第百五十七話 お目出度い人 ―Clowns―
『鋼鉄の歌姫』が二度と歌えなくなった。
【七天使】の一人が、散った。
眼前で起こったその悲劇を、レイたちは認めなかった。認められるわけがなかった。
宇多田カノン少佐は若くしてたくさんの部下に慕われ、戦場では厳しく、プライベートでは優しくあった人だった。
彼女はなくてはならない人材だった。同時に、軍人の意志の象徴でもあった。
風縫ソラや湊アオイをはじめ、多くの者たちが彼女の背中を見て「残酷な戦場」に身を置く決意を固めたのだ。彼女という存在がなくなった後、果たして彼らは何を拠り所に闘争と殺戮の舞台に立ち続けるのだろうか――?
「そん、な……【イスラーフィール】が一瞬で落とされるなんて」
アキトが慟哭し、レイが絶句するなか、誰よりも冷静にその死を見つめていたのはユイだった。
彼女は仲間の死を祖国で何度も味わってきた。繰り返される死別は心をすり減らし、やがて喪失の痛みを麻痺させた。それは彼女の精神の防衛反応であった。
宇多田少佐の死云々よりも、彼女はまず敵の攻撃に注目した。
これまで一切見せてこなかった「光の槍」。一投で【イスラーフィール】の胸部装甲から『コア』まで貫く威力は、ユイたちも食らえばひとたまりもないだろう。
敵があれを連発できるのだとしたら、魔力残量の殆どが尽きたこちら側に勝機はない。
「シバマルさん……」
自分のことを好きになってくれた少年の機体は、もはや動かない。彼が代わりに使える機体も、もうない。彼を庇って戦い抜けるだけの余力など、底をついた。
「最期まで、あなたと共にいます」
【ラミエル】のステルス機能を使えば、自分一人だけなら逃げ果せられる可能性がゼロではなかった。
だが、ユイは一縷の希望よりも愛する人と散ることを選択した。
それはまだかろうじて動ける機体とパイロットを無駄にしてしまう行為だ。やはり自分は軍人失格だ――と、ユイは自嘲に口元を歪める。
『ゆ、ユイ……』
ザザッ、とノイズが走ってモニターに映っていた少年の顔が消えた。それきり、彼の声は一切聞こえなくなった。
『バエル』の魔法によって【ラジエル】は通信系までも使えなくなったのだ。直に全ての機能が停止するだろう。
もっと彼の顔を見ていたかった、とユイは思わずにはいられなかった。
彼の人のいい笑顔は嫌いではなかった。吐き出すくだらない冗談も、『彼女がほしい』と喚く思春期の男子らしい部分も、クラスの不和に悩む真剣な横顔も、嫌いにはなれなかった。
だからこそユイは、彼にカナタの後継パイロットとなることを望んだのだ。彼に希望を見出して、ユイ自身の都合で彼を【ラジエル】に乗せた。
ユイが推薦しなければシバマルが【ラジエル】のパイロットになることはなかった。彼をこの死地に招くこともなかった。
「嗚呼……どうして。どうして、彼をここまで連れてきてしまったの。こんな思いをするくらいなら、別の誰かに、任せればよかった……」
どうして。どうして。どうして。
過去の自分への問いかけは止まない。
全てはユイのせいだ。ユイがシバマルを死地に道連れにした。あの打診さえなければ、シバマルは今頃『学園』で仲間たちと他愛のない時間を過ごしているはずだったのに――。
「ごめんなさい……ごめんなさい。わたしの、わたしのせいで……」
緩慢な動作で踵を返した『バエル』が、ユイたちの方を向いた。
青白く美しい顔に、無慈悲な微笑みを湛えて。
その唇が何かを描いた。
魔神の餞の言葉に、ユイは力なく、乾いた笑みを漏らした。
「ふ、ふふふっ……本当に、わたしは……お目出度い――」
羽音が奏でるのは葬送の調べ。
黒い魔力の渦の中から生まれ出でた蝿たちが放つ真紅の光線を、【ラジエル】の前に立った【ラミエル】は真正面から迎えた。
どうせ敗けるのは分かっている。それでもユイは、せめて最期くらい軍人らしく抗いたかった。大切な人を僅かでも長く、生き長らえさせてあげたかった。
「っ……もう……!?」
ツー、と。
魔力残量のメーターが、無機質なアラートと一緒に「ゼロ」を宣告した。
光線に装甲を焼かれた【ラミエル】へ、捕食者たちが我先にと飛びついていく。
「あああああああああああああああああああああッッ!!?」
錯乱したような甲高い叫びに喉を焼き、早乙女・アレックス・レイは急降下していく。
カノンが散った。そして今、ユイとシバマルまでも蝿たちに捕食されんとしている。
ユイはこれまで共に戦い続けた、【機動天使】としての同志だ。シバマルは気難しいレイに対して臆面もなくしょうもない冗談を飛ばしてくる、憎めない男だった。
彼らだけは失いたくない一心で、レイは地上の『バエル』へと急迫する。
『天敵には逃げるが吉。自然界の常識すら捨てたのかァい、愚かなニンゲンよ!』
先程『バエル』を木っ端微塵にした光線が、レイに残された全てだった。
魔法はもう使えない。にも拘らずその身一つで突っ込んでくる【メタトロン】を見上げ、『バエル』は侮蔑を色濃く宿した眼差しで彼を迎えた。
「うおおおおおおおおおおおおああああああああああああああああッ!!」
自棄を起こしたかのような絶叫。
なけなしの魔力で少年は【太陽砲】の円環型ユニットを眼下の魔神へと飛ばした。
