第百十六話 愚者 ―"You did a right thing."―
時は少し前に遡る。
薄暗い独房の中、手錠と繋がっている鎖に腕を吊り上げられているのは、一人の少年。
俯いて身動ぎしない黒髪の彼は、階段を下りてくる足音が近づいてくるのに気づくとぴくりと肩を揺らした。
ほどなくしてドアが開けられ、一人の男がそこに顔を出す。
「……やぁ、来たよー。君も強情だねぇ、もう一週間経つけどまだ吐こうとしないなんてさぁ」
粘っこく耳を撫でてくるその声に、少年――七瀬イオリは歯を食いしばる。
お前たちなんかには絶対に屈しない、その思いの火を胸に燃やして。
ウルフカットの黒髪に頬に入れた鳥の片翼の刺青が特徴的な男の名は、黒羽ツグミ。都市の地下勢力である『黒羽組』の頭領である。
ツグミは鉄格子の前に無造作に置かれていた椅子に乱暴に掛け、足を組みながら薄ら笑いを浮かべた。
「どれだけ痛めつけられても吐かないその心意気、俺は嫌いじゃないよ。殴られても、鞭打たれても、爪を剥がされようとも、こめかみに銃を突きつけられようとも、意思を曲げない。君のその強さには感服するよ、全く」
タバコの煙を吐き出し、ツグミは長めの前髪の下から鋭い眼光でイオリを射抜く。
が、少年の強い意思を宿す瞳に睨み返され、彼は肩を竦めた。
「素直に褒めてやってるのに。……ま、いいや。手は幾らでもあるからねぇ」
少年の肌は所々赤く腫れ、死なないように手当されてはいるものの痛々しい様相を呈していた。
ここに連れ込まれてから常に疼痛に苛まれるイオリは、ツグミの言葉に眉を顰める。
「……手?」
「そぉだよ、俺の翼は何枚でもある。知りたい?」
「…………」
「素直に生きようよぉ? 堅物ちゃん」
くくっと嗤うツグミは席を立ち、鉄格子に顔を寄せて囁く。
少年の服から漂う血の染みの臭いは、男にとって芳香と等価値であった。
「……九重、アスマ」
ツグミが口にしたその名に、イオリの目は極限まで見開かれる。
呼吸を微かに乱した少年を見て手応えを得た男は、続けて言った。
「九重グループ会長・九重ソウスケ氏と元『レジスタンス』研究員・相川ナホコ氏の息子。……君とも付き合いがあったそうだねぇ。彼はパイロットとしてもメカニックとしても優秀な子だと聞いているよ」
すぐに本題に移らず相手を焦らすのは、ツグミの常套手段だ。彼は目の前の獲物が予感する恐れに固まるのを眺めて楽しみ、そしてそれを突きつけるのが趣味だった。
「あの子も不幸だったねぇ……君を探してるのか知らないけど、個人的に色々調べてたみたいでさ。君があの夜うろついてた辺りにやって来ててね。ねぇイオリくん、今どうなってると思う、彼?」
少年は拳が固く握り締め、唇を噛む。
自分が暴力団に捕まってしまったせいで、アスマまでも――そんな後悔に駆り立てられている様子に、ツグミの笑みは一層深まった。
「あ、アスマは……アスマだけは放してやってくれ! 勝手に夜中まで彷徨いて、挙句にお前たちに捕まった俺は悪い……だけど、あいつには何の非もないんだ! あいつは俺の後輩で、大切な仲間で……何も、悪いことなんか……!」
「悪いことなんかしてない彼が、何故? そりゃあ愚問だよ、イオリくん。善も悪も俺には関係ない。俺は自分の利益のためだけに動く。それを得る手段が『悪』だっただけ。そして……俺の『悪』は、獲物を問わない」
不気味な笑みの仮面の裏にある欲望が、その眼窩から覗く。
正義感と責任を果たそうという使命に支配されている少年を前に、純然たる欲に従って動いている男は初めて、自身の本質を曝け出した。
「残念ながら、九重アスマくんは俺の餌食となった。俺は君みたいな野郎には興味ないけど、ああいう身体の出来上がってない少年は好みでねぇ。美味しく頂かせてもらったよ。ははっ、気持ちよかったよぉ~! あいつの泣き叫ぶ声を聞くのはさぁ!」
