転移と出会い
“彼”の代わりの男がこの場所にやってきた。正確には、無理やり来させたんだけれど。それに代わりだから、色々と辻褄が合わなくなるとは思うけれど、ボクの心は喜悦に満ちていた。ようやく表舞台で出番が来るのだと。ようやく世界が動き出すのだと。世界を救えるかもしれないと。
代わりの男には、この場所に来てもらう途中に、彼の記憶をインプットさせた。睡眠学習の様なもので、きっと目が覚めたら、知らない記憶と、それから知らない世界と知らない人々と知らない技術に戸惑うのだろうな。けれど、慣れてもらうしかない。
この世界を救うために。投げられた賽の目が、良き目が出るように。
「さてと、行こうか」
もうじき訪れる出会いのため、ボクは立ち寄った村を後にする。出来るならば、ボクの思うとおりに動いてほしいけれど、そううまくはいかないだろう。それが、人間というものだから。
『俺たちならやれるさ』
#この世界には、二つの宗教がある#
『正義を示そう』
#Kと呼ばれる人を崇めるKの信仰と、Uと呼ばれる神を崇める二つだ#
『血脈に刻まれた因縁に決着をつけよう』
#魔力をもった獣、それ即ち魔獣#
『お前だけは許さない』
#魔力を持って、魔術を操る者、それ即ち魔術師#
#魔術を使っている自分の姿#
『すまない、ここまでだ』
#そして、敗れて崩れ落ちる自分と、友の姿#
それから、それから……
――何も見えず、何も聞こえない暗闇の中。膨大な言葉と情報が頭の中をかき回している。そう感じ始めたのは、ロシアンルーレットの六発目に指をかけてからだ。
死んだはずだというのに、生まれてからこれまでで、最高に脳が回転している。
俺は、死んだのではないのか? それとも生きているのか? だとしたら、この脳髄を駆けまわる言葉の嵐は何を意味するのだろう。まるで赤ちゃんが生まれて、ゼロからその世界を知る事を高速化した様な、この状態は。
『助けて』
「ッ……!」
助けて。女のその言葉が脳裏をよぎった時、突然視界が開けた。冷や水をぶちまけられたかのようにハッキリとした意識は、先ほどまでの奇妙な感覚を引きずったままだった。だからだろうか、座った状態から覗く目の前の景色に対して、さほど驚かなかった。
「見渡す限りの草原に、透きぬける空……」
日本の都会で生きてきた人生と照らし合わせてみると、この風景を見たことはないと断言できる。仮に見たとしても、映画やドラマを見る機会もなかったから、チラシか何かでしか、こんな風景は見たことはないだろう。
だというのに、とても懐かしく感じるのは、暗闇の中で流れ込んできた情報の中に、似た景色があったからだろうか。意識がはっきりした今、思い返してみれば、あれは確実に誰かの記憶だと断言できる。それだけは疑う余地もなく理解できた。そう、できてしまったのだ。だからこそ、疑問が浮かび上がる。
あの中で見た風景は――自らが魔術とやらを使った姿はなんなのだろうか。そして崩れ落ちた自分と、共にいた男……確か銀髪の男は、誰なのだろうか。
正直、訳が分からない。死んだと思ったら、誰かの記憶を追体験して、その中に見覚えのない自分の姿があった。そして目が覚めれば知らない景色。これは夢だと言われた方が、納得がいく。それくらいに突拍子もない出来事の連続だ。
「ん?」
視界の先、僅か数メートルにある草に紛れて、黒光りする何かを目にする。気になって立ち上がってみれば、関節が小刻みよく音を立てた。一度体を伸ばしてから拾ってみると、ここが夢の中でも死後の世界でもないと確証してくれる物があった。
「PYTHON357マグナム……残弾は、一発か」
あの地下で渡された物と同じだ。そして、恐らくは俺が死ぬはずだった弾丸が、シリンダーの中に装填されている。
マグナムを見ていると、背後から不意に人の気配がした。即座に拾ったマグナムを構えて振り返るが、そこにいた少女は困ったような顔を浮かべている。
「ええと、それはなにかな」
