第百二十七話 世界の真実を ―Innovator―
月居カグヤは追憶していた。
かつて銃を向けた男との思い出を。共に願った、人類が皆で掴む平和という幻想を。
あの頃は無垢だった、とカグヤは思う。
研究ばかりで人を知らなかった。誰もが自分の理想に賛同し、支えてくれると思っていた。社会を営んで生きるために人類は協力し合うものだと信じていた。
だが、結局は違った。
月居カグヤは人々に裏切られた。人の失態を種に飯を食おうとする者たち、それを利用する野心家たち、そして彼らに踊らされる蒙昧なる人たち。誰もが最初はカグヤを称えていた。しかし、気づいたら彼女は【冷血】と蔑まれていた。過激派の中には彼女の退陣を叫び、連日『レジスタンス』本部前に集う者もいた。
(人なんて所詮、社会の歯車でしかない。それが喚き立て、私を引きずり下ろそうと汚らわしい手を伸ばしてくる……奈落の底で這いずり回っていればいいものを)
いつしか、彼女は人を嫌うようになっていた。いや、憎むようになったと言ってもいいかもしれない。
その嫌悪が増すほどに、以前からの【異形】への倒錯はますます強まっていった。
今、カグヤの体内にはカナタの中にいた【潜伏型異形】が宿っている。『超人』と化すことで人と【異形】の両方を統べる完璧な美しき存在になれるのだと、彼女は確信していた。
「お嬢様、どちらへ?」
「……やるべきことがあるのよ。この場は冬萌大将に任せるわ」
『レジスタンス』本部、大司令室にて。
『第二次福岡プラント奪還作戦』が進行する最中、残された彼女らは非常事態に備えて待機していた。
緊迫した面持ちで各オペレーターがコンソールに向かう中、席を立ったカグヤは富岡の言葉に簡潔に答えた。
「では、私もお供しましょう」
そう応じ、軍服の老紳士は彼女の後に続く。
「司令……」
司令席の脇に座る冬萌ゲンドウ大将は、低めた声でカグヤに何か言おうとする。だが彼は数秒の間を置いた後、結局は発言せずに司令席に着いた。
冬萌大将は元々、旧自衛隊に所属していた人間である。カグヤとは『レジスタンス』創設期からの付き合いである彼は、彼女に軍事の何たるかを叩き込んだ「師範」というべき人物だった。
人々を信じられなくなってからもなお、カグヤは冬萌大将のことだけは信頼していた。『レジスタンス』創設に尽力し、誰よりも軍人として誇り高く務めを果たしてきた剛毅木訥な男。自分の後継を定めるならばこの人だと思えるほど、彼女の大将への信頼は厚いものだった。
(人も、【異形】も、何もかもが変わる。世界は壊れ、私の手で再生させられるのよ。全ては布石――『魔導書』の導きに従ってSAMを発展させ、【異形】と戦ってきたのも、私の理想を遂げるため)
歩む彼女が向かうのは、地下の大空間。
自分と富岡、そしてミユキしか知らない、『エル』によって管理された聖域だ。
長い隠し階段を下っていった先にある扉のロックを解除し、冷え切った空気が淀むそこへ足を踏み入れる。
人の熱を感知して照明が一気に点灯し、広間中央に鎮座する【輝夜】や柱にはめ込まれたガラスケース内の【異形】たちの姿を浮き出させた。
『また来たんだね、カグヤ。司令としてやるべきことがまだあるはずだと思うけど』
「どうしようが私の勝手でしょう。口出しはしないで」
どこからともなく響く少女の声に、カグヤは舌打ちを返した。
都市の全てを司る人工知能『エル』――月居カグヤの支配にとって、最も邪魔になる存在。
『君は「レジスタンス」を率いる者として、最後まで「魔導書」に記されし使命を遂行する責務がある。それを放り出されちゃ困るよ』
「あなたたちの望み通り人類はSAMという力を発展させ、七十二の【第一級異形】の三割程度を既に討伐している。発展に比例してその討伐ペースは加速度的に高まっているわ。撒けるだけの種は、撒いた」
人類のためにやるべきことはやった――カグヤのその言葉に嘘はない。
これまでの行動で『魔導書』への忠誠を見せつけてきたカグヤに対し、エルはそれ以上の追及はしなかった。
だがエルはカグヤの【異形】への執着、そしてその結果として生まれた『超人』をこの場で目にしてきている。警戒はしているはずだ。
