第百四十九話 血と煙草と取捨物と ―"To redo again."―
時は数十分前に遡る。
『レジスタンス』本部を目指してバイクを走らせる矢神キョウジは、通り過ぎていく狂乱の人々を横目に顔を歪めていた。
人同士が我を失って殺し合う地獄。映像では分からなかった血の臭いや編集でカットされていた絶え間ない蛮声が、男の肌を粟立てる。
今すぐ引き返そうかと彼は何度も思った。『学園』に身を潜めていればしばらくのうちは安全なのではないかと。
だが、その安全に絶対の保証はない。
自分たちが信じていた都市の安全神話、それが崩壊した瞬間をこの目で見てしまったのだ。何も信じられない。
「くそっ、くそっ、くそっ……! 俺たちが守ってきたのは何だったんだ! あいつらの帰る場所を守ってやるのが、残された俺たちの役割なんじゃなかったのか!」
ニヒルを気取っていた男は、恥も外聞もかなぐり捨てて叫んだ。
暴徒に捕まらぬよう限界まで飛ばし、暴走車の合間を強引に縫って猛進する。
自らの命を擲つかのような走行で、ただ救いきれなかった女たちのもとへ急ぐ。
月居カグヤも、明坂ミユキも、キョウジにとっては大切な人たちだ。
しかし、キョウジは彼女らの内面に決して深入りすることはなかった。
彼女らが悩み、苦しんでいる時、キョウジはただ鎮痛剤のような甘い言葉で慰めるだけで他に何をしてやることも出来なかった。
自分たちは恋人でも家族でもない。あくまで同じ職場に勤めるだけの、他人。
その意識が彼に線引きを強いた。変わってしまったカグヤ、離れていってしまったミユキ、どちらの心も彼は引き留められなかった。
あと一歩、踏み込んだところから声を掛けられていれば。
あと一歩、近い場所で彼女らの手を握ってあげられていれば。
「今さら後悔かよ、馬鹿野郎……!」
男は自嘲を吐き捨てる。
路傍の死体を乗り越え、倒壊したビルを迂回して中央へひた走るキョウジは、脳裏に過ぎった二人の女の顔を振り払おうとした。
――今日を最後にはさせない。次に会った時は必ず、二人ときちんと向き合って話そう。
血と狂乱の世界を一人突っ切りながら、男は誓う。
「っ、あれは……!?」
と、その時だった。
視界の端で血みどろになって彷徨う女へ、彼は意識を引かれた。
黒髪に赤縁眼鏡の、真紅に染まったワンピースの少女。――明坂ミユキだ。
「明坂主任ッ!」
かつて慕った上司の名を呼び、バイクを急停車させるキョウジ。
彼の声にミユキは緩慢な動作で振り返り、その赤い目で男を見据えた。
『ア、アアッ、アアアアアアアッ……!!』
頭を抱えて黒髪を振り乱し、ミユキは発狂する。
が、しかし――彼女はキョウジへと飛びかかることなく、出血するほどの力で唇を噛み締めながらその場に留まっていた。
「明坂主任! 俺です、矢神です! 俺のこと、分かりますか!?」
ミユキは自分に気づいて自制してくれているのではないか――その期待をもって、キョウジは彼女へ声を掛け続ける。
「主任ッ、明坂主任!」
『やっ……やが、み……』
枯れそうな喉を震わせて何度も名前を呼んだ、その暁に。
ミユキはキョウジを真っ直ぐ見つめて、彼の名を口にした。
『アッ、アアアアアッ――!!』
だが次の瞬間、凶刃が閃く。
瓦礫を蹴飛ばして肉薄する、女の赤い爪。
限界まで目を見開くキョウジは咄嗟に避けることも間に合わず、思わず固く瞼を閉じた。
『ヴアッッ!?』
どさり、と何かが地面に崩れ落ちる音がした。
キョウジは、死んでなどいなかった。目を開いて確かめた身体は無傷で、振り返るとそこには倒れ伏した血まみれの男がいた。その男を、明坂ミユキは無言で見下ろしていた。
――助け、られた?
