第百九話 女王の恐怖 ―If I'm rather accompanied only in a desire.―
翌週の日曜日。
正式に【ラジエル】のパイロットとして認められたシバマルは、他の【機動天使】を伴って『レジスタンス』本部を訪れていた。
「【機動天使】初号機、【ラジエル】。本日付で、『学園』パイロットコース二年A組所属の犬塚シバマルをそのパイロットに任命する。……あの子のぶんも、励みなさい」
司令の執務室にて、書状を読み上げるカグヤの言葉にシバマルは最上級の敬礼を返した。
簡易的な任命式が済むと銀髪の女性はそれまでの毅然とした表情を崩し、儚い笑みを浮かべてシバマルを見る。
「犬塚くんは、カナタのお友達だったのよね? 良かったら、聞かせてくれないかしら……あの子のことを。私ね……あの子が何を思って戦ってきたのか、全然知らなかったの」
そこに凛然とした『レジスタンス』司令の姿はなかった。
憔悴しきった声で頼んでくる彼女に、シバマルは「はい」と応じる。
隣に立つレイとユイも同じだった。彼らとの談話が決まったところで、部屋の隅に控えていた老紳士が申し出る。
「では、場所を変えましょうか。三人とも、隣の応接室へどうぞ」
安息日ということもあり、この日の司令の業務は少なかった。
「余裕をもって話せるわね」とソファに掛けながら笑うカグヤは、テーブルを挟んで対面する三人を見つめる。
ユイやレイはすっかり慣れた澄まし顔だが、二人に挟まれているシバマルは緊張でガチガチだ。肩に力が入りすぎている彼の様子を顧みて、カグヤは富岡へ命じた。
「ハーブティーを、富岡。特上のものを用意して」
「かしこまりました」
カナタの脳がショックで萎縮した状態となり、ベッドで寝たきりとなった。その報せを受け取った夜、カグヤは一人泣き崩れた。
計画遂行に必要な最重要の駒が、使い物にならなくなった。伸ばした手の先に掴めるはずだった未来が、そのために消え失せていく。
それは女にとって何よりも認めがたいことだった。【異形】に魅せられたあの日から、カグヤは彼らの全てを支配下に置くために計画を進めてきた。『魔導書】に記された【異形】征伐のプランに添いながらも、彼女は独自に己の欲望のために動いていた。
月居カナタは、ヒトと【異形】を繋ぐ鍵。
彼こそがヒトと【異形】の融和の象徴となりうる存在で、カグヤの支配を実行するための神輿となる人物だった。
夢が潰えていくかもしれない。
その恐れはカグヤを弱らせた。だが、その憔悴の原因が野望が途絶えかねない恐怖だけではないのだと、彼女はしばらくして気づいた。
未熟児として生まれながらも元気よく腕の中で泣いていたカナタ。執務の合間を縫って連れて行ってあげた水族館や動物園、自然公園ではしゃいでいたカナタ。自由研究で賞を取ったオリジナルのロボット模型を自慢してきたカナタ。引きこもり始めて笑顔にも翳りが覗けだしたカナタ。カグヤへ抱きついて最初の試験の勝利を伝えてくれたカナタ。
確かにカグヤは欲望のためにカナタを道具扱いした。彼の身に宿った【異形】を奪うために彼を傷つけた。
『福岡プラント』の悲劇を機に一層【異形】の魅力に取り憑かれ、いつしかカグヤはその野望の駒としてしかカナタを見られなくなっていた。
だが、それでも――母親としての情は、胸の奥に残り続けていたのだ。
彼を失ってようやく、カグヤはそのことに初めて気がついた。
「一緒に朝のトレーニングしたり、夕方にはマナっちと勉強会をしたり……仲良くなってからは毎日のように一緒でした。最初の頃はレイ先生とぶつかることもありましたけど、中間試験を乗り越えた辺りから先生とも仲良くなって……」
「一緒に遊園地に来てくれって頼まれたときは、正直戸惑いましたけどね。寮では同じ部屋でしたけど、試験の日の夜までは会話も殆どありませんでした。まあ彼のほうはたまにボクへ話しかけてくれましたけど、ボクは意地を張って挨拶も返さない有様で。そんな関係が変わったのは、彼があの夜、ボクを救ってくれたから」
身体も心も磨り減らし、カナタを超えるために睡眠時間までも削って訓練を続けていたレイ。
姉や仲間を見捨てた罪悪感、そして力を持ちながら弱気だったカナタに一度負けたという事実が、後先顧みない過酷な訓練へと彼をなげうたせた。
カナタはその呪縛からレイを解き放ってくれたのだ。好きだと、失いたくない人だと彼が言ってくれたから、レイは自分を大切に思えるようになった。