短い茶髪と金色の瞳の少女は、マグナムに臆することなく近づいてくる。――そうだ、思い出した。あの記憶の中には、重火器の類がなかった。代わりに、魔術とやらを使っていたが、それに関してはおぼろげだ。
「君が倒れているのをさっき見つけてね、水を持ってきたんだ」
言うと、肩にかけていた布の袋から、タプタプと揺れる革袋を取り出した。
「飲みなよ、あの山から沸いた天然水だよ」
そう言って指差した先には、鬱蒼とした森に囲まれた、見上げるような山がどっしりと構えている。
『助けて』
「ッ!」
その山を目にした数瞬後、暗闇の中で聞いた女の声が、頭痛と共に再び聞こえた。
「だ、大丈夫かい? 顔色が悪いよ? ほら、水飲んで」
「誰だか知らんが、助かる」
渡された革袋には、縄が縛り付けてあった。それを解くと、中には透き通る様な水が揺れていた。それを一気に飲みきると、大きく息を吐いて額に手をやった。頭痛は止んだが、頭の奥で、助けを求める女の声が鳴りやまない。
「そうだ、紹介が遅れたね。ボクはニオ・フィクナー。こう見えても二十歳だよ」
そう言われなければ気づかないほどに小柄な女――ニオは、握手を求めてきた。
「それで、君の名は?」
同時に、答えられない質問も求められた。
あの暗闇の中、名前で呼ばれた気がするが、霧が掛かったように思い出せない。だからといって、名無しだとも言いづらいが……仕方ない、事実を言おう。
「生まれてこの方、名前なんて皆無だ」
両手を上げて苦笑いと共に答えを返すと、ニオは握手する手を引っ込めて腕を組んだ後、考え込み、合点がいったとばかりに口を開いた。
「カイムだね! ファーストネームでしか呼ばれなかったってことは、家族に何か問題でもあるのかい?」
天然なのか、合理的に考えたのか。また握手を求められたが、とにかくそういう意味ではないと言おうとした時、霧が記憶から少し剥がれた。どうやら記憶の中では、似たような名前で呼ばれていたようだ。それに、どういうわけか生きているのだ。おまけに借金もない。ならば、名前の一つも必要だろう。
「まぁ、そんなところだ。よろしく、ニオ」
今度はしっかり握手を交わした。
「それで、君はどこに行くんだい? なんなら、ボクと一緒に旅に出ないか? これから北の王国”アイルデン”に向かおうと思うんだけれど」
ここは知っているようで、知らない世界だ。出来る事なら一緒に行きたいが、まず向かわなければと考えている場所があった。それは、今もどこかから聞こえてくる助けを待つ声の元だ。
「すまない、俺には行く場所があるんだ」
ニオは残念そうな表情を覗かせたが、すぐに笑顔を作ると、「いつか、どこかで」と言い残して、草原の先に見える風車の方へ去って行った。
「さて、いくか」
目指すは、あの山の頂だ。助けを待つ声は、あそこから聞こえてきている。
ボクの計画は、早速崩れてしまった。これでは、カイムと名乗った男がアイルデンに行く事はないかもしれない。しかし、それが人間というものなのは、ついさっきも割り切ったじゃないか。
それに、カイムは”無理やり”ここへ連れてきたのだ。元々あった運命も、歪んでしまう。それは必然だろう。
けれども、運命の結末は大きく変わらないはずだ。そこを良き方へ変えるために、ボクは一人でも進む。せめて、もう一人のキーパーソンが死なないように。
山と言っても、そこまで勾配が急ではなく、緩やかな登山道が続いている。誰かが歩いた足跡もあり、頂に向かう道からは、木々が除けられていた。
登るにつれて、頭に響く助けを待つ声は鮮明になっていく。声のトーンは変わらないが、何度も何度も同じ言葉を聞いていると、うんざりしてくる。そもそも、自分が行ってなんとかなるのか。本当に助けを待つ誰かはいるのか。考えれば考えるほど、新しい疑問が出てくる。そしてその度に、この鬱陶しい助けの言葉に答えなければ面倒だと思いなおす。
