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暁の機動天使《プシュコマキア》  作者: 憂木 ヒロ
第五章 再戦の篝

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第百二十二話『お前は誰だ?』 ―Miserable oneself―

「お前は誰だ?」


 囁きかけてくる声。


「お前は誰だ?」


 頭の中に響く声。苦くざらついた不快な声。


「お前は誰だ?」


 ――俺は朽木アキトだ。月居カグヤの息子だ。【ドミニオン】のパイロットだ。


「お前は誰だ?」


 ――何故それを問う。俺は俺だ。俺以外の何者でもない。


「お前は誰だ?」


 ――うるさい。お前こそ誰なんだ。俺の戦いを邪魔するな。


「オレは、お前だ。オレこそが、朽木アキトだ」


 笑い声が反響する。胃の中身を引っくり返して吐き出してしまいたくなるほどの、苦味と酸味が混じった味。

 

「オレは、お前だ」


 繰り返す。繰り返す。何度も告げられるその言葉が、声が少年の脳を麻痺させる。

 見知らぬ誰か。それは自分。自分は誰か。俺は何か。俺はどこにいる。「俺」は――「オレ」は、何者だったのだろう?



「ぅおぇっ……!」


 飛び起きてまず襲いかかってきた強烈な吐き気に、アキトは吐瀉物をぶちまけた。

 開いた目に映るのは自分が横たわっていたベッドと白い布団、そして外界を遮断するカーテンだ。

 ここは病室――仄かに漂う薬品臭からそう判断したアキトは、毛布を汚した自身の嘔吐物を見下ろして口元を覆う。


「目覚めたようですね、朽木少尉」


 と、彼の覚醒に気がついた女医がカーテンを少し開け、中を窺ってきた。

 吐瀉物を片付けるための道具を手早く用意し、彼女はこなれた所作で作業を進めていく。

 その最中の問診にぽつぽつと答えていくアキトは、先ほどの夢を思い返し、訊ねた。


「あ、あの……お、お、俺は、俺ですよね。くっ、朽木アキトですよね」

「え、ええ。間違いなく、あなたは『レジスタンス』海軍第一特殊部隊に所属する、【ドミニオン】パイロットの朽木アキト少尉ですよ」

「そ、そう、ですよね……す、すみません、へ、変なこと聞いて」


 謝りつつ、アキトは黙考する。

 あの夢の声は、アキトが戦っている最中に頭に響く声と同じだった気がした。

 ――誰なんだ、あれは。あれは、幻聴なのか? 俺に囁きかけてくるあの存在は、一体……?

 少年は自らが『超人計画』によって【潜伏型異形】に寄生されていることを知らない。ゆえに、不安定な自己に振り回されている。


「な、ナツキは……おっ、お、織部ナツキは、今どこに……?」

「織部少尉なら、先ほどあなたの様子を見に来られましたよ。そろそろ夕飯の時間も終わった頃ですし、また来るのではないでしょうか」


 女医の言葉にアキトが視線を壁掛時計にやると、時刻は二十時半を回っていた。

 戦いの中で頭の中に声が鳴り響き、その吐き気を催す味に意識を朦朧とさせてから六時間あまりが経ったことになる。


(……足を引っ張ってしまった。これじゃ、母さんに顔向けできない)


 長い茶髪を掻き乱し、少年は唇を噛んだ。

 ナツキに敵SAMとの接触を命じられたにも拘らず、特に戦果を挙げることが出来なかった。奇妙な声に心身を乱された――そんな言い訳が、ナツキや月居司令に通用するとは思えない。

 人と話すのが極度に苦手で、皆が感じない音の味を知覚し、あまつさえ正体不明の「声」に悩まされている自分はおかしいのではないか。出来損ないの人間なのではないか、と思わずにはいられない。