(でも、所詮は実体なき意思だけの存在。それがどれだけ喚こうが、私の意志は封じられない)
『魔導書』の計画を書き換える時が来たのだ。
これより月居カグヤは真の意味で、人類と【異形】の世界の革新者となる。
『超人』となった彼女には人を超越した魔力が宿り、それをもって自らの名を冠した最強の機体【輝夜】を統べる。
障害になりうるSAMとそのパイロットは福岡まで出向いており、もはや彼女を止めるものはない。
都市に蠢く思惑も、兵士たちの数多の意思も、全ては無駄事。月居カグヤが賽を投げれば、『新東京市』という盤面はひっくり返る。
「【輝夜】の起動シークエンスを開始して」
『……今? 何をするつもり――』
「承知いたしました、お嬢様」
カグヤの命令にエルは異論を出そうとしたが、別の声がそれを遮った。
しわがれた老人の声――これまで彼女を見守るばかりで具体的な行動を起こしてこなかった、富岡である。
『勝手なことをしないでおくれよ、富岡さん!』
「お嬢様の命令は絶対であります。たとえ都市を統べる機構たる貴女の言葉でも、それだけは揺るがせないのです」
少女の瞳の奥に潜む毒蜘蛛の存在に気づいたその日から、男は一生涯彼女の下僕となることを誓った。
全ては月居カグヤの願いを叶えるため。彼女が自分を計画のための道具としてしか見ていないのを理解していてもなお、富岡が夢から覚めることはなかった。
『そんなことさせないよ! 【輝夜】は乗り手の命を貪る危険な機体だ、絶対に再起動なんてさせられない! それにあの機体は、私の管理下に――』
「ないのですよ、それが。貴女の生命は我々の慈悲によって維持されているものに過ぎない。自らがシステムの頂点に座していると思っているのならば、それは思い上がりです」
富岡はほくそ笑む。
『エル』など所詮、人格を持つだけのコンピュータに過ぎない。管理者としての彼女の上に立つ管理者――それこそが自分なのだと彼は誇示した。
「私が何もせずお嬢様に付き従っているだけの俗物だとお思いでしたか? やはり貴女はヒトですな、エル。自らの優れた力に酔った、傲慢な存在」
エルは富岡の誹りに何も返さなかった。
数秒の沈黙の後、彼女はカグヤへ矛先を向ける。
『カグヤ……君は何をしようって言うんだい!? 肉体を動かせない私たちに代わって『魔導書』の導きに従い、【異形】を討つのが君の使命なはずだ! その力を私欲のために使おうっていうのかい、君は!』
「自分たちがこの世界にもたらしてしまった災厄の後処理を押し付けておいて、それが使命ですって? 勝手なことをしているのはどちらかしら、エル!?」
二十一年前に地球に飛来した赤き隕石、『カラミティ・メテオ』。
それこそが【異形】たちを地球へ降り立たせた死の方舟だった。観測された巨大隕石を前に人類は壊滅的被害を回避するため、地上及び宇宙空間からの迎撃による破砕活動を行った。
各国軍が手を取り合って尽力し、かつて恐竜が滅んだ時のような破滅は防ぐことが出来た。
しかし、真の災厄はその隕石の内に潜んでいたのだ。各地に落下した隕石の破片の内部に封じられていた繭より目覚めた未確認生命体が人類への攻撃を開始し、世界は瞬く間に混沌に陥っていった。
宇宙よりやって来た【異形】たちには既存の兵器がことごとく通用せず、人類は有史以来の種としての「敗北」を経験した。全人口の八割が死滅する惨状の中、生き残った者たちは世界規模で続いていた冷戦中に核攻撃に備えて作られていた地下都市へ避難。そこに潜むことで辛うじて命を繋いだ。
世界各地に墜落した『カラミティ・メテオ』の破片を調査した研究者たちは、その隕石が放つ莫大な熱エネルギーに着目して調査を開始した。
そのなかで最初にその解析を果たしたのが、不破カグヤ女史であった。自衛隊に守られながら危険を冒してでも実地に赴いた彼女は、直径10メートルほどの隕石を砕いた際、そこに埋め込まれていた繭からあるものを手に入れた。
その時のことをカグヤは今も鮮明に覚えている。
繭というより子宮のような肉塊と、それを引き裂いて中に見える、生まれたままのヒトの姿。
一人は緑色の髪をした美しい少女。そしてもう一人は、黒髪の美少年。