やがて、進む先の木々の向こうから、光が差し込んでくる。若干傾いている日は、もうすぐ夕暮れであることを示していた。そんな光の方へと登って行けば、視界が晴れた。どうやら、山頂にたどり着いたようだ。
「これは……」
奇妙な事に、山頂から遠くに見える山々の山肌は禿ている。この山と、周囲の森だけが、自然に恵まれているかのような印象を受けるほどだ。そう遠くを見ていると、頂上から道が、尾根沿いに続いているのを見つけた。ここまで登ってきた道とは違い、どこか仰々しい石畳で作られた先には、一本の大樹がある。八重桜の様に枝を伸ばす大樹だけは、明らかに他の木々とは違う。見ているだけで力が湧いてくるような……それこそ、パワースポットの様な雰囲気だ。
そして、その大樹の下に人影がある。間違いない。助けを求める声の主は、あそこにいる。
一歩、一歩と近づくにつれ、大樹には鎖が巻きつけられている事に気がついた。そして、ようやく大樹の元にたどり着くと、思わず声を失ってしまった。
「――人間、ですか」
掠れるような声を口にする女が、そこにいた。真っ白な髪を地面にまで長く伸ばした女は、大樹に背を預けて座っている。
しかし、その実態は酷かった。大樹に巻きつけられている鎖が、女の足と繋がっており、自由を奪っている。身を包む教会か何かで見る薄汚れたローブは黒ずみ、いくつも穴が開き、顔には殴られた跡が痣として残っている。だが不思議な事に、この女を目にして初めに沸いた感情は、同情などの類ではなく、”親近感”だった。
「……お前か、何度も何度も助けろと言っていた奴は」
確認するまでもないと思ったが、一応聞いておくと、女は呆けた表情で首を傾げていた。
「ごめんなさい、何の事だかわかりません……。ですが、何でも言う通りにしますから、痛い事だけはやめてください……」
「嘘つけ。こうして声を聴いて確信したが、俺はお前の言葉をずっと聴いていたんだよ」
何のことだか、と困惑する女は、荒れてひび割れた唇から、何か言葉を出そうとして、思いとどまっている。
「お前、名前はなんだ。なぜここで、こんな目に合っている」
間違っても正義感や同情心で聞いたわけではない。あくまで、会話を進めるために聞いたまでだ。
「知らない、ということは、遠くからの旅のお方でしょうか……私は、”エルフ”の”リン・クルーズ”といいます」
「エルフ、だと? 真面目に答え――いや、なんでもない」
エルフとは、人間の間に時折生まれる”魔力”に秀でた存在。しかし、特徴として耳が長く、忌み子として扱われている。これもまた、思い出した事だ。よくよく見れば、目の前のリンと名乗った女も、髪に隠れているが、尖った耳がついている。
しかし、同時に思い出したエルフに対する扱いは、悲惨なものだった。奴隷となって、金持ちの慰め物となるか、その魔力を地面に流し、自然が豊かになる様に扱うため、こうして縛り付けておくかのどちらかだ。
リンは後者として、ここにいるのだろう。だが、そんなことはどうでもいい。とっとと頭の中に響く声を止ませるため、リンの足を縛り付けている鎖に目をやった。
「俺は魔力やら魔術について、あまり詳しくないから聞くが、この鎖は普通の鎖か? 破壊できるか?」
よくわからない質問だったのだろうか、リンは何度も言葉を言いかけた後、
「この鎖は、その、私の魔力を吸い取り、同時に私の魔力を封じる役目をしています。ですから、自分で言うのもなんですが……私以下の魔術では破壊できません。あなたから魔力が感じられない以上、この鎖は、その、破壊できないと思います」
「つまり裏を返せば、魔術じゃなければ破壊できるのか」
またしても返答に困ったのか、乾いた唇を何度か開きかけては閉じるのを繰り返すと、よほどの衝撃でないと壊せないと答えられた。それなら、恐らく壊せるだろう。なんといっても、こちらには”あれ”があるのだから。
「今からお前を自由にしてやる。そうでもしなきゃ、この声が鬱陶しくてたまらないからな」
未だに戸惑っているリンをよそに、ベルトに挟んでおいたマグナムを取り出すと、鎖に突き付けた。