キョウジはそう察した。ミユキの目を覚ますことに躍起になるばかりに周囲への警戒を怠っていた彼を、彼女は力尽くで守ったのだ。
「……明坂主任」
白衣の男はかつて慕った上司のもとへと駆け寄った。
その細い肩を抱き、「ありがとう」と耳元で囁く。彼女がそこで再び暴走を起こしたとしても、キョウジにはもはや構わなかった。
しばしの間、時は止まった。
「…………矢神くん」
血と獣の臭いの中に、その女の微かな煙草の匂いは残っていた。
わななく腕で抱き返してくるミユキに、キョウジは頬を緩める。
「ありがとう……あたしを、見つけてくれて」
「それが俺のやりたいことでしたから。……行きましょう」
礼を言ってくるミユキに目を細め、それからキョウジはバイクの荷物置きにあったヘルメットを彼女へ放って寄越す。
エンジンをかける彼に頷き、ミユキは慣れた所作で彼の後ろに乗った。
狂騒の街の中を二人、突っ走っていく。
「昔ね、こうしてカグヤと一緒に走ったわ。もうずっと、【異形】が来るよりずっと前の話」
「へえ。それはどこで?」
「湘南の浜辺よ。朝の潮風はちょっと冷たかったんだけど、とっても気持ちよくって」
「いいですな。いつかまた、俺も海を見たいものです」
「そうね。皆でまた……海を知らない子供たちも一緒に」
茹だるような暑さが血の風を運んでいる中、男女は失われた潮の香りを思った。
その過去と未来とが果たして交差するかは分からない。
その運命は、彼らの行動しだいだ。賽は既に振られた――しかし、人は遊戯の駒などではない。その動きは自分で決められる。
「人々の暴走は、【異形】によるものと見て間違いないわ。街の中に漂う【潜伏型異形】……死者の魂の残滓。それが、人々を狂わせているの」
「潜伏型? 死者の、魂……?」
「魔導書を知らないあなたには、すぐに全てを飲み込むのは難しいかもしれない。だけど、それは紛れもない事実よ。そして……」
ミユキは一旦そこで言葉を切った。
口に出してしまえば厳然たる真実として認めなくてはならなくなる――そのことが、彼女に少しの躊躇をもたらしたのだろう。
「そして、何です?」
「……この事件を引き起こしたのは、おそらくカグヤよ。【潜伏型】を、それを憑かせた人間『超人』の研究を行っていたカグヤなら、【輝夜】の魔力で彼ら【潜伏型】を活性化させることも可能でしょう」
【輝夜】の固有能力は「魔力フィールドの展開」。一定範囲内の全体に魔法の効果を発現させ、敵を制圧したり味方を回復させたりできる。その能力があれば、中央区角全体に【潜伏型】を呼び起こす魔力波を容易に拡散させられる。
「矢神くん、本部に突入してカグヤを止めるのよ。魔力波の拡散さえ収まれば、【潜伏型】の暴走もいずれ鎮まるわ」
「はい……!」
月居カグヤと向き合い、彼女の凶行を止めさせる。
事態の解決への糸口がようやく見え、キョウジは決然とした面持ちでアクセルをさらに踏み込んだ。
暴れ狂う人々を痛ましく思いながらも目を逸らし、本部到着を最優先に走る。
『矢神先生!? どうしてここに……!?』
本部目前まで迫ったその時、背後からSAMの拡声機能で声を投じてきたのは冬萌ユキエだった。
動揺する彼女へ、キョウジはバイクを飛ばす足を緩めずに叫ぶ。
「俺にはやるべきことがある! 止めないでくれよ!」
『そんな、無茶です! バイク一つでここまで来るなんて!』
「現にここまでは何とかなってんだ、行けるさ!」
『そんなの根拠にすらなりません! ……ああもぅ、私が守りますから!』
並走するユキエの導きで本部への残り僅かな道を行く二人。
近づいてきた暴徒は【防衛魔法】のバリアで阻み、ユキエはどうにか二人を送り届ける。
現在、都市内の狂乱への対処として、ユキエは都市を細かいブロックに分けて【防衛魔法】の壁を展開することで被害を最小限に止めようとしていた。各ブロック内は蠱毒の壺と化してしまうが、まだ被害の及んでいない他区画へ暴徒が流入するよりかはマシだ。
その甲斐あって本部周辺の暴徒はだいぶ減っており、キョウジらは無事に目的地へ辿り着くことができた。
『矢神先生、私がサポートできるのはここまでです。事態の解決を願っています、どうか……ご武運を』
「ありがとうな、冬萌くん。君たちの行動を無駄にしないよう、俺らも努力する。人々の鎮圧は大変だろうが、頑張ってくれ」
本部前で教え子の【イェーガー】を見上げ、キョウジは親指を立てて笑ってみせた。
ミユキも彼女へ「ありがとう」と告げ、キョウジの手を引いて本部内へと突入していく。




