第百五十八話 暁の英雄 ―"You sleep peacefully."―
『ぐはっ――!?』
ゲートを開いて現れたSAMが放った光の矢が、『バエル』へと三度目の死をお見舞いする。
青い肌の裸体が血だまりを広げ、その中に崩折れていった。
道化のように笑みを浮かべる魔神。しかし彼の肉体が死にゆくそばから、どこからか蝿の羽音が重奏を奏でていく。
新たな機体が現れて討ったとしても、『バエル』は何度だって復活する。
人間に絶望を刻むその規格外の魔力と生命力をもって、分身である蝿から自身の肉体を錬成するのだ。
第二級以下の【異形】たちの圧倒的物量と、第一級や理智ある【異形】が誇る絶対的な個の力――それを両立する序列一番の王こそが、『バエル』。
『さァ、踊ろうか! 君はどんな顔で絶望してくれるのかなァ、矮小なる鉄人形!』
八割の侮蔑と二割の期待を笑みに含め、『プラント』上空に出現した魔神は叫んだ。
黒い星雲のごときオーラを掌より幾つも放ち、彼は下僕たる【蝿型異形】を召喚する。
たちまち上空を覆わんばかりの勢いで増えていく蝿たちは、鉄砲玉のように飛び出して新手へと向かっていく。
「あ、あんな数……!?」
地面に膝を突くアキトはそのおぞましさに思わず顔を俯けそうになった。
だが、あの機体が【輝夜】ならばと思うと目を逸らすわけにはいかなかった。母が――月居カグヤが救援に来てくれたのなら、奇跡は起こるかもしれない。
魔力を使い果たしたアキトはもう、動けない。いま襲われたら自分も命を落とすのは確実だろう。だからせめて、最後に母の勝利を祈りたかった。アキトにやれることは、もうそれしかなかった。
『みぃんなで喰らい尽くしちゃいなァ!』
高笑いする『バエル』の号令によって、巨大蝿たちの複眼から真紅の光線が一斉に撃ち出される。
何万もの光条が瞬き、ゲートより舞い上がった有翼の天使へと直進。
見上げる少年の視界の先で、爆発と閃光の奔流を巻き起こした。
地上を震撼させる衝撃波に襲われながら、それでもアキトは天を仰ぎ続ける。
「……母さん」
ほどなくして、風が巻き起こった。
最初は小さな旋風。だが次第に、それは威力を強めていく。渦巻く風が爆煙を吹き飛ばし、黒い防壁を解除するその機体の姿を露にした。
兜を被った女武将のごとき姿、【輝夜】。
その背には純白の翼――【ラファエル】の上半身から両翼にかけて転用した大型飛行ユニットが装着されており、まさしく大天使のごとき威容を誇っていた。
*
『あれが敵……すっごい数ね、カナタ』
「う、うん」
【輝夜】のコックピット内で声を交わすのは、銀髪の少年と、その恋人であった少女の写し身。
亡き母の機体を受け継ぎ、破壊された【ラファエル】を元に改造した急場しのぎの飛行ユニット――【ラファエルメテオール】をもって彼らは仲間たちの危地に駆けつけた。
「ま、マオさん」
『【メテオール】の魔法管制はあたしが全部やるって、重ね重ね言ってるでしょ? あんたはそいつを動かすのに集中してればいいの!』
少年の瞳に映る景色は、どこまでもクリアだった。
ヒトの肉眼で捉えていた時よりもずっと、何もかもの彩度が増して見える。地上で少年がこぼす祈りの声が聞こえる。【異形】の血液とSAMの『魔力液』が漂わせる鉄の臭いが鼻腔から離れない。
自分が自分ではなくなってしまったようだ、とカナタは思う。『新東京市』から『福岡プラント』まで休みなく飛んできてもなお、未だ彼は研ぎ澄まされた感覚に慣れなかった。
気を抜けば【輝夜】の獣性に呑まれてしまう。それが月居カグヤが求めた究極の美しさの、代償だった。
『あんたなら大丈夫よ。お母さんの呪縛にも、絶対負けない』