 ――俺は誰だ。


 また、繰り返す。

 アキトは『アーマメントスーツ』の胸ポケットに入れていた小さな音楽プレーヤーを取り出し、巻きつけていた有線イヤホンを解いた。

 そうしていつものように、自分の内側へ沈み込む。好きな味の音で心を満たして、外界を遮断する。

 今、聴いているのは先日のミコトのライブ音源。彼女の歌と、自分のベース。それに大人のバンドメンバーが加わって奏でられる、激しく心を揺さぶる曲。

 ベッドに胎児のように蹲ってそれを聞いているだけで、不思議と高揚感に包まれた。


「……アキト。アキト!」

「……っ!? なっ、ナツ……」


 と、その時。

 アキトは自分が身体を揺さぶられていることに気づき、顔を上げた。

 だが、こちらを睨みつけてきている眼鏡の少年の名を呼ぼうとして、その声は尻すぼみになってしまう。

 落胆や失望を隠しもしない冷たい目にさらされ、アキトは項垂れた。


「私は言ったはずだ。敵と交信し、情報を掴めと。それが何だ、この体たらくは」

「……ご、ごめん、なさい……」

「謝罪など要らない。……お前の薬の分量を増やす。それで多少はマシになるはずだ」

「ま、待って……の、飲み過ぎると副作用が出るって、ナツキ、前に自分で……」


 しかし、アキトの訴えをナツキは聞き入れない。

 意見を黙殺された少年は布団をぎゅっと引き寄せ、そこに顔をうずめた。


「……俺は、みじめだ」


 それだけ呟き、アキトは自らへの嫌悪感に溺れゆく。

 次に顔を上げた時にはもう、そこにナツキの姿はなかった。



 理智ある【異形】と接触し、人類側との橋渡しの役割を担う。

 ナツキら『超人ハイソルジャー』はカグヤから直々に、その大役を任せられている。

 しかし、【異形】側との最初の接触はアキトの異常により失敗。これでは接触以前の問題だ、とナツキは頭を抱えたい思いだった。


(母さんの期待は裏切れない……私たちが、いや私が母さんに認められるためにも、【異形】側との接触を果たさねばならない)


 飛空艇内の廊下を一人歩く眼鏡の少年は、内心で焦燥していた。

 

『だったら、アキトに任せずに自分が出れば良かったんじゃねぇの?』


 と、そこで彼の内面に潜む【異形】が囁きかけてくる。

 廊下の途中で立ち止まったナツキは首を横に振り、声を絞り出した。


「……私には『巨鯨型』を押さえておく役割があった。あの時任せられたのはアキトしかいなかった」

『詭弁だな。【ドミニオン】のスペックなら同じ魔法は使えたはずだ。あの場でお前はアキトにバトンタッチして、自ら同胞のもとへ赴くこともできた』


 事実を突かれ、ナツキは押し黙る。

 脂汗を流す少年に対し、【異形】はせせら笑った。


『お前は怖がっているんだ。失敗が怖くて、行動に移せない。同時に、同胞にどう見られるかを確かめるのも恐れている』

「……少し、黙れ」


 歯をぎりぎりと食いしばり、ナツキは激しくかぶりを振った。

 関節が白く浮き出るほどの力で拳を握り締めた彼は、力任せに近くの壁を叩く。

 その音に驚いたのだろう。壁の向こうの部屋のドアが開き、中から青年が顔を出した。


「誰ですか、壁叩いたの! ……って、ナツキくん? どしたの、そんな怖い顔して」


 虚を突かれたような顔でナツキを見つめているのは、水無瀬ナギ少佐である。

 汗を流し頬を少し上気させている少年の様子は、普段の冷然さとはまるで違う。怪訝に思ったナギはナツキへ手招きし、取り敢えず部屋で話でも聞こうとした。

 が、


「いえ、お断りします。今日は早めに就寝するつもりですので」

「んー、ならしょうがないか。見たところ、ちょっと疲れているようだしね。……あぁ、そうだ」


 三つほど年下の少年をそう勞って、ナギは思い出したように呟く。部屋の中へ首を回した彼は、「ナツキくんが来たよー」と間延びした声で呼びかけた。


「やだっ……まだ、寝てたい……」

「フユカ!? 水無瀬少佐、これはどういう……!?」


 寝ぼけまなこな少女はハンモックに揺られ、ぼうっとドアの方を眺めている。

 将校用の一人部屋に幼気な少女を連れ込むとはどういうつもりだと、ナツキは目を剥いてナギへ詰め寄った。

 睨みつけてくる彼の顔の前でぶんぶんと手を横に振り、ナギは弁解する。


「僕、今日の戦いで彼女に助けられてね。そのお礼を伝えたくて、少し話すつもりで部屋に呼んだんだ。でも何だか彼女、すごく疲れてたみたいで……部屋に着くなりハンモックにごろん、さ」


 だから君が危惧するようないかがわしいことはしてないよ、とナギは苦笑して言う。

 彼はまだ眠そうにしているフユカのもとに歩み寄り、彼女をそっと揺り起こしつつ――潜めた低い声で、切り込んだ。


「……臭いがした」

「……何?」

「臭いがした、と言った。獣の臭いだ。最上フユカの肉体が微かに纏っている、臭いがね」


 ドアの前で立ち尽くす少年を真っ直ぐ見据えて、ナギは掠れ声で呟く。

 ナツキの時は止まっていた。『超人計画』は関係者以外には隠匿されたものであり、月居司令や富岡からは「その時が来るまで断じて漏洩してはならない」と釘を刺されているプラン。

 もしやそれに感づかれたのか――そう目を見開くナツキに送るナギの視線からは、既に友愛の情は消え失せていた。


「一つ謝ろう。僕は確かにいかがわしいことをした。ハンモックに上体だけを倒れかけさせた彼女をちゃんと寝かせてやる時に……昔の恋人を思い出して、キスしようとした。寝ているしそれくらい許されるだろうという、浅はかな気持ちだった。だけど、その時……首のあたりから獣っぽい臭いがするのを感じた」


