第百二十六話 生きるための選択 ―The justice or vice?―
薄汚れた制服姿でベッドに横たわる七瀬イオリは、天井に取り付けられた壊れかかった蛍光灯をぼんやりと眺めていた。
彼がいるのは暴力団『黒羽組』の本拠地である建物の一室。地下牢から解放されてもなお学園へ戻ることが出来なかったイオリは、組の頭領である黒羽ツグミの下で籠の中の鳥となっていた。
(馬鹿だ、俺は。どうしようもないクソ野郎だ。俺が騙されなければ、あんなことさえ言わなければ、『尊皇派』の人たちは……)
九重夫妻だけでなく、イオリが名を挙げた研究者たちもテロに遭ったのだとツグミに言われた。
「君のおかげだよ」と酷薄な笑みを浮かべて言ってくるツグミに、イオリはただ唇を噛むことしか出来なかった。
自分のせいで多くの仲間が傷ついている。九重氏は今も意識が戻らないまま病院にいる。他にも何人かが亡くなったと聞いた。『尊皇派』の者だけでなく、偶然巻き込まれただけの人もいたそうだ。
ツグミはそれを事あるごとにイオリへ知らせてきた。悪趣味な男だとイオリが内心で毒づくと、彼は見透かしたかのようにふんと笑うのみだった。
「やぁ、イオリくん。今日も顔色が悪いねぇ、それに髪も見ただけで分かるくらいギットギトだ。シャワールームと綺麗な服を貸してやるって言ったのに……意地っ張りなガキだねぇ、全く」
ノックもせずに部屋に入ってきたツグミは手近なソファにどかっと腰を下ろし、言った。
捕らえられたあの日からイオリは入浴も着替えもしていない。
そうする気力さえ起こらなかったのだ。仲間たちが危機に陥るという状況を作り出した張本人である自分が呑気に身体を清めるなど、彼らが知ったら決して許しはしないと思った。
自罰から汚れを落とそうとしないイオリに、頬に鳥の片翼の刺青を入れている男は鼻を鳴らす。
「理解できないねぇ。いい部屋も、いい飯も、いい女だって用意してやれるのにさぁ」
懐から煙草とライターを取り出し、小気味よい音を立てて着火するツグミ。
仄かに赤くなる煙草の先端を細めた目で眺めながら、男は嗄れ声で呟く。
「……イオリくん、自分が嫌いかい? 人を騙す悪が許せないと思うかい?」
「……」
イオリは答えない。ツグミの問いは図星ではあったが、頷いてしまえば自分の過ちを敵に対してはっきり言ってしまうことになる。彼の矜持は、それを拒んだ。
「俺も昔はそうだった。人から命を奪う悪――【異形】を許せないと思っていた。奴らに対して何も出来ない自分が嫌いだった。何でも出来た優秀な兄貴に対して、俺には才能がなかった。俺は落伍者だった」
唐突に、ツグミは自身について語りだした。
落伍者――その単語はイオリの胸に深々と突き刺さる。今の自分の境遇は、まさしくそれだ。
「俺は家を出た。周りから馬鹿にされるのが嫌で、何もかもほっぽり出してね。『学園』も中退扱いになった。だけど高校生のガキが一人で街に飛び出したところで、出来ることなんてたかが知れてる。生活に困った俺はアングラの世界に飛び込んだ。生きるためなら、迷いはなかった」
イオリは気づけばツグミの話に聞き入っていた。
何が彼を引きつけたかは彼自身にもはっきりしない。だが、その声や語り口には、確かに人を惹きつける響きがあった。
「そっからはがむしゃらにやった。金の匂いを嗅ぎつける嗅覚を鍛え、交渉と脅しの使い分け方を学び、人を操る話術を身につけた。あれから十年以上……気づいたら地下勢力のトップにまで上り詰めてた」
金と暴力がモノを言う世界で生き延びてきた男――それが黒羽ツグミだった。
イオリは上体を起こし、紫煙をくゆらす男を正視して言う。
「才能がない人間がその地位まで上がれるもんか。あんたには才能があった……人の荒波の中で生きる才能が。それをどうして、正しい道のために使わなかった?」
「正しい道、ねぇ。俺には兄貴が語るような『正しさ』は合わなかった……そんだけさ。規則に縛られながら回りくどく生きるなんて、性に合っちゃいないんだよ」
ツグミは小机の上の灰皿に煙草を押し付け、もう一本に手を伸ばす。