「……最初、わたしはカナタさんが【異形】と同じ魔法を使ったことで、彼が【異形】と繋がっているのではと疑念を抱いていました。そして、それは間違いではなかった。彼が【異形】の力を身体に宿しているのは事実……でも、彼が人を守りたいと心から思っているのもまた、事実でした。だからわたしはカナタさんを信じました。それはきっと、御門中佐や夜桜大佐も同じだったと思います」
ユイの語りにカグヤは湯気の立つハーブティーを一口飲んでから、「そう……」とだけ呟いた。
その使命感はやはり、自分たちの子らしいもの――人類のためにSAMを開発した夫の横顔を思い出し、カグヤは項垂れる。
月居ソウイチロウはカグヤにとって共に働く良きパートナーであり、同じ研究の徒として誰より意気投合した男であり、人類を生存させるため人一倍の使命感をもっていた同類であった。
今も彼が生きていれば、おそらくSAMの発展は数世代は先に進んでいただろうと思われるほどの逸材であった。
カグヤは一回りも年上の彼を本気で愛し、結婚して子供を作った。その愛に嘘はなかった、と彼女は思う。
ただ唯一の不幸は、彼と最後に意見を違えたこと――それだけだった。
「……カナタの試験や遠征での戦いについては、色々と見聞きして知っているわ。ね、彼との日常についてもう少し教えてくれない? 早乙女くんがさっき言っていた遊園地での話とか、他にも彼の普段の姿が見えてくるような話があれば……」
月居カナタとはどういう人間なのだろう。
純粋に、興味があった。カグヤは彼の幼い頃の姿は熟知しているが、引きこもり始めた中学時代以降は会う機会も減ってしまい、彼が何を思って過ごしてきたのかも分からずにいる。
傷ついて自分の世界に閉じこもり、そしてパイロットになるために外界へ出た彼の変化はいかほどのものか、母として理解する義務があると思った。
「カナタは……」
レイやシバマル、ユイがカナタとの思い出を口々に語る最中、カグヤは得体の知れない恐れを覚えた。
それは、未知を紐解くことに喜びを刺激される研究者らしくない感情だった。
カナタの姿が徐々に浮き彫りになっていく。
控えめに笑って友達の輪の隅にいる彼。教室ではヘッドホンをつけてぼうっと窓の外を眺めている彼。少食ゆえに残してしまったご飯をマナカやシバマルに食べてもらっていたという彼。ユイに匂いを嗅がれて顔を真っ赤にしていた彼。レイと寝る前にその日の訓練の反省会をする彼。
(ああ……似ている)
夫に。ソウイチロウ博士に。聞けば聞くほど、その面影が鮮明に蘇ってくる。
見た目はカグヤと瓜二つなのに。中身はむしろ、かなりソウイチロウ寄りだ。
彼もいつだって穏やかに笑っていた。思考に没頭する際はヘッドホンをつけていた。彼も小食だった。彼もカグヤと寝る前に研究の反省点を述べていた。
そこまで考えて、カグヤは先程から湧き上がる恐怖の正体に思い至る。
自分は息子の中に生きる「夫」の性格が怖いのだ。
科学的にありえないと分かっていながらも、彼の中の「夫」が表出して自分へ何か言ってくるのではないかと怯えている。
見た目は自分と合わせ鏡のようにそっくりなカナタが歪な笑みを浮かべ、自分の細い首へ手を伸ばして絞め上げる幻覚をカグヤは見た。
「司令……? どうなさったのですか?」
「し、心配しないで、早乙女くん。ちょっと疲れが出ただけだから」
額には脂汗を滲ませ、息を少し荒くするカグヤは曖昧な笑みを浮かべた。
時計に目をやると、既に談話を始めてから一時間あまりが過ぎていた。
「そろそろお開きにしましょうか。カナタはいつものメディカルルームにいるから、よければ顔を出していって」
それで話は切り上がり、三人の【機動天使】は退室していった。
彼らがいなくなった途端にどっと疲労が押し寄せてきて、カグヤはソファの背もたれに身体を預ける。
脱力して天井を眺める彼女にもう一杯のハーブティーを淹れた富岡は、その傍らに立ったまま嗄れ声で言った。
「やはり悔やんでおいでですか」
「……いつだって、そうね。私だって人間だもの。いっそ獣のように本能だけに、欲望だけに従えたらって何度も思うわ。知恵があるゆえに悩み、それゆえに愚かになる……逃れられぬ人の業、なのかしらね」
月居カグヤは愚者なのだ。
自分に本当の正しさはないと、彼女は信じている。
欲望と使命。その二つを背負い込んだ女が見据えるのは、二つの異なる未来――カグヤが望む【異形】を支配する世界と、ソウイチロウが望んだ【異形】が滅んだ世界だ。
「ねえ、富岡……あなたは自分の欲望を叶えた?」
何気なく発した、思考を自分から他人へと移すための問い。
少しの間を置いて、男は答えた。
「あなたに仕え続けることこそが、富岡めの唯一の欲望でございます」