目覚めた二人は自らを「外宇宙の存在だ」と語った。自分たちの世界で起こった怪物という災厄を追放するための使命を担っていた、とも言った。
本来ならば怪物たちを閉じ込めた隕石――彼女らは『方舟』と呼んでいた――は、宇宙空間でのワープを繰り返し、知的生命体のいない銀河の星に落ちる予定だったという。しかしワープ――彼女らはこれを『超転移魔法』と呼称していた――の制御に異常が起こり、本来ならば飛ぶはずのなかった太陽系の銀河へと飛ばされてしまった。
カグヤは宇宙人の実在に学者として大いに興味をそそられたが、それ以上に無関係の星に脅威を持ち込んだ彼女らに悲憤慷慨した。
痛切な面持ちで語る彼女らに悪意があったとは思えないが、それでも起こった悲劇は多すぎるほどの人名を奪い、世界を滅茶苦茶にしたのだ。
涙を流して償いを求めるカグヤに、少女らはこう答えた。
「私たちは『超転移魔法』で小宇宙を超える間に、持てる魔力の殆どを費やしてしまった。だから、この世界中に散らばったモンスターたちの全てに対抗することは難しい。けれど、この世界の人に力を与えることはできる」と。
彼女らは、自分たちが怪物を封じ込めるために生み出した赤き結晶には魔力が宿っているのだと語った。
加えて、七十二の怪物について記した『魔導書』という書物も渡した。
その後、カグヤたちは『カラミティ・メテオ』を回収するとともに二人の異星人を移送したが、彼女らとその真実は隠匿されることとなった。
宇宙人の実在の公表は人々に無用の混乱を招くだろうし、明るみにしたところで問題が解決するわけでもない。そして何よりカグヤが危惧したのは、人々が憎悪に駆られて二人の異星人を襲撃することだった。彼女らは【異形】や「魔力」という未知のエネルギーの情報を有している。人類が【異形】に蹂躙されている現状、彼女らの知識は決して失われてはならないものだった。
それからの流れは知っての通りだ。
魔力についての情報を得たカグヤは、早乙女博士と協力し地球人に分かるようにそれを体系化した。
少女――『エル』は地球人を自らの星の「ヒト」と酷似したものだとし、ならば脳内にある未知の領域を使うことで君たちにも魔力が扱えるようになるかもしれないと示唆した。
その言を受け、カグヤと早乙女博士、そして月居博士が合同で研究し、作り上げたものこそがSAMだった。
ヒトと同じ造形にして、魔力で動く鋼鉄の機械。『カラミティ・メテオ』改め『コア』を脳とするその巨大人型兵器は、パイロットの脳に直接リンクすることでその秘められし魔力を引き出し、人類に革新的な力をもたらした。
異星人の少女と少年は何万光年もの距離を超えてきたことで心身が衰え、見た目は殆ど老化していないものの虚弱になっていた。
そのため、彼女らは自らの人格を電脳世界にコピーすることを望んだ。
その分野の第一人者である鏑木リッカ博士のもとで彼女らはサイバースペースに生きることとなり、少女のほうは後に『エル』として都市のシステム管理者となった。
「感謝するわ、エル。この地球に【異形】と魔力の知識を運んできてくれて。でも……あなたの役目ももう終わり」
夜空のように遠い天井を仰いでカグヤは哄笑する。
富岡の操作によって無数のコード状の拘束具が解除された【輝夜】のもとへ静かへ歩み寄った彼女は、機体の脚から背中にかけての足場を伝ってコックピットへ登っていった。
「あなたはもう、この世界には必要ないの。『魔導書』のシナリオは私が書き換える」
魔力に適応した軍事技術を発展させ、【異形】を全て討伐する。その暁に訪れる世界の再建までも見据えて『魔導書』は書かれていた。
だが、それはエルたちが定めた理想郷に過ぎない。異星人が彼らの倫理で作り、押し付けた平和に過ぎない。
『人々が対話し、分かり合える世界を目指すためのシナリオ』など、カグヤは望まない。そんなものは偽善だ。欺瞞だ。群衆は愚かであり、自らが危機にあってもただ力ある誰かに縋るだけ。与えられるものをそのまま受け取って何も考えようとしない者たちと、世界のために日夜力を尽くしている自分たち――それがどうして分かり合える?