と、そこで何か思い立ったように少年へ目を向けた男は、煙草の箱とライターとを彼へ放って寄越した。
「吸ってみなよ」
「お、俺は、そんなもの……」
皺のついた布団の上に転がった小箱とライターを見下ろす瞳が、揺らぐ。
それに手を伸ばしたらいけないと理性が訴える。だが、それで気を紛らわせれば楽になれると感情が囁いてきた。
席を立った男は歯を食いしばる少年に歩み寄ると、ベッドに腰掛けて彼の肩に腕を回した。
「『尊皇派』に戻ったら裏切り者として始末される。あいつなら……蓮見タカネならそうするよ。生きるか、死ぬか……どっちを取る、イオリくん?」
正義を貫いて死ぬか、悪に堕ちてでも生きるか。
その選択を突きつけられたイオリは言葉に窮し、俯くほかなかった。
自分は死にたくなどない。生きて、またミユキやアスマ、レイやシバマルたちに会いたい。一番心配してくれているだろう母親にも顔を見せてやりたい。
だが、悪の道に足を踏み入れるのも出来ない。自分が最も忌み嫌ったものになろうだなんて、考えただけで怖気が走る。
「お、俺は……」
自らの正しさを信じた結果、仲間たちは傷ついた。
正しさとは何だ。悪とは何だ。七瀬イオリの正義とは――貫くべきものとは、何だったのだ。
過ちが少年の信念を否定し、揺らがせる。正義が物事を正しい方向に運ばせるとは限らないと彼は知ってしまった。そこに絶対性など存在しないと、刻みつけられてしまった。
七瀬イオリはもう、イノセンスな正義を掲げる少年には戻れなくなった。自分が行くべき道も、やるべきことも、その正義という道標が失われてしまった以上、見出すことさえ出来なくなった。
「俺なら君を活かしてやれる。どうかな、イオリくん?」
差し伸べられた手。未来への導き。
それを拒めるだけの力は、自らの心を否定し続けた少年に残っているはずもなかった。
「俺は……生きたい、です」
煙草を箱から出そうとする手が震えて、バラバラとそれを取りこぼす。
呼吸を乱す彼を横目に煙草を拾い上げるツグミは、ざらついた声音で言った。
「深呼吸しなよ。覚悟を決めるなら、心は落ち着かせないといけない」
「……っ」
タカネやミユキ、アスマたちをこれから自分は裏切ることになる。進んでしまってはもう戻れない。それでも、生き残るためならツグミの手を取る以外に選択肢はなかった。
病弱で心配症な母親――彼女にまた会うためにも、今は生きなければならない。
「吸わせて、ください……」
意を決して男が火を点けた紙巻き煙草を咥え、一息に吸い込む。
口内から肺を満たすそのタールは、重く辛い味がした。
*
新暦21年8月4日。
港での夜を無事に越した第一、第二、第三師団は午前9時より行軍を開始した。
第一次作戦の際と比べて出発時刻を遅らせたのは、兵の休息をより重要視するようになった将校たちの意向だ。
作戦は長丁場になる。疲弊こそが何よりの敵だと生駒少将らベテランは肝に銘じていた。
「第一師団、進行開始! 各部隊、普段以上に念入りな哨戒を! 敵の根城は近いわ、警戒を絶やさないで!」
燃えるような髪の女装の麗人、マトヴェイ・バザロヴァは通信で全体へ号令を届ける。
彼の凛然とした声に兵士たちは「了解!」と各々返すなか、大将は内心で不穏な影に覆われつつある都市を案じていた。
(アングラ勢力によるテロ行為……主に『尊皇派』の者たちが狙われているって話だけれど、その牙が一般市民や我々『レジスタンス』に向かわないとも限らない。叶うなら一刻も早く都市に戻りたいところだけど……)
どれだけ迅速に事が運ぼうと、敵の掃討・基地の修復・プラント復興の全てを遂げるには最低でも二週間は要る。それも休みなく兵員を働かせての目算だ。
『レジスタンス』の大半の兵力が出立したのを好機と見て動き出したテロ勢力について、将校たちは下士官以下の者たちには伝えまいという方針を決めていた。
今は失敗が許されない作戦の最中なのだ。知ったところで自分たちがどうにかできるわけでもないのだから、その情報は無為に不安を掻き立てるだけ。
「皆、今は作戦のことだけ考えるのよ。いいわね?」
「「「はっ!」」」
マトヴェイの言葉に司令室の全員が一斉に敬礼を返した。