「――このッ、クソ野郎!!」
怒りのままに吼え、立ち上がってツグミに飛びかかろうとするイオリ。
だが足にもかけられた拘束具が邪魔をして、彼はそれ以上前には進めなかった。
「……アスマを、アスマを放せ。これ以上あいつに、酷いことをするな」
「何だよ、いい獲物が手に入ったっていうのに。さっき言ったけど俺は利益重視の人間なんでね。対価なしには動けないよ」
そうしてツグミはイオリに選択を強いる。
アスマを解放してもらうか、『尊皇派』にまつわる情報を守り続けるか。
天秤はどちらに傾くか――少年が驚く程迷わず答えを出したのがおかしくて、ツグミはこみ上げる笑いを懸命に堪えなければならなかった。
「お前たちが欲しがってるものをやる。だから、アスマだけは解放してやってほしい」
震える声で縋ってくる黒髪の少年を見下ろして、ツグミは咥えたタバコの煙を吸い込む。
野暮ったいそれで肺を汚し、哄笑の衝動を幾分か和らげた彼は取引に応じた。
「はい、決まりね。んじゃ、吐いてくれる? 料金は前払いだ」
ポケットからスマホを取り出した男は、その画面をコツコツとタップしてそこに映る別の地下牢を指し示す。
自分と同じように拘束されている黒髪で華奢な少年――顔は俯いていてよく見えない――をアスマと認めたイオリは、知っている限りの『尊皇派』関係者の名前を述べていく。
今も捕まっている後輩を助けたい一心で仲間の名を売った少年に、ツグミは酷薄な微笑を浮かべて礼を言った。
「んー、ありがとー。いやぁ、君は本当にアスマくんのことを大切に思ってるんだね? 単なる先輩と後輩以上の……同志? 同類? それとも……まぁ、何でもいいや。ともかく優しいイオリくんはアスマくんを危機から救ったわけだ」
五日間の拘束と拷問を経て、イオリの判断力は相当に鈍っていた。
ただ情報を吐くまいという気力だけで心を保たせてきた彼は、その強靭な精神力をアスマを守りたいという思いに傾け――他の細部に気を配ることを忘れていた。
ゆえに、彼は気付けなかった。
自らの過ちに。己の盲目さに。そして、嘘を嘘と疑えない自身の愚かさに。
「ただ……君がアスマくんだと思い込んだコイツは、俺らのグルなんだけど」
「…………はっ?」
淡々と明かされた真実を聞いて漏れ出たのは、間の抜けた声。
グル。全ては仕組まれた、イオリから情報を引き出すための茶番。
ツグミが見せる映像には仲間に解放され、定点カメラへとピースサインしている少年構成員の姿があった。目元に大きな火傷跡のあるその顔は、どう見てもアスマのものではない。
「……お、俺を、騙したのか……? お、俺は、アスマをただ、助けたくて……」
手の震えが止まらない。自分がしてしまったことがどれだけ取り返しのつかないものか思い知らされた彼は、ひび割れる顔を両手で覆って崩れ落ちる。
――七瀬イオリは裏切り者。
正義漢を気取っていた少年は一転、彼が最も嫌っていた悪人に成り下がった。
「君、もうお仲間の元へ帰れないね?」
ミユキはともかく、蓮見タカネは絶対にイオリの失態を許しはしない。
待っているのは報復。あの辣腕の政治家ならば、誰にも気取られずイオリを消し去ることも容易だろう。
自らの過ちに頭を真っ白にしてしまう少年に、ツグミは喉を鳴らして嗤った。
*
「前方に『飛行型』多数! 大将!?」
「チッ――取舵10! 【レーヴァテイン】照準!」
第一師団の中枢である飛空艇【テュール】の司令室では、出現した敵に指揮官たちが対処を始めていた。
作戦一日目の夕刻、もうすぐこの日の目標である大阪基地に着こうというところでの襲撃。
休息を目前にして空を覆うように現れた敵に、マトヴェイ・バザロヴァ大将は舌打ちしつつ指示を飛ばした。
「と、とぉぉりかぁぁじ!!」
「【レーヴァテイン】、撃ちます!」
敵の一斉射撃の斜角から外れるように艇を左に転じさせ、すかさず砲撃。