 ナギは気の迷いから口づけに及ぼうとしたことを打ち明け、謝罪した。

 その過ちは運命の悪戯。ナツキでさえも想定していなかった青年の愚かしい行為が、彼を少女の真実へと誘っていく。

 通常ならば誰も気づくはずのないことだった。だが、肌と肌が触れ合わんという距離での接触に加え、その日の『獣の力』の使用時間が長かったことがナギに感づかれる決め手となってしまった。

 瞳が赤くなったり、髪が逆立ったり爪牙が伸びたりするなど、力の発動時には魔力の影響による変化が身体に起こる。身体が獣っぽい臭いを帯びるのもそのためだが、【異形】の同胞が感知できる程度で人間には到底嗅ぎつけられないもののはずだった。


(何故気づかれた。まさか、この男も生駒センリのように、【異形】の臭いに反応する鼻を持っているとでもいうのか? わずか二十歳のパイロットに、そんな能力が開花するわけ――)


 その少年の思考を見透かしたかのように、ナギは空虚な笑みを浮かべて語る。


「ヘッドセットによる神経接続でもしない限り、SAMパイロットは【異形】の臭いなんて殆ど感じない。コックピットという密室に、外気は入り込まないからね。でも、僕は違う。僕はね、知ってるんだよ。あの憎い憎い海の獣の臭いを……動かなくなったその身体を抱いて、愛でて、滅多刺しにしてね」


 海に出て遊ぶナギはある時、割れた氷上に打ち上げられている『海豹アザラシ型』の幼体の死骸を見つけた。

 親とはぐれたのか仲間にも看取られず死んでいったであろう、幼き命。その小さな身体を抱き上げて、彼はその遺骸を撫でた。漂う死臭と獣の臭いが鼻を突き刺すのも構わず、彼は湧き上がる暗い衝動をそれにぶつけた。

 それから彼は、海で少数での哨戒任務に当たる際は密かに【異形】の遺骸を探すようになった。遺骸がなければ氷上の『海豹型』の幼体や『海鳥ペンギン型』の幼体を銃殺した。死んだ直後の温かい獣の臭い――そこに命が宿っていたのを実感すると、彼の身体は打ち震えた。

 屍体を犯し、命を陵辱するのは復讐だ。彼から大切なものを奪った海と【異形】たちへぶつける、自己満足の暴力。

 女の子に大人気な美少年の水無瀬ナギが持つ、誰も知らなかった狂気の顔。


「彼女から感じた臭いは、僕の腕の中で息絶えた小さな【異形】たちと同じだった。……ねぇ、この子が裏切り者だって君は知っていたのかい? アキラさんや瀬那さんと同じ人類に仇なす存在だと、君は分かっていたのかい?」


 ナギは腰に下げていた二丁拳銃の片方をフユカ、そしてもう片方をナツキへ向けた。

 事態が最悪の結末を迎える前に、疑わしき者は始末する。二度と去年の悲劇を起こしてはならないのだと胸に刻んでいるナギに、迷いはなかった。

 あの夜、瀬那マナカと対話していながら裏切りの兆候にさえ気付けなかったナギだからこそ、過ちを繰り返すわけにはいかなかった。


「……知らないですね。そんなこと」


 無表情の仮面を纏ってナツキは答えた。

 張り詰めた沈黙が降りる。剣呑な光を目に宿すナギは、銃を下げなかった。


「僕はここでフユカさんを処分する。たとえ彼女が【異形】だったとしても、銃弾を急所に食らえば致命傷になるはずだ」


 これから行うことを言語化し、突きつける。それでナツキが揺らげば、ナギは彼も殺す気でいた。【異形】を庇う裏切り者として、少年を葬るつもりでいた。


「…………」


 睨み合いはしばし続いた。

 微かに鳴っているのは小刻みに震える青年の手が立てる、カタカタという銃の音。両者がそれぞれ聞いているのは、がなり立てる鼓動の音。

 能面を被ったかのような表情のナツキに対し、ナギは汗を多量に流して緊張や恐れ、躊躇いを隠せずにいた。


 ――この少女は僕を助けてくれた。いつだってあどけなく笑っていた。そんな子を、殺すのか?


 良心の呵責がナギを苛む。しかし同時に、彼はある「違和感」を思い出してそれを殺害の根拠とする。


 ――フユカは『お友達』と話していると言った。その『お友達』が、まさしく【異形】なんじゃないか。理智ある【異形】ならば、魔法で交信していてもおかしくはない。


【異形】は人類の仇敵。彼らが生きる限り、人々に本当の平穏は訪れない。

 ならば、殺さなくては。奴らを殺せば殺すほど、命を刈り取るほど、人は幸せに近づく。幸せは誰もが望むもののはずだ。それを勝ち取るのが軍人の使命なはずだ。

 水無瀬ナギはSAMパイロットであり、【異形】を殺めるのが仕事だ。その【異形】が人の形をしていたとしても、役割は果たさなくてはならない。


「僕に迷いはない。……迷いは、ない」


 自らに言い聞かせるように言って、ナギは冷たい引き金にかけた指に、力を込めた。

 僕は【異形】を殺すだけ、何も悪くない――そう胸中で叫び、彼は撃った。

 銃声が、鳴り響く。

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