これまで常に気を張って口数の少なくなっているカナタに、マオは確固とした口調で言う。
カナタが【輝夜】に精神を侵食されずにいられているのは、彼女の存在も大きかった。
「……う、うん。こ、ここで敵を討って、れ、レイたちを助けるんだ」
サファイアの瞳で前方を見据え、カナタは決然と呟く。
モニターの端に表示されているマオのアバターに目配せし、彼は腰の太刀の柄に手をかけた。
『へェ、あれだけの光線を全部防ぐなんて……ニンゲンもすっごいの隠し持ってんじゃないの。いたぶり甲斐がありそうだァ』
蝿たちの一斉射撃でも無傷の敵機を見つめ、『バエル』はくくっと喉を鳴らした。
簡単に終わってしまってはつまらない。何せ『バエル』は死のうが復活し、無限に戦えるのだ。じわじわと舐るように相手を痛めつけ、絶望を刻むのが彼のポリシーである。
『うふふっ……何度防ぎきれるかなァ?』
細長い指を前に突き出し、舌なめずりしながら再度の攻撃を命じる。
彼の意志に従う傀儡である蝿たちは、プラント内に充満していた魔力――『飛行型』を生み出していた肉塊の残骸から放散されていたもの――を吸収し、第二射のチャージを開始した。
『さァ、喰らいなァ!』
――と、『バエル』が叫んだその刹那。
彼の眼前で横列を組んでいた蝿の大群たちが、閃いた無数の白光に呑み込まれて爆散した。
『……は?』
絶鳴を上げることすら許されずに焼き殺された下僕たちに、『バエル』は間の抜けた掠れ声を漏らす。
放たれたのは幾本もの光の槍。
【ラファエルメテオール】の両翼に搭載された砲口より射出されたその魔法の名は、【マーシー・ランス】。
「あ、ありがとう、マオさん」
『こんだけの火力を実現できてるのも【輝夜】のおかげ。その機体を制御してもらってるあたしこそ、お礼を言うわ。――次はあんたの番よ、カナタ!』
力強く頷き、カナタは全ての下僕を失って丸裸になった『バエル』を睥睨した。
汗の滲む手で操縦桿をぐっと握り込み、そして一気に押し倒す。
スラスターが魔力の灯を帯びて蒼く輝く。
身体にかかる圧倒的なGに耐えながら、少年は空を蹴って猛進した。
「ぜぇえええええええああああああああああああッ!」
喉が焼き切れんばかりの咆哮を上げ、カナタは【輝夜】を駆る。
その果敢さに『バエル』は不快感を隠しもせず眉をひん曲げた。
直進してくる【輝夜】に対し、魔神は魔力を掻き集めて四枚二対の翅を生み出してさらに上へと飛び上がる。
ヴヴヴッ!! と激しく奏でられる羽音。残影を描く凄まじい高速飛行。
少年の目には『バエル』の姿が掻き消えたように――見えなかった。
「ふッッ!!」
鋭い気合と共に抜き放たれるは、居合の一閃。
直進した一瞬のうちにカナタの眼は『バエル』を逃さず捉え、急制動をかけて機動を垂直に変えたのだ。
直下より肉薄する白銀の刃に魔神は限界まで目を見開き、開いた掌から漆黒の防壁を展開する。
『ッ、【絶対障壁】!』
「――それは知ってる!」
母が用いた魔法の知識を、少年はその機体を得ることで獲得していた。
『コア』は記憶装置。「魂の座」。そこには接続したパイロットの全てが魔力を通して刻まれ、次なる乗り手へと継承される。
母親の力に自身の力を重ね合わせることで、月居カナタは更なる進化を果たした。
ゆえに――
『なッ……!?』
彼は、『バエル』をも超える。
太刀が纏う黄金の光輝は魔神の漆黒をも打ち消し、その壁を打ち破った。
抜かれると同時に「巨大化」した刃が、『バエル』の胴体を両断する。
『――――ッ!!?』
声にならない痛哭が跳ね上がった。