連続で落下する光輪は、しかし敢え無く受け止められる。
掌を掲げるベリアルが展開する、漆黒の防壁――【絶対障壁】。
レイの網膜には弾かれて飛んでいく円環が焼き付けられた。神経がそれを脳へと伝えていく。しかし――彼の脳はそれを認めようとはしなかった。
まだやれる。まだやれなくてはいけない。ここで散っては、これまでの全てが無に帰す。それだけは、許されない。
「ボクはっ……!!」
姉と知己の者たちの亡霊が、レイの肩を叩く。こちらにおいで、と囁いてくる。
彼女らと同じところへ行けたら、レイがこれ以上苦しむことはなくなるのかもしれない。贖罪のために戦い続け、心を摩耗させることも終わるだろう。
だが、そんなものは弱い己の精神が映し出した幻想に過ぎない。
早乙女・アレックス・レイは、罪を背負ったあの日から、もう二度と誰かを置いて逃げまいと決めたのだ。
誰かを守り、支え、一緒に絆を紡いでいく――亡き姉アスカのように、そして瀬那マナカのように、たくさんの愛をもって隣にいる人たちを生かそうと誓ったのだ。
今も心は共にある、彼との時間をこの先も過ごすために。
未来を誰よりも望むレイは、魂を燃やした。
「――【イグニッション】!!」
地上の敵へ激突する直前に唱えられた音声コマンド。
瞬間、純白の天使が緋色に燃え上がる。
それは【メタトロン】が隠し持っていた最終兵器だ。『コア』に残された僅かな魔力を動力に、身体からの発炎を起こす自爆にも等しい奥の手。
「燃え盛れ、天使よッ!!」
先程の円環型ユニットを防ぐのに使った【絶対障壁】を『バエル』はまだ解いていない。
あれを解除して飛び退くよりも【メタトロン】の巨体が魔神を圧殺せんとするほうがコンマ数秒分だけ、早い。
奇しくも互いの読みは同じだった。『バエル』は回避よりも受け切ることを選択し、その防壁に更なる魔力を注ぎ込んでいく。
壁の漆黒がより闇を深め、はち切れんばかりに膨れて厚さを増した直後。
轟音を響かせ、炎の天使は地に墜ちた。
「ぐううううううううううッ――!!」
『くっ――』
全身を襲う衝撃と激痛に呻吟するレイ、亀裂の走る防壁を前に瞠目する『バエル』。
バキリ、バキリ、とその罅は広がって幾つにも枝分かれしていく。
装甲から紅炎を噴出させる機体の圧倒的な熱と重量に、【絶対障壁】は歪んでいった。
『本命はこちらだったのか!? ……なんてね』
防壁が崩壊したその時、『バエル』は笑った。
それは道化の如く、これまでの全ては茶番だと言わんばかりに。
レイがもたらした二度目の「死」を享受した魔神は、「うふふふふふっ!」と高笑いしながら圧殺されていった。
骨が粉砕される不快音が鳴ったその後には、炎が爆ぜる小さな音だけが残った。
「これで、もう……」
パイロットの生命を守るために箱型のコックピットは機体より自動的に分離して、射出される。
地面に落下した衝撃に揺さぶられる中、もう動けないレイは瞼を閉じて全てを流れに任せようとした。
と、その時だった。
ヴヴヴヴヴッ――破滅を告げる不協和音が再び、鳴り響く。
「う、そ……」
瞬間、少年の心に蘇ったのは先程と全く同一の絶望だった。
命を賭けて戦った。ここで倒せさえすれば、未来に一つの希望を残せると思った。それでも、敵はまた蘇る。
『あー痛かった。特攻兵ほど恐ろしく愚かなものなんてないよねェ、レイ?』
レイは『バエル』に敵わなかった。天敵に捉えられれば最後、獲物は喰らわれるのが自然界の摂理。人類は【異形】に蹂躙され滅びの寸前まで追い込まれた――その歴史を顧みず、思い上がったヒトの傲慢が、彼らを戦場へ突き動かし、そして命を無為に散らせた。
レイたちの戦いに意味などなかったのだ。どれだけ抗おうが、どれだけ討とうが『バエル』は羽音と共に復活する。
『言ったでしょ? 俺は、ヒトの絶望が何より大好きだって』
無駄だった。無駄だった。無駄だった。無駄だった。無駄だった。無駄だった。無駄だった無駄だった無駄だった無駄だった無駄だった無駄だった無駄だった無駄だった。
もはやレイは言葉を持たなかった。思考は奈落の底に沈み、肉体は生きることを諦めていた。
全ては無駄事。
それが、運命。
『あはっ、あはっ、あははははははははははははははははっゲッホゲッホおぇっ! ぜぇ、ぜぇっ……あーおかしい』
本当にお目出度い、と魔神は嗤った。
身体をくねらせ、笑いのあまりえずいてしまうほど、彼は喜劇の演者たちを見下す。
と、その時だった。
『バエル』の触角のような前髪の束が、風に揺れたのは。
『……?』
振り返った魔神が目にしたのは、『プラント』と外界とを繋ぐアーチ型のゲートが開いた光景であった。
そして、瞬間。
逆光の中に有翼のシルエットが浮かび上がったと思えば、無数の魔力弾が光の矢のごとく飛来して『バエル』を急襲した。
復活した魔神の胸部が狙いたがわず穿たれ、衝撃にその身体が仰け反る。
『……あれは』
絶望の戦場で立ち直れずにいたアキトは、軋む首を動かしてゲートを見上げた。
遠くに映る翼に見覚えはない。だが、その兜と触角に似た毛束、そして靡く長髪と袴の輪郭は忘れているわけがなかった。
『かあ、さん……?』




