はきっと喜ばない気がした。
「馬鹿ッ、馬鹿カノン。今頃、あっちで笑ってんだろ? 『あらら、死んじゃいました』って言ってんだろ? でも、でもよぉ……残されたこっちは、たまったもんじゃねえぞ」
立ち尽くす同僚に顔を覗かれぬようにソラは俯いた。
今の彼は、これまでの生涯で最も醜い顔になってしまっているから。
*
「……なんで」
渡せなかった冷たい指輪を握り締め、湊アオイは声をわななかせた。
始まればいずれ終わる。それが生き物の摂理だと、理屈では理解している。
だが、早すぎるではないか。彼女はまだ二十三歳だ。最近中佐に昇進したばかりで、そのうち大佐にだってのし上がれるだろうと目されていた。戦場から一度は逃げたアオイのことを好きでい続けてくれた、たった一人の女性だった。
それなのに――逝ってしまった。
「なんで……彼女だったんだ」
戦場に死は付き物だ。それも分かっている。
しかしアオイは考えずにはいられなかった。彼女を貫き殺した光の槍を防ぐ手立ては本当になかったのかと。彼女の近くにはアキトの【ドミニオン】がいたという。彼には動けるだけの魔力があったのではないか……そんな問いが沸々と湧き上がってきてしまう。
「なんで、なんで、なんでっ……! どうして、誰も守れなかった……!?」
軋むほどの力で歯を食い縛り、青年は机へ拳を叩きつけた。
自分が同じ戦場に出られていたら。あの戦場で誰かが死ぬのが必然だったならば、自分が彼女の代わりに死にたかった。
彼女のいない世界に残されたあと何のために生きれば良いのか、アオイには皆目見当もつかなかった。
「ああ、ああっ……あああああああああああっ……!」
とめどなく流れる涙が青年の頬を汚し、自棄になって投げつけた指輪が壁に当たって落ちる。
項垂れて固く瞑った瞼の裏には、彼女の微笑みが蘇っていた。
その温もりの残影は、暗闇の中に揺蕩っている。
光を得れば掻き消えてしまうであろう、手を伸ばしても届かない彼女。
「ふ、不思議だよ……今ね、君のことしか、見えないんだ……」
目を閉じたままだらりと机に突っ伏して、アオイは口元を微かにひくつかせた。
思い出の美しい彼女の背中を追いかけながら、懐に手を忍ばせた彼はそれを握り掴む。
「今、行くからね……カノン」
最愛の彼女の名を呼んで、アオイは空ろに開いた口にその鉄屑を咥え込んだ。
そして、直後。
響き渡ったのは――
「湊先輩ッ――!!」
銃が撃ち放つ蛮声ではなく、年下の青年の悲痛な声であった。
鋭く走り抜けたその声にアオイは反射的に目を開く。
瞬間、瞼の裏に映っていたカノンの残像は消え去って、黒い銃身が酷く迫って見えた。
「なっ、ナギ……」
「せっ、先輩、いま何しようとしてたんですか。そんなことをして、誰も悲しまないとでも思ってたんですか……?」
ドアを開けて飛び込んできたナギは、酷く無気力なアオイから拳銃を取り上げる。
雫を浮かべる瞳で見下ろしてくる後輩が、アオイは憎くて憎くて堪らなかった。
あと一歩彼が来るのが遅ければ、自分もカノンのところに行けたのに。そうなれば永遠に続くであろう悲しみの道から解脱することが出来たはずなのに。
睨みつけてくるアオイに対し、ナギは顔をくしゃくしゃにしながら首を横に振った。
「僕には、宇多田中佐について語れるだけの付き合いはなかったかもしれません。けれど、湊先輩についてなら、中佐の次に長い付き合いだと自負してます。そして、これからも付き合っていきたいって……強く、思います」
ナギにとってアオイは兄のような存在で、憧れでもあった。父や兄といった男の肉親がみな【異形】に奪われた彼にとって、アオイは本当の家族のようなものだった。
軍に入ってからはアオイが【七天使】の一員として忙しかったために付き合いも少なくなったが、それでも心の中では常にアオイは彼の支えの一つだった。
海の【異形】に同い年の彼女を奪われたナギには、その喪失の辛さは痛いほど分かる。
彼も同じように自死を選ぼうとした。同じ海に身を擲ち、同じところで永遠に眠ろうとした。
だがその時、ナギをこの世に引き止めたのがアオイだったのだ。
「先輩、僕に言いましたよね。死ぬなって。死んだら僕が一番悲しむからって。あの時と同じ言葉、そっくりそのまま返します。――死なないで、湊アオイ先輩」
愛する者がいなくなってしまったとしても、自分のことを大切に思ってくれている人はいる。
人は何かに縋っていないと生きられない。恋人、家族、趣味、仕事。それぞれの「何か」が生きがいとなって、その人を現世に縫いとめている。
自分はアオイにとっての鎹になろう――そう決意して、ナギは兄同然の青年の冷たい指を握り締めた。
悲しみの海に沈んだこの人を、せめて温めてあげたい、と。
ナギは一緒に涙を流し、彼に寄り添い続けるのであった。