「最後の一発だ」
呟き、引き金を引く。ハンマーは弾丸を強打し、高速で回転する鉄の塊が、鎖に放たれた。
轟音と共に、山の鳥たちが飛び立った。それと似たように、リンを縛り付けていた鎖は、粉々に吹き飛んだ。
「声が、止んだな」
ようやく訪れた静寂は、とても懐かしく感じられた。
「おい、いつまでもボォッとしてないで、立ったらどうだ」
リンは、鎖が壊れた事が信じられないのか、唖然としている。そして、ゆっくりと立ち上がると、周囲から強風が吹いた。似たような風が、リンを包むかのように四方から吹き込む。次第に、風は光を帯びて、リンを飲み込んだ。こちらは立っていられずに何歩か後ずさると、片膝を付いて目の前の光景に見入っていた。
「ああ、思い出した。これが魔術だ」
万物を操る術、無から有を作り出す力、奇跡を起こす光……この世界に来て初めて目にした魔術は、記憶の誰よりも力強く、精細だった。
光に包まれたリンが、徐々に姿を現す。ボロボロだったローブは気品のある銀の線が入った長い物へと変わり、地につくほど長かった髪は整えられ、腰のあたりまで伸ばしている。顔の痣も消え、真っ白の肌になった。うっすらと開かれた瞳は青く澄んでいる。
数分前のボロボロな姿はどこへやら。目の前にいるのは、瑞々しく華やかな雰囲気の漂う女性だった。
素直に、今まで見た女の中で一番綺麗だと思った。しかし、リンは奴隷として扱われ、人間を憎んでいるだろう。とばっちりを受けないように、そそくさとその場を後にしようとすると、コートの背が掴まれた。
「離せ、俺は助けてやったんだ。そりゃ人間は憎いだろうが、恩人くらいは見逃してくれても……」
「違います……! 待ってください!」
情けない言葉を並べていると、リンは出会って初めて、声を荒げた。
「あ、あなたには感謝しています! その、心の底から、本当に……その、感謝しているんです……だから、その……」
憎まれてはいない。少なくとも感謝されている。それは分かったが、なぜかリンは怯えているような声音で、途切れ途切れの言葉を紡いでいる。
「要件はなんだ」
あたふたとしているリンに一言告げると、ビクッと体が跳ねていた。
「その、わ、私なら、望まれる大抵の事は出来ます! た、試しに命じてください!」
「何のつもりか知らないが……そうだな、出来ると言うなら、今さっき使った弾丸を作ってくれ。その地面に埋もれている鉄の事だ」
どういうわけだか、リンはこちらから命令されることを待っている。正直、今から走ってニオの元へ戻ろうとも考えていたので、適当な事を口にした。
しかし、リンは頷き、埋もれている弾丸を掘り起した。もし本当に出来るというなら、と考え、シリンダーに残っている薬莢も手渡してやると、リンは膝を付き、二つを両手で包んだ。それを胸元へ持っていくと、手のひらが光り輝いた。そして両手を開くと、信じられないことに、弾丸が数十個落ちてきた。
今度はこちらが呆けてしまう。
「こ、これでいいでしょうか」
不安そうに見上げるリンの言葉で我に返ると、落ちた中から適当に六発拾って装填してみる。大きさは間違いなく作られていることを確認すると、リンを縛り付けていた大樹に六発全てを撃ち込んだ。弾丸は問題なく発射されると、轟音と共に大樹の樹皮を大きく抉った。
間違いない、これは弾丸そのものだ。完璧に作られている。
「お前、すごいんだな」
不安でいっぱいだったリンの顔に、綻びが生まれた。そして、コホンと喉を整えると、リンは頭を大きく下げて、
「わ、私なら、それをいつでも、いくらでも作り出せます! 魔術を使った護衛にもなります! 慰み者として扱われても構いません! 助けていただいたあなたになら、心から忠誠します! ですから、ですから私を……」
「あなたの奴隷にしてください!」
――は? こいつ、今なんと言った?
奴隷にしろ、だと? 助けてやったというのに、自分から自由を捨てるのか?