一晩しっかり寝て心身を休めたことで、意志を固める余裕も出来たのだろう。彼らを頼もしく思うマトヴェイは勝気な笑みを浮かべ、モニター越しに見える緑化した国道を見渡した。
「アタシたちは勝って都市に帰る。それだけは、何としても」
第一師団の殿が軍港を発った後、立て続けに第二師団は出撃を開始した。
生駒センリ少将が統べる部隊には今回、海軍のSAM部隊からアオイをリーダーとする一個中隊と【ドミニオン】四機が同伴することになった。
『久しぶりです、生駒少将。不慣れな陸戦ですが足を引っ張るつもりはありません。この時を見据えて、僕たちも訓練してきましたから』
「そうか。頼もしいな」
寡黙で仏頂面ばかりしている男はそれだけ言って、通信を切る。
生駒センリがアオイと直接顔を合わせなかったのは、【ドミニオン】パイロットたちにとって幸運なことだった。四人は原則アオイの下で行動するよう義務付けられている。先の海戦では戦況が混沌の様相を呈していたこともあり別行動だったが、基本はそうだ。
生駒センリは【異形】の臭いを嗅ぎつける鼻を持つ――月居司令から予め聞かされていたナツキは、密かに胸を撫で下ろしていた。
「少将、プランに変更等は?」
「現状ない。だが、そこは臨機応変にやる。自分たちの仕事が司令部で指示を出すだけだとは思うな」
側近の麻木ミオ中佐――黒髪ベリーショートである妙齢の美女だ――からの問いに、センリは毅然とした面持ちで答えた。
その言葉に違わず、彼は既に黒い『アーマメントスーツ』を身に纏っている。
麻木中佐は軍服姿の自分を見下ろして羞恥に頬を赤らめ、「少々お時間を」と断って足早に更衣室へと向かった。
着替えのために数名が一旦席を外す中、彼らと入れ替わるようにミコトとレイが司令室に入ってくる。
「申し訳ございません、少し遅れましたわ」
「……昨日の魔法の連発が響いたのでしょう。人の魔力が満タンまで自然回復するには、およそ一日の休息を要します。本来ならば、昼過ぎまで休まれていても良かったのですが」
部下であっても相手が皇女であるため畏まった言葉遣いで言うセンリ。
日々の戦いで眉間に皺が刻まれ、無愛想な表情の彼だったが、その瞳には同胞を労わる温かさがあった。
「『阿修羅』とか『鬼神』とか、そういった二つ名を耳にした時はどんなに恐ろしい方かと思ったものですが……お優しいのですね、少将」
微笑んで見上げてくるミコトに一言「勿体無きお言葉」と返し、センリは視線を大モニターへ改めた。
「俺は人だ。怪物じゃない」
行軍する人たち。彼らを運ぶ戦車や戦闘機、輸送機の数々。そしてSAM。
自分が立つ下には兵の存在があり、彼らの命があって「人」として生きることが出来ていることにセンリは感謝した。
世界に自分と【異形】しか残らなくなったその時、彼は自らが完全に修羅と化して戻らなくなると確信していたから。
「先の海戦と同じく敵がワームホールを出現させ、波状攻撃を仕掛けてくる可能性は高い。早乙女少尉、残念ながら貴官は休めないぞ」
「分かっています、少将」
少年の決然とした青い眼差しが、センリを射抜いた。
『第二の世界』での試験、昨日の海戦と二度相手取って、結局は自らの手で全てに対処できなかった『ベリアル』のワームホール。
三度目の正直にさせてもらいましょう――今度こその勝利を誓うレイは、あの黒い穴の向こうに潜むであろう魔神のニヒルな笑みに思いを致した。
「絶対に勝ちます。そして……」
――対話を、果たします。
カナタもマナカもいなくなった今、その役目を一番に担うべきは自分だとレイは思う。カナタがやろうとしていたことを継ぐことこそ、自分の使命だと彼は確信している。
何をもってそう定めるか――そんなことは、深く考えずとも分かっていた。
改めて言葉にするのも恥ずかしくて、レイはそれを胸の奥底にそっとしまうのみだったが。
「強い信念は、思いは、悪しき意思を打ち砕きます。心という柱が強くなければ、身体はすぐに折れてしまう……だから、わたくしは祈るのです」
レイが心中でこぼした言葉を見透かしたように微笑み、ミコトは胸の前でクロスを作って祈りを捧げた。