赤き魔力光線が艇の左右側面の砲台から放たれ、黒雲のように群がる前方の敵へと突き進んでいく。
『――――――――ッ!?』
声なき痛哭が連鎖し、単眼の『飛行型』は爆発と共に散っていった。
黒い雨となって降り注ぐ敵の死骸を見届けるマトヴェイは額に手を当て、溜め息を吐いた。
「やっぱ、撃つと相応に魔力を削られるわね」
「む、無理はなさらず、大将! どうかお座りになってお休みください!」
「もぉ、アタシは老人じゃないわよ? 魔力を吸われるのが久々だったから、ちょっと身体がびっくりしただけ。すぐに慣れるわ」
身を案ずる若い部下にそう返し、女装の美男子は腕組みする。
今回の作戦のスケジュールは第一次作戦と概ね同じだ。が、前回より一個師団ぶん人数が増えたため動きが遅れ、予定が後ろにずれ込むことも考えられる。
とりあえず一日目は第三師団まで予定通り基地へと到達できそうなことに安堵しつつ、マトヴェイは傍らに立つシバマルを見やった。
「出番がなくて消化不良って顔ね。これが今の戦争……【異形】との空戦よ。ああいう雑魚相手にはわざわざSAMを出すより、【レーヴァテイン】で一息に焼き払ったほうが早い。あんたら空戦型SAMは本丸――『第一級』相手に駆り出される」
「じゃあ、つまり……出番が来たら、そこが死地ってことですか」
「そう。……怖くなった?」
少年の肩に後ろから手を回して揉むと、案の定かなり固くなっていた。
凝った筋肉を少しでもほぐしてやろうとマッサージする上官に、シバマルは静かに首を横に振る。
「……ツッキーは何度もおれが経験したこともない死地をくぐり抜けてきたんだ。おれだって同じ機体に乗ってる。だったら……」
「なるほどね。それがアンタの意地?」
「い、意地……ですか?」
首を回しポカンとした顔で見つめてくるシバマル。
赤髪の麗人は肩を竦め、遠い目でモニター越しの空を見つめた。
「意地はいつまでも張り続けられない。他人への対抗意識なら、尚更。目標が遠ければ遠いほど、近づけないジレンマに心が蝕まれるわ。それでも、まだ意地を張る?」
カナタの領域にシバマルが達しているとは正直、言い難い。
【機動天使】の中で最も実力的に劣る彼に、マトヴェイは一切の遠慮なくそう訊いた。
その問いは少年の覚悟を確かめるための儀礼。あるいは、彼をどう導くか方針づける秤。
シバマルの答えに、逡巡はなかった。
「――おれ、あいつと同じ場所で戦いたいんです。そうすればあいつのこと、もっと分かるんじゃないかって思うから。今も眠ってるあいつが何を思って戦ってたか、それを知ることが、何もしてやれなかったおれなりの償いだと思います」
真剣な眼差しを送ってくる少年にマトヴェイがまずしたのは――彼の頭を思いっきり叩くことだった。
ぺしゃり、と頭蓋を震わせる衝撃にシバマルは目を剥く。
「なっ、何するんで――」
「どいつもこいつも、若いのはみんな自罰的で嫌になっちゃうわね。アンタの初志は何なの? 最初から償いのつもりで戦ってきたの? 違うでしょ、犬塚シバマル」
脳裏に天然パーマの青年を過ぎらせながら、マトヴェイは言葉を投げかける。
誰もが何かを始めるときに燃やす炎――色褪せてしまいがちな彼らのそれを暴くのが、一回り年上の大人としてマトヴェイがするべきことだ。
「お、おれは……あいつと、カナタと一緒に飛びたかった。それだけです」
「なら、その気持ちを大切にすることね。辛気臭い顔で償いがどうのとか言うよりも、アンタらしく笑って飛んでたほうがカナタくんもきっと喜ぶわ」
髪をくしゃくしゃと掻き混ぜるように撫でてくる上官に、シバマルは不格好な笑みを浮かべた。
不思議と少し気持ちが楽になった彼は、いま言ったことが照れくさくなって鼻を掻く。
飛空艇はほどなくして基地に着き、一日の航行を終えた彼らは束の間の安息を享受するのであった。