「何を考えているのかは知らんが、やっかい事は御免だ」
そう言うと、作られた数十発の弾丸を拾い集める。
「たしかにこいつを量産してくれるのはありがたいが、俺は魔術とやらを”使っていた”んだ。今は思い出せないが、いつかは使いこなす。そうしたら、マグナムは使わなくなる」
この世界に来るときに流れ込んできた記憶の中には、魔術を使う己の姿があった。つまり思い出せば、俺にも魔術が使えるはずだ。とはいえ、目の前でプルプルと震えているリンの姿は、どこか放っておけない。出会ったときに感じた”親近感が、足を止めている。
「……素人目線で見ても、お前の魔術は凄まじいだろう。その力で食っていく方法はいくらでもあるはずだ。俺なら、どこへなりとも旅立つね」
まさか、そんな簡単な事が理解できないわけではないだろう。しかし、リンは首を振ると、消え入りそうな声で呟いた。
「エルフとして生まれた人は、どこへ行っても人間に捕まるんです」
なら、魔術で薙ぎ払えばいいだろうと明言する。それでも、リンは首を振った。
「一人のエルフに、人間は百人単位で捕まえに来ます。時には、王国の騎士団が派遣されることもあります……無理なんですよ。私たちエルフが”一人”で生きていくことは」
奴隷になりたい、一人では生きていけない。その二つを頭の中で咀嚼すると、徐々に言いたいことが理解できた。
「お前が俺の奴隷になれば、ここへ連れ戻されることはない。少なくとも、俺の所有物になるから、奪うことは出来ない……そういうことか」
横にばかり振っていた頭が縦に変わると、リンは涙を流して、何度も聞いた言葉を口にした。
「助けて……助けて、ください……」
大粒の涙が零れ落ちると、リンはその場に崩れ落ちた。流れ続ける涙は、悲しみではなく、これから先一人で生きていく事への不安からだろう。
柄ではないが、女の涙には、敵わないものだな。
「連れてってやるよ」
必死に涙を拭うリンへ、手を差し伸べた。
「だが、もう助けてなんて言うな。嫌というほど聞いたからな。その代わりに、俺を助けろ。それから、道案内もしろ。それでいいなら、奴隷でもなんでも好きにすればいい」
ぐしゃぐしゃになった顔は、出会ったときと同じく呆けている。それが驚きに変わり、不安からではない涙が頬を伝ったとき、差し伸べた手に、小さな手のひらが重なった。
「ありがとう、ございます」
そういえば、誰かに感謝されるなんて、いつぶりだろうか。なんというか、悪い気はしないな。
「あ、その、一つ伺っても、よろしいでしょうか」
立ち上がり、ローブの袖で顔を拭いながら、リンは同意を求めている。
「あんまり畏まるな。言いたいことは言え」
そうですか、と頷いたリンは、上目づかいで口にした。
「あなたの、名前はなんでしょう」
いつのまにやら夕暮れが差し込む大樹の下で、ついさっき貰った名前を伝えた。そうすると、リンは”カイム様”などと呼んでくる。悪い気はしないが、なんともこそばゆい。
「そういえば、お前、年はいくつだ」
「ええと、その、ここにずっといたので正式な年数は分かりませんが、二十歳は超えていたと思います」
どれだけここにいたのだろうか。自分の年齢が分からなくなるほどとは、きっと果てしない年月なのだろう。
「カイム様、先ほど道案内もしろと仰られましたが、どこか行先は決まっているのでしょうか」
「いや、正直、右も左もわからない。国の名前はいくつか知っているが、それがどこにあって、どんな国なのかもわからない。だから、行先はお前が決めてくれ」
流石に無茶ぶりだったか、リンは慌てふためいたが、スゥッと深呼吸をすると、目を細めて、
「逃げ延びたエルフたちが集まるという、エルフにとっての理想郷、”アインヘルム”を目指しましょう。そこには人間とエルフが、共存しているとも聞きますので」
なるほど、興味深い。どこかへ行く理由など、この世界なら、それだけあればいいだろう。
「よし、そこに行くぞ」
「はいっ!」
それだけ言うと、リンは初めて笑顔で答えた。こっちです、とウキウキと走って行ったリンの姿にため息を漏らしつつ、黒いロングコートのポケットに手を入れた。あたらしい世界での一歩を、ようやく踏めた気がした。
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ボクの計画に、早速イレギュラーが発生した。あのエルフは、本来カイムと出会うべき存在ではないのだ。しかし、考え方を変えれば強力な仲間が加わったともいえる。初めから歪んでしまった運命は、もしかするといい方向にも転がるかもしれない。それに、まだ賽の目が出るまで時間がかかる。運命の決戦の際に、一人でも多くの人材は必要かもしれない。もっと考えるなら、魔術の使えないカイムがマグナムで戦い、あのエルフが魔術で戦ったり、生活をサポートするのは、もしかすると行幸かもしれない。
何事もポジティブに考えよう。これから先も長いのだから、こんな序盤から落ち込んでいては話にならない。でも、彼は助けに行こう。せめて、真実を伝えるだけでも。