その叫びが帯びていたのは、驚愕。確かに『バエル』はあの太刀から、『パイモン』と『ガミジン』の魔法と似た魔力の波長を感じ取っていた。
【異形】特有の緑色の血液を飛散させながら、序列一番の王は死んでいく。
『た、倒したの……?』
「ま、待って、マオさん。まだ、何か……魔力が……!』
青い肌の魔神が真っ二つになったのとほぼ同時に、カナタは『プラント』の隅で微かに揺らめく魔力を嗅ぎ取っていた。
そこに蠢く蝿たちが発する魔力を糧に、黒い影が人の形を成していく。
「マオさんッ、【マーシー・ランス】を!」
『っ、りょーかい!』
少年がロックオンした先へと走る、一筋の光輝の槍。
狙いたがわず撃ち抜かれた影は『バエル』となる前に消し飛ばされ、蝿たちも巻き込まれて命を散らした。
『うふふふふふふふふふふっ……! やるじゃァない、君!』
『でもねェ、無駄だよォ?』
『俺の命は無限にある! 何度負けようがまた生まれて、最後には勝つのさァ!』
反響する声が少年の脳内にわんわんと響いた。
対象の脳に直接意思を伝える能力、『交信』だ。
矢継ぎ早に繰り出される言葉にカナタは歯を食いしばる。集中を掻き乱されるだけでも、【輝夜】という暴れ馬の手綱を引く彼にとっては致命打になりうる。
そのようなことは『バエル』には知る由もないことだったが、次なる攻撃をカナタがすぐに出せなかったことで、それが有効だと気づかれたようだった。
広大なプラントのどこかに生まれた『バエル』が、嗤う。
『ふふふっ……何だか効いてるみたいだねェ?』
『機体が強かろうがパイロットが弱くちゃダメだよねェ』
『俺がどこにいるか分かるかなァ~?』
万力に締め付けられるかのような頭痛がカナタを襲い、敵の魔力を感知する余裕を奪う。
もとより【輝夜】の制御は綱渡りだった。『バエル』によって集中の糸が断ち切られた隙を突き、『コア』の意思が少年の脳を支配せんとしてくる。
その身体を差し出せと――お前は「私」なのだと、声なき声が囁いてくる。
「ちっ、違う……ぼっ僕は、僕だ……!」
それでも、カナタは自己を主張した。
自分の精神と肉体を主宰するのは、まさしく自分たった一人なのだと叫んだ。
カナタがここにいるのは、カナタ自身が望んだこと。彼が自ら選び取ったこと。そうして掴もうとした未来を、ヒトを原始に還そうというカグヤの呪縛に歪ませたりはしない。
都市ではたくさんの人が亡くなった。心を【異形】たちに蝕まれて、悪意の傀儡となって互いを傷つけた。カナタのクラスメイトであったユキエやサキ、ミユキをカグヤに会わせるためにひた走った矢神キョウジ、アスマのために命を燃やしたイオリ――銀髪の少年にとっての大切な人たちまでもが、カグヤの野望の犠牲となった。
月居カナタは、カグヤの息子として母親の咎を背負わなくてはならない。彼と母の思いが違っていても、世間はそれを簡単には認めないだろう。『福岡プラントの悲劇』以上のバッシングがこれから先、カナタを襲うはずだ。
それでも、カナタは戦い続ける。自分の戦いが誰かにとっての、本当の幸いに繋がることを信じて。
「ぼ、僕はっ、月居カナタ! そっそしてっ、この力が――僕に与えられた、祝福だ!!」
叫びが頭蓋の奥底にまで響き、砕け散った。
それと同時、見開かれた少年の瞳が赤く変じる。髪の毛が逆立ち、爪牙は獣のごとく伸びていく。
かつて己に取り付いていた黒髪の少年が残してくれた、【異形】を倒し、征すための力が顕現する。
「いっ行くよ、カムパネルラ!」
夢の中で再会した博識な少年に呼びかけ、カナタは太刀を掲げた。
『コア』の渇望を意志の力で振り払い、少年は高く高く舞い上がる。