『カグヤ、君は――!』
「あなたに何が出来て? 私の変革は、誰にだって止められない」
カグヤの叫びに呼応するように、その純白のSAMは禍々しき赤のオーラを纏い始める。
都市の奥底で魔力を溜め、破壊へのカウントダウンを刻み始める【輝夜】。
その力の胎動は地下より都市全体へ少しずつ伝播し、そこに生ける人々に得体の知れない恐怖を抱かせた。
焔のような日輪が沈みゆく、都市中央区角の大通りにて。
「この、感覚は……!?」
『レジスタンス』本部へと駆けていたミユキは歩道の真ん中で立ち止まり、早鐘を打つ左胸を押さえた。
耳鳴りにも似た不協和音が頭の中に響き、こみ上げてくる吐き気に蹲ってえづく。
通りすがりの女性が「大丈夫ですか!?」と声をかけてくれるものの、ミユキはそれを意識することもままならない。
視界が赤く明滅する。身体が震え、呼気が熱くなる。吐瀉物に汚れた爪は赤い光を微かに帯びて、獣のごとく伸びているように見えた。
「……ッ」
『獣の力』が発現した時の状態。彼女の意思に拘らず、何の前触れさえもなしに力が暴走を始めたのだ。
このようなことはミユキにとって初めてだった。彼女はこれまで、完璧に【異形】を制御してこれたはず。それなのに、何故――声にならない問いかけを、自らを『超人』にした女へと吐きかける。
「あ、ぁっ……!」
荒ぶる右拳を鎮めようと左手を掴むが、震えは止まりそうにない。
胸の奥底から得体の知れない衝動が湧き上がる。今すぐに誰でもいいから「ヒト」を襲いたい――自身の望みに反するその本能に、流血するほどの力で唇を噛み締めてミユキは抗った。
『今こそ、目覚める時よ』
愛してやまなかった女の声がどこからか聞こえた。
その声が現象としての音か幻聴かさえも分からず、ミユキはただ獣のように唸り声を漏らす。
傷つけたくない。喰らいたい。守りたい。血を見たい。
暴れ狂うもう一人の自分と意思をせめぎ合わせ、ミユキは自らの腕に爪を突き立てる。
他人を傷つけるくらいなら、自分を喰らって死ぬほうがずっとマシだ――理性をもって自信を抑えつけようとする彼女だったが、しかし。
『私が愛を与えるわ。嘘のない、純然たる愛を』
彼女はそこに、確かなカグヤの実像を見た。
カグヤが自分に手を差し伸べている光景を目に焼き付けた。
嗚呼、自分は救われたのだ――そう思った。
だから、その手を取ろうとした。その胸に飛び込もうとした。
その爪が、か弱い身体を引き裂いてしまうことも知らずに。
「カグヤ……ずっと、会いたかったの! あなたに謝りたくて……」
涙をこぼし、抱きしめた瞬間に感じたのは生温かい感触。
鼻にこびりつくのは鉄の臭い。耳を突き刺すのは、もがき苦しむ女の悲痛な声。
「あ、ア……カグヤ、アタシハ……ッ!?』
その爪は触れるだけで人を傷つける。その鱗状に変化した肌は、掠るだけで衣服をズタズタに引き裂く。
思いっきり抱きしめたその時にはもう、腕の中の女性は見るに堪えない姿と化していた。
周囲の通行人たちが途端に恐怖から狂騒の様相を呈する中、血みどろのミユキは自分が何をしてしまったのかも理解できずにいた。
『ア、アタシ、ハ……?』