ドーム天頂近くまで銀光を纏って上昇した【輝夜】は、カナタの一声でその力を解放する。
「――【ドーン・オブ・フェイス】!!」
自我を強く保ったまま『コア』の核心へと深く入り込み、引き出した新たな技。
月居カグヤが魔力波を都市中に拡散させるために用いた、超広範囲魔法である。
視界が明滅する。鼻からは血が流れている。さらには鈍器で殴られたかのような激痛が頭に走り、『コア』に脳のコントロールを強引に奪われかける。
しかし、それでもカナタは折れなかった。
たとえ身体が悲鳴を上げようとも、心だけは壊すわけにはいかない。自分は母親とは――月居カグヤとは違う、カナタという唯一の個人なのだ。「カナタ」だから信じて待ち、「カナタ」だからこそ愛してくれた人たちに報いるために、ここで理智ある【異形】と対話する。
少年が魔力波に乗せたのは――言葉だった。
「あ、あなたが暴れていると、ぼっ僕の大切な人たちが苦しんでしまう。だ、だから……い、今は、この暁の銀光のもとで、静かにお眠り」
殺意や敵意、悪意によってもたらされる解決も歴史の中にはあるのだろう。
だがカナタは、それを受けた者の痛みを身をもって理解していた。それによって歪められ、遂には爆発してしまった悲しき人も目にしてきた。
憎悪が支配する世界をカナタは望まない。たとえ絵空事だと、実現し得ない偽善だと謗られようとも、カナタは対話をもって鉄血の戦場にピリオドを打つことを目指したい。
『な、なんだっ、頭に……お前はッ、誰だっ……!?』
刃の先から波紋を描き、ドーム全体へと広がっていく銀色の光。
自らを包み込んだ暖かいその光に『バエル』が混乱を隠せずにいるなか――ドーム天井に映る人工の青空が、暁の星空へと変わる。
「この空……母さんたちと見た、空。彼方にある……赤い、星」
天を仰いでアキトは呟いた。
もうすぐ明けようとしているにも拘らず暖かく輝くその星を見つめる目から、熱い雫が静かに流れ落ちていく。
『星空なんて……そんな、ものはッ……!』
静寂の降りる『プラント』の片隅で、『バエル』はその痩身をわななかせていた。
見渡す限りの星たち。横たわる天の川と、その果てにあるであろうたくさんの銀河。
【異形】に見上げるものなどないと彼は思っていた。地球に追放されたならば、そこを根城にするほかないと決めつけていた。『パイモン』や『ベリアル』のようにヒトと【異形】の間に生まれる高度な存在の発展を待つという選択は、有り得ないと断じていた。ヒトなどすぐに滅ぼしてこの世界を手中に収めればいいというのが、『バエル』の考えであったはずだ。
それなのに――
『俺はっ、あの星を求めてなどいない!』
魔神は届かない空へと手を伸ばし、何度も何度も、見えないほどの果てにある星を掴もうと宙を掻きむしった。
とめどなく涙が零れ、乾いた地面に幾つも染みを作った。
膝をついて天を見上げる『バエル』のもとに【輝夜】は音もなく舞い降りて、その掌を彼へ向けた。
「ほ、星に還れるその日まで……ど、どうか、安らかに」
【異形】の力で制御した機体の魔力を最大限引き出して、カナタは眠りの魔法を行使する。
何万光年の時を経て蘇る望郷の念は、魔神から反抗の意思をも奪っていた。
真正面から浴びせられた魔力により、ほどなくして不死身の【異形】は眠りに就く。
その痩せ細った身体を両手に抱き上げて、カナタはしばしの間、瞼を閉じた。
『……やったね、カナタくん』
『やるじゃん、アンタ』
マナカとマオ、二人の声が穏やかに流れていく。
このまま眠れたら本当に気持ちいいんだろうな、と。
脱力した身体を背もたれに預けるカナタは、そんな呑気な呟きを胸中でこぼすのだった